『汗』岡本かの子1【完】

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重度の知的障害を持つ娘に惚れた青年の話
※分かりやすくする為、表記等を一部改変しております

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問題文

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(「おかねがあせをかいたわ」)

「お金が汗をかいたわ」

(かわちやのむすめのうらこは、そういってまつざきのまえにてのひらをひらいてみせた。)

カワチ屋の娘の浦子は、そういって松崎の前に手のひらを開いて見せた。

(ろーまをとりまくおかのようにほどのよいたかさでもりあがるにくづきのまんなかに、)

ローマを取り巻く丘のように程のよい高さで盛り上がる肉付きの真ん中に、

(いちえんぎんかのかためんがすこしくもってぬれていた。)

一円銀貨の片面が少し曇って濡れていた。

(うらこはこどものときにひどいずいまくえんをわずらったため、)

浦子は子供の時にひどい髄膜炎をわずらった為、

(じゅうどのちてきしょうがいであった。じゅうきゅうにもなるのにろく、ななさいごろのちえしかなかった。)

重度の知的障害であった。十九にもなるのに六、七歳頃の知恵しかなかった。

(しかしおんなのはったつのちからがあたまへむくのをやめて、にくたいいっぽうにそそいだためか)

しかし女の発達の力が頭へ向くのをやめて、肉体一方にそそいだ為か

(うまれつきのびじんのそしつはいきをふきこんだようにひょうめんにはりきった。)

生れつきの美人の素質は息を吹き込んだように表面に張り切った。

(ぼたんのはなにかんなのはなのたくましさをそえたようなうつくしさであった。)

ぼたんの花にかんなの花の逞ましさを添えたような美しさであった。

(「かわちやのいきにんぎょう」ときんじょのものがひょうばんした。うらこはひとりむすめであった。)

「カワチ屋の生き人形」と近所の者が評判した。浦子は一人娘であった。

(それやこれやでおやたちはふびんをそえてかわいがった。)

それやこれやで親たちは不憫を添えて可愛がった。

(じゅうどのちてきしょうがいをもつむすめのