山本周五郎 赤ひげ診療譚 むじな長屋 17

背景
投稿者投稿者uzuraいいね1お気に入り登録
プレイ回数717難易度(4.2) 2573打 長文
映画でも有名な、山本周五郎の傑作連作短編です。
赤ひげ診療譚の第三話です。

関連タイピング

問題文

ふりがな非表示 ふりがな表示

(けいだいをひとまわりしたうえ、ずいしんもんからそとへでると、)

境内を一と廻りしたうえ、随身門(ずいしんもん)から外へ出ると、

(さはちはそばやをみつけて、おなかといっしょにはいり、)

佐八は蕎麦屋をみつけて、おなかといっしょにはいり、

(そのにかいへあがった。にかいにはきゃくがいず、おなかはあかごをおろして、)

その二階へあがった。二階には客がいず、おなかは赤児をおろして、

(ちちをふくませた。)

乳を含ませた。

(ーーおまえのこだね。)

ーーおまえの子だね。

(ーーええ、たきちっていうんです。)

ーーええ、太吉っていうんです。

(ーーもうたんじょうぐらいか。)

ーーもう誕生ぐらいか。

(ーーくがつめです。)

ーー九月めです。

(さはちはむねをえぐられるようにかんじた。)

佐八は胸を抉(えぐ)られるように感じた。

(「のみかなんかつっこまれて、ぐいぐいえぐられるようなきもちでした」)

「鑿(のみ)かなんか突込まれて、ぐいぐい抉られるような気持でした」

(さはちはちょっとまゆをしかめた、)

佐八はちょっと眉をしかめた、

(「ーーにくらしいとか、くやしいとかいうのではなく、)

「ーー憎らしいとか、くやしいとかいうのではなく、

(ただもういじらしくってあわれで、・・・・・・おかしなはなしです、)

ただもういじらしくって哀れで、……おかしなはなしです、

(じぶんのにょうぼうがたにんのこをうみ、めのまえでそのこにちちをのませているんですから、)

自分の女房が他人の子を産み、眼の前でその子に乳を飲ませているんですから、

(ほんとうならおもうぞんぶんやりこめたうえ、はんごろしにでもしてやるところでしょう、)

本当なら思う存分やりこめたうえ、半殺しにでもしてやるところでしょう、

(それがただもうあわれで、あわれで、もしできることなら、)

それがただもう哀れで、哀れで、もしできることなら、

(だきしめていっしょにないてやりたいようなきもちでした」)

抱き緊めていっしょに泣いてやりたいような気持でした」

(のぼるはふところしをだして、そっとさはちのひたいのあせをふいてやった。)

登はふところ紙を出して、そっと佐八の額の汗を拭いてやった。

(そのときはそれでわかれた。さはちはなにもきかず、おなかもなにもはなさなかった。)

そのときはそれで別れた。佐八はなにも訊かず、おなかもなにも話さなかった。

(そばがきたが、ふたりともはしをつけないままで、やがてたちあがり、)

蕎麦が来たが、二人とも箸をつけないままで、やがて立ちあがり、

など

(さはちがあかごをせおわせてやった。)

佐八が赤児を背負わせてやった。

(ーーしあわせにやってるんだね、とさはちがきいた。)

ーー仕合せにやってるんだね、と佐八が訊いた。

(ーーええ、とおなかはくちのなかでこたえた。)

ーーええ、とおなかは口の中で答えた。

(ーーもうあえないだろうな。)

ーーもう逢えないだろうな。

(おなかはこたえずに、せなかのこをゆすっていた。そばやをでたところでわかれ、)

おなかは答えずに、背中の子をゆすっていた。蕎麦屋を出たところで別れ、

(さはちがみおくっていると、まがりかどのところでおなかがふりかえり、)

佐八が見送っていると、曲り角のところでおなかが振返り、

(こっちをみておじぎをした。)

こっちを見ておじぎをした。

(「それからごろくにち、わたしはまったくしごとがてにつかず、)

