山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 5

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映画でも有名な、山本周五郎の傑作連作短編です。
赤ひげ診療譚の第三話です。

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問題文

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(きょじょうのいったさきはまつだいらいきのかみていであった。)

去定のいった先は松平壱岐守(いきのかみ)邸であった。

(それはうしごめごもんをはいってやくにちょう、)

それは牛込御門をはいって約二丁、

(じょうびけしのあるちょっとてまえだったが、そこへいきつくまで、)

定火消(じょうびけし)のあるちょっと手前だったが、そこへいき着くまで、

(きょじょうはたえまなしにひとりごとをいいつづけた。)

去定は絶えまなしに独り言を云い続けた。

(「かれらにそんなけんりがあるのか、あるとすればだれにあたえられたのか」)

「かれらにそんな権利があるのか、あるとすれば誰に与えられたのか」

(きょじょうはかたてのてくびだけをふる、)

去定は片手の手首だけを振る、

(「らんせいならともかく、てんかはたいへいでありちつじょもととのっている、)

「乱世ならともかく、天下は泰平であり秩序もととのっている、

(ばくふのけんいはてんかをおさえてゆるがず、)

幕府の権威は天下を押えてゆるがず、

(しみんはきょうきょうとそのめいにたがわざらんことをおそれている、)

四民は怯々(きょうきょう)とその命にたがわざらんことを怖れている、

(かれらにはなんでもできるのだ、)

かれらにはなんでもできるのだ、

(どんなむほうなことでもどんなにざんこくなことでも、)

どんな無法なことでもどんなに残酷なことでも、

(ばくふのなをもってこうぜんとおしつけることができる、)

幕府の名をもって公然と押しつけることができる、

(そしてげんにそのとおりやっているんだ」)

そして現にそのとおりやっているんだ」

(「おれはごまかされないぞ」ときょじょうはしたくちびるをそらす、)

「おれはごまかされないぞ」と去定は下唇をそらす、

(「おれはおいぼれのおひとよしかもしれないが、)

「おれは老いぼれのお人好しかもしれないが、

(こんなふうににんげんをぐろうするやりかたにめをつむってはいない、)

こんなふうに人間を愚弄(ぐろう)するやりかたに眼をつむってはいない、

(にんげんをぐろうしけいぶするようなせいじに、)

人間を愚弄し軽侮するような政治に、

(だまってあたまをさげるほどおいぼれでもおひとよしでもないんだ」)

黙って頭をさげるほど老いぼれでもお人好しでもないんだ」

(ほんのしばらくひとりごとがとだえた。)

ほんの暫く独り言がとだえた。

(きょじょうはおおまたのほどをゆるめながら、)

去定は大股(おおまた)の歩度をゆるめながら、

など

(かたてでひげをごしごしとこすった。「むほうにはむほうを」ときょじょうはつぶやいた、)

片手で髯をごしごしとこすった。「無法には無法を」と去定は呟いた、

(「ざんこくには、ざんこくをだ、ーーむりょくなにんげんにぜつぼうやくつうをおしつけるやつには、)

「残酷には、残酷をだ、ーー無力な人間に絶望や苦痛を押しつけるやつには、

(ぜつぼうやくつうがどんなものかあじわわせてやらなければならない、そうじゃないか」)

絶望や苦痛がどんなものか味わわせてやらなければならない、そうじゃないか」

(ながいことそういうぞうおのひとりごとがつづいた。)

長いことそういう憎悪の独り言が続いた。

(きょじょうのこころはいかりとぞうおとで、どすぐろくわきたっているらしい。)

去定の心は怒りと憎悪とで、どす黒く沸きたっているらしい。

(かれはばくふかくりょうをのろい、)

彼は幕府閣僚を呪い、

(ついには、そういうけんりょくにたいするじぶんのむのうをのろった。)

ついには、そういう権力に対する自分の無能を呪った。

(しかしやがて、うしごめごもんをはいったとき、きょじょうはちからなくくびをふり、)

しかしやがて、牛込御門をはいったとき、去定は力なく首を振り、

(みぎてのてくびだけで、なにかをぬぐいさるようなどうさをした。)

右手の手首だけで、なにかをぬぐい去るような動作をした。

(「いや、そうじゃない」ときょじょうはくたびれたようにつぶやいた、)

「いや、そうじゃない」と去定はくたびれたように呟いた、

(「おれにはそんなことはできない、おれはやっぱりおいぼれのおひとよしだ、)

「おれにはそんなことはできない、おれはやっぱり老いぼれのお人好しだ、

(かれらもにんげんだということをしんじよう、)

かれらも人間だということを信じよう、

(かれらのつみはしんののうりょくがないのにけんいのざについたことと、)

かれらの罪は真の能力がないのに権威の座についたことと、

(しらなければならないことをしらないところにある、かれらは」)

知らなければならないことを知らないところにある、かれらは」

(ときょじょうはそこでくちをへのじなりにひきむすんだ、)

と去定はそこで口をへの字なりにひきむすんだ、

(「かれらはもっともひんこんであり、もっともおろかなものよりおろかでむちなのだ、)

「かれらはもっとも貧困であり、もっとも愚かな者より愚かで無知なのだ、

(かれらこそあわれむべきにんげんどもなのだ」)

かれらこそ憐れむべき人間どもなのだ」

(やくろうをしょって、のぼるといっしょにともをしていたたけぞうが、)

薬籠(やくろう)を背負って、登といっしょに供をしていた竹造が、

(いきさまのおやしきです、とうしろからどもりながらこえをかけた。)

壱岐さまのお屋敷です、とうしろから吃りながら声をかけた。

(きょじょうはびっくりしたようにたちどまり、ひだりてをみて、)

去定はびっくりしたように立停り、左手を見て、

(それからたけぞうをにらみつけた。たけぞうはこまったようにのぼるをみ、)

それから竹造を睨(にら)みつけた。竹造は困ったように登を見、

(のぼるはもんばんごやのほうへあゆみよっていった。)

登は門番小屋のほうへ歩みよっていった。

(きょじょうとのぼるはわきげんかんからあがっていった。)

去定と登は脇玄関からあがっていった。

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