山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 4
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問題文
(「しょうぐんけにごけいじがあって、)
「将軍家に御慶事(ごけいじ)があって、
(しょいりようがかさむからというりゆうらしい」)
諸入用が嵩(かさ)むからという理由らしい」
(「ごけいじだって」)
「御慶事だって」
(「なんでもごちょうあいのつぼねがひめをうんだので、)
「なんでも御寵愛(ごちょうあい)の局(つぼね)が姫を産んだので、
(しょうぐんけはひじょうによろこばれ、)
将軍家はひじょうによろこばれ、
(それをいわうためにいろいろなもよおしがあるそうだ、はっきりとはいわなかったが、)
それを祝うためにいろいろな催しがあるそうだ、はっきりとは云わなかったが、
(よりきはくちうらでそうにおわせていた、それでにいでさんはおこった」)
与力はくちうらでそう匂わせていた、それで新出さんは怒った」
(しょうぐんけにけいじがあったのなら、)
将軍家に慶事があったのなら、
(ざいにんをはなちきんこくをせよするのがとうぜんではないか、)
罪人を放ち金穀(きんこく)を施与するのが当然ではないか、
(きょじょうはそういいたかったのだ。)
去定はそう云いたかったのだ。
(おこったりゆうはそのてんであるが、そんなことをいえるたちばでもなし、)
怒った理由はその点であるが、そんなことを云える立場でもなし、
(いえばかみをそしることになる。)
云えば上(かみ)を謗(そし)ることになる。
(「けいひさくげんのことはしょうちしました、とにいでさんはいわれた、)
「経費削減のことは承知しました、と新出さんは云われた、
(しかし、かよいりょうじをていしすることはできません」)
しかし、かよい療治を停止することはできません」
(はんだゆうはそこでちょっとことばをきり、)
半太夫はそこでちょっと言葉を切り、
(まるでどごうするようにこえをひそめてつづけた、)
まるで怒号するように声をひそめて続けた、
(「ーーかれらはひんきゅうしやんでいるのです、せりょうのていしは、)
「ーーかれらは貧窮し病んでいるのです、施療の停止は、
(そのままかれらをしへおいおとすことです、わたしにはおうけできません、)
そのままかれらを死へ追いおとすことです、私にはお受けできません、
(もういちどごせんぎをねがいます、)
もういちど御詮議(ごせんぎ)を願います、
(ーーそういうなりたって、でてきてしまわれたんだ」)
ーーそう云うなり立って、出て来てしまわれたんだ」
(はなしているあいだに、ちょうしょくをしらせるばんがなった。)
話しているあいだに、朝食を知らせる板(ばん)が鳴った。
(ふたりはそのねをききながら、どちらもたとうとはしなかったし、)
二人はその音を聞きながら、どちらも立とうとはしなかったし、
(はんだゆうのはなしがおわってからも、しばらくじっとすわっていた。)
半太夫の話が終ってからも、暫くじっと坐っていた。
(「おがわしはどうなんだ」やがてのぼるがめをあげてきいた、)
「小川氏はどうなんだ」やがて登が眼をあげて訊いた、
(「あのひとはどっちのがわにたっているんだ」)
「あの人はどっちの側(がわ)に立っているんだ」
(「どっちでもないだろう、ほんとうならかれがそのせっしょうにあたるべきだ、)
「どっちでもないだろう、本当なら彼がその折衝に当るべきだ、
(ようじょうしょのせきにんしゃなんだからな」とはんだゆうがいった、)
養生所の責任者なんだからな」と半太夫が云った、
(「しかしかれはそのせきにすわっていただけだし、ひとこともものをいわなかった、)
「しかし彼はその席に坐っていただけだし、一と言もものを云わなかった、
(ーーおそらくどっちのがわのひとでもないだろうな」)
ーーおそらくどっちの側の人でもないだろうな」
(そしてはんだゆうはたちあがり、「めしにしよう」といってのぼるをみた、)
そして半太夫は立ちあがり、「飯にしよう」と云って登を見た、
(「にいでさんをおこらせないようにきをつけてくれ」)
「新出さんを怒らせないように気をつけてくれ」
(のぼるはじしんがなさそうにだまっていた。)
登は自信がなさそうに黙っていた。
(きょじょうはごぜんちゅうふきげんだった。)
去定は午前ちゅう不機嫌だった。
(むろんおこっているようなそぶりはみせないし、あらいこえをあげるわけでもないが、)
むろん怒っているようなそぶりはみせないし、荒い声をあげるわけでもないが、
(ふきげんでいらいらしていることはようすでわかった。)
不機嫌で苛いらしていることはようすでわかった。
(にゅうしょかんじゃのしんさつから、ちょうざいしょをかきおわるまで、)
入所患者の診察から、調剤書を書き終るまで、
(はんだゆうとのぼるはずっときょじょうについていたが、なにかあるたびに、)
半太夫と登はずっと去定に付いていたが、なにかあるたびに、
(ふたりはたがいにめでけいかいしあった。)
二人は互いに眼で警戒しあった。
(ーーなかなかいいようじゃないか。)
ーーなかなかいいようじゃないか。
(のぼるはこころのなかでそうつぶやいた。)
登は心の中でそう呟いた。
(もりはんだゆうというにんげんがきゅうにちかしく、またこのましくかんじられだしたこと、)
森半太夫という人間が急にちかしく、また好ましく感じられだしたこと、
(しかもそれがすこしもふしぜんでないことにおどろきをかんじた。)
しかもそれが少しも不自然でないことにおどろきを感じた。
(ーーすくなくともつがわよりにんげんらしい。)
ーー少なくとも津川より人間らしい。
(つがわげんぞうが「いなかものですよ」とけいぶしたことをおもいだし、)
津川玄三が「田舎者ですよ」と軽侮したことを思いだし、
(じぶんもおなじようなめでみていたことはわすれて、)
自分も同じような眼で見ていたことは忘れて、
(もりにはまなぶところさえありそうだ、などとおもうのであった。)
森にはまなぶところさえありそうだ、などと思うのであった。
(ちょうざいしょがおわると、きょじょうはがいしゅつのしたくをしながらのぼるをみた。)
調剤書が終ると、去定は外出の支度をしながら登を見た。
(「むじなながやのさはちのぐあいはどうだ」)
「むじな長屋の佐八のぐあいはどうだ」
(「べつにかわりはないようです」)
「べつに変りはないようです」
(「ではさきにまわるところがあるからいっしょにきてくれ」)
「では先に廻るところがあるからいっしょに来てくれ」
(はんだゆうとのぼるはろうかへでた。はんだゆうはちょうざいじょへはいろうとして、)
半太夫と登は廊下へ出た。半太夫は調剤所へはいろうとして、
(のぼるにふりかえりながらいった。)
登に振返りながら云った。
(「きをつけろよ」)
「気をつけろよ」
(のぼるはびしょうしながらうなずいた。)
登は微笑しながら頷いた。