「それから五六日、私はまったく仕事が手につかず、

(ひさしいことくちにしなかったさけをのんで、よってはね、)

久しいこと口にしなかった酒を飲んで、酔っては寝、

(よってはねるというしまつでした」さはちはそっとあたまをふった、)

酔っては寝るという始末でした」佐八はそっと頭を振った、

(「じぶんのからだのはんぶんがおなかのほうへとられて、)

「自分の躯の半分がおなかのほうへ取られて、

(おなかのやつといっしょにくるしんでいる、といったようなきもちでした、)

おなかのやつといっしょに苦しんでいる、といったような気持でした、

(どういうわけなのか、やっぱりにくいとかくやしいというきはすこしもおこらない、)

どういうわけなのか、やっぱり憎いとかくやしいという気は少しも起こらない、

(わかれたときのうしろすがた、ふりかえっておじぎをしたすがたがめにうかぶと、)

別れたときのうしろ姿、振返っておじぎをした姿が眼にうかぶと、

(ただもうあわれであわれで、いきがとまるようにくるしくなるんです」)

ただもう哀れで哀れで、息が止まるように苦しくなるんです」

(そしてあるひのゆうがた、むじなながやへおなかがたずねてきた。)

そして或る日の夕方、むじな長屋へおなかが訪ねて来た。

(さはちはよってねころんでいた。)

佐八は酔って寝ころんでいた。

(おなかはあかごをつれていず、うちへはいるとそのてでいりぐちのあまどをしめ、)

おなかは赤児を伴(つ)れていず、うちへはいるとその手で入口の雨戸を閉め、

(あがってきて、そっとさはちのそばへすわった。)

あがって来て、そっと佐八の側へ坐った。

(さはちはおなかだということにすぐかんづいた。)

佐八はおなかだということにすぐ感づいた。

(あまどをしめるおとでおなかだなとおもい、それがすこしもいがいでないことにきづいて、)

雨戸を閉める音でおなかだなと思い、それが少しも意外でないことに気づいて、

(かえっておどろいたくらいであった。)

却っておどろいたくらいであった。

(ーーくるまざかのりすけさんにきいてきました、とおなかはささやきこえでいった。)

ーー車坂の利助さんに訊いて来ました、とおなかは囁き声で云った。

(ーーああ、りすけにはいろいろせわになった。)

ーーああ、利助にはいろいろ世話になった。

(ーーそのはなしもききました、すみません、かんにんしてください。)

ーーその話も聞きました、済みません、かんにんして下さい。

(さはちはうめきごえのもれるのをおさえるために、ぜんしんのちからをふりしぼった。)

佐八は呻き声のもれるのを抑えるために、全身の力をふり絞った。

(かれはしずかにおきあがって、あんどんをひきよせた。すでにじこくでもあるし、)

彼は静かに起きあがって、行燈をひきよせた。すでに時刻でもあるし、

(おもてのあまどをしめたので、へやのなかはよるのようにくらかったのだ。)

表の雨戸を閉めたので、部屋の中は夜のように暗かったのだ。

(ーーどうかあかりをつけないでください。)

ーーどうか灯をつけないで下さい。

(おなかはそういってなきだした。)

おなかはそう云って泣きだした。

(ーーかんにんしてくださらないんですか。)

ーーかんにんして下さらないんですか。

(ーーわからない、とさはちはうめくようにいった。じぶんでもそこがわからない、)

ーーわからない、と佐八は呻くように云った。自分でもそこがわからない、

(けれども、いきていてくれてうれしかったとはおもうよ。)

けれども、生きていてくれてうれしかったとは思うよ。

(ーーわけをきいてくださいますか。)

ーーわけを聞いて下さいますか。

(ーーおまえがつらくなければな。)

ーーおまえがつらくなければな。

(おなかはちんもくした。)

おなかは沈黙した。

問題文を全て表示 一部のみ表示 誤字・脱字等の報告

uzuraのタイピング

オススメの新着タイピング

タイピング練習講座 ローマ字入力表 アプリケーションの使い方 よくある質問

人気ランキング

注目キーワード