山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 10
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問題文
(じきどうをでたのぼるは、そのままじぶんのへやへはいった。)
食堂を出た登は、そのまま自分の部屋へはいった。
(するとまもなくはんだゆうがきてしょうじのむこうからこえをかけた。)
するとまもなく半太夫が来て障子の向うから声をかけた。
(のぼるはきのりのしないこえで、どうぞとこたえた。)
登は気乗りのしない声で、どうぞと答えた。
(「すこしむすようだな」とはんだゆうがいった、「ここをあけておこう」)
「少し蒸すようだな」と半太夫が云った、「ここをあけておこう」
(まどのしょうじをあけてから、かれはすわった。)
窓の障子をあけてから、彼は坐った。
(「きょうはまったくつかれているんだ」)
「今日はまったく疲れているんだ」
(「さけるのはむだだよ」とはんだゆうがいった、「はっきりじじつにぶっつかって、)
「避けるのはむだだよ」と半太夫が云った、「はっきり事実にぶっつかって、
(さっぱりするほうがいいんじゃあないか」)
さっぱりするほうがいいんじゃあないか」
(「ちぐさのことならきくまでもないよ」)
「ちぐさのことなら聞くまでもないよ」
(「じゃあなぜまさをさんにあわないんだ」)
「じゃあなぜまさをさんに会わないんだ」
(「おれが、あわないって」)
「おれが、会わないって」
(「ここへたずねてきて、いっときいじょうもまったことがある」といった、)
「ここへ訪ねて来て、一刻以上も待ったことがある」と云った、
(「いることはわかっていたが、どうしてもあってくれなかった、)
「いることはわかっていたが、どうしても会ってくれなかった、
(といっていたがね」はんだゆうはかるいせきをして、つづけた、)
と云っていたがね」半太夫は軽い咳をして、続けた、
(「ーーきょうはわたしがおうたいにでたんだ、すると、ぜひはなしをきいて、)
「ーー今日は私が応対に出たんだ、すると、ぜひ話を聞いて、
(やすもとさんにつたえてもらいたいことがあるという、)
保本さんに伝えてもらいたいことがあるという、
(たいへんおもいつめているようすなのでわたしのへやへとおしたんだ」)
たいへん思い詰めているようすなので私の部屋へとおしたんだ」
(「ききたくないね」とのぼるはくびをふった、)
「聞きたくないね」と登は首を振った、
(「ちぐさのことなんかききたくない、むねがわるくなるよ」)
「ちぐさのことなんか聞きたくない、胸がわるくなるよ」
(「それならなおさら、きれいにはきだしてしまうがいい、)
「それならなおさら、きれいに吐き出してしまうがいい、
(もんだいはほかにもあるんだ」)
問題はほかにもあるんだ」
(のぼるはうたがわしそうにはんだゆうをみた。)
登は疑わしそうに半太夫を見た。
(「あまのさんはやすもとをここからだして、)
「天野さんは保本をここから出して、
(おめみえいにするてはいをしているそうだ」)
御目見医(おめみえい)にする手配をしているそうだ」
(のぼるのくちびるがきっといちもんじになった。はんだゆうははなしだした。)
登の唇がきっと一文字になった。半太夫は話しだした。
(あまのげんぱくがほういんで、ばくふのおもてごばんいをつとめていることはまえにかいた。)
天野源伯が法印で、幕府の表御番医を勤めていることはまえに書いた。
(げんぱくとのぼるのちちのやすもとりょうあんとは、ふるくからしたしいゆうじんであり、)
源伯と登の父の保本良庵とは、古くから親しい友人であり、
(おたがいのかぞくもしげしげおうらいしていた。)
お互いの家族もしげしげ往来していた。
(あまのにはゆうじろうというだんしと、ふたりのむすめがあった。)
天野には祐二郎(ゆうじろう)という男子と、二人の娘があった。
(のぼるはやすもとのひとりっこだったが、どういうわけか、)
登は保本の一人っ子だったが、どういうわけか、
(げんぱくはじぶんのこのゆうじろうよりものぼるがひいきで、)
源伯は自分の子の祐二郎よりも登が贔屓(ひいき)で、
(のぼるのかおさえみればにこにこし、おまえはひとかどのにんげんになるぞ、)
登の顔さえ見ればにこにこし、おまえはひとかどの人間になるぞ、
(とくりかえしいうのであった。)
と繰り返し云うのであった。
(ーーざんねんながらゆうじろうはだめだ、あいつはゆうげいにんにでもなるつもりらしい、)
ーー残念ながら祐二郎はだめだ、あいつは遊芸人にでもなるつもりらしい、
(しようのないやつだ。)
しようのないやつだ。
(したうちをして、だがおれにもせきにんがあるようだ、)
舌打ちをして、だがおれにも責任があるようだ、
(ふかざけばかりやっていたときのこだから、などともいっていた。)
深酒ばかりやっていたときの子だから、などとも云っていた。
(こうしてのぼるがじゅうくちぐさがじゅうしのときにこんやくができ、)
こうして登が十九ちぐさが十四のときに婚約ができ、
(やがて、のぼるはながさきへゆうがくすることになった。)
やがて、登は長崎へ遊学することになった。
(そのときちぐさはじゅうはちになっていた。かおだちもからだつきもゆったりとして、)
そのときちぐさは十八になっていた。顔だちも躯つきもゆったりとして、
(ものいいもごくのびやかに、ひとことずつゆっくりと、)
もの云いもごくのびやかに、ひと言ずつゆっくりと、
(まをおいてはなすちょうしがしたでもおもいようにかんじられ、)
まをおいて話す調子が舌でも重いように感じられ、
(それがときにはしょうじょのようでもあり、)
それがときには少女のようでもあり、
(またひどくおとなびたいんしょうをあたえるときもあった。)
またひどくおとなびた印象を与えるときもあった。
(「ながさきへたつまえにけっこんしたいと、ちぐさというひとはいったそうだ」)
「長崎へ立つまえに結婚したいと、ちぐさという人は云ったそうだ」
(とはんだゆうはいっていた、「あまのさんもそうのぞんだが、やすもとはことわったという」)
と半太夫は云っていた、「天野さんもそう望んだが、保本は断わったという」
(「ゆうがくのまえにけっこんすることなどできるか、こんやくしてからよねんにもなるし、)
「遊学のまえに結婚することなどできるか、婚約してから四年にもなるし、
(ゆうがくのきかんはさんねんだった」)
遊学の期間は三年だった」
(「あいてはじゅうはっさいだ」とはんだゆうがしずかにさえぎった、)
「相手は十八歳だ」と半太夫が静かに遮(さえぎ)った、
(「おんなのほうからしゅうげんをのぞむのは、それだけのりゆうがあったのだろう、)
「女のほうから祝言を望むのは、それだけの理由があったのだろう、
(やすもとにとってはゆうがくということがだいいちだったが、じゅうはっさいになるおんなにとっては」)
保本にとっては遊学ということが第一だったが、十八歳になる女にとっては」
(のぼるははげしくくびをふり、「よしてくれ」とらんぼうにいった、)
登は激しく首を振り、「よしてくれ」と乱暴に云った、
(「しょせいとみっつうしてしゅっぽんしたおんなのことなんぞ、きくだけでもみみのけがれだ」)
「書生と密通して出奔した女のことなんぞ、聞くだけでも耳のけがれだ」
(「つまり」とはんだゆうがすこしひにくなちょうしでやりかえした、)
「つまり」と半太夫が少し皮肉な調子でやり返した、
(「つまりそれは、みれんがあるということか」)
「つまりそれは、みれんがあるということか」
(のぼるのくちびるがまたいちもんじにひきつった。)
登の唇がまた一文字にひき緊った。
(「おこらずにきいてくれ」とはんだゆうはいった、)
「怒らずに聞いてくれ」と半太夫は云った、
(「もしみれんがないのなら、もうあいてをゆるしてやってもいいはずだ、)
「もしみれんがないのなら、もう相手をゆるしてやってもいい筈だ、
(そのふうふはあまのさんいちぞくとぎぜつのままで、)
その夫婦は天野さん一族と義絶のままで、
(いまこどもがうまれようとしているそうだ、あまのさんにとってははつまごだし、)
いま子供が生れようとしているそうだ、天野さんにとっては初孫だし、
(ちぐささんのほうでもははおやのてをもとめている、ここでやすもとがいかりをとき、)
ちぐささんのほうでも母親の手を求めている、ここで保本が怒りを解き、
(あまのさんにとりなせば、おやこはもとどおりになれるんだ、)
天野さんにとりなせば、親子は元どおりになれるんだ、
(そうしてやるきもちになれないか」)
そうしてやる気持になれないか」
(「まさをはそれをたのみにきたのか」)
「まさをはそれを頼みに来たのか」
(「もうひとつは、やすもとをここからだそうというはなしだ」とはんだゆうがいった、)
「もう一つは、保本をここから出そうという話だ」と半太夫が云った、
(「ここへいれるようにほんそうしたのはあまのさんではなく、)
「ここへ入れるように奔走したのは天野さんではなく、
(やすもとのおちちうえだったそうだ、)
保本のお父上だったそうだ、
(ちぐささんのことでやすもとにまちがいがあってはいけない、)
ちぐささんの事で保本にまちがいがあってはいけない、
(きもちのおちつくまであずかってもらう、というやくそくでいれたのだということだ」)
気持のおちつくまで預かってもらう、という約束で入れたのだということだ」
(だが、あまのげんぱくははじめからはんたいしており、)
だが、天野源伯は初めから反対しており、
(ながくようじょうしょなどにおいてはかえってほんにんのためにならない、)
長く養生所などに置いては却って本人のためにならない、
(かねてやくそくしたとおり、じぶんがおめみえいのせきをてはいするから、)
かねて約束したとおり、自分が御目見医の席を手配するから、
(なるべくはやくここをだすようにと、はなしをすすめているそうだ、)
なるべく早くここを出すようにと、話をすすめているそうだ、
(とはんだゆうはいった。)
と半太夫は云った。
(「それから、もしやすもとがそのきもちになってくれたら、)
「それから、もし保本がその気持になってくれたら、
(じかにあってはなしたいことがある、ともいっていた」)
じかに会って話したいことがある、とも云っていた」
(はんだゆうはそこでやわらかにびしょうした、)
半太夫はそこでやわらかに微笑した、
(「ーーじゅうしちになられるそうだが、まさをさんはこまかくきのまわる、)
「ーー十七になられるそうだが、まさをさんはこまかく気のまわる、
(きれいでかしこいおじょうさんじゃないか、)
きれいで賢いお嬢さんじゃないか、
(やすもとのことがしんぱいできもそぞろというかんじだったよ」)
保本のことが心配で気もそぞろという感じだったよ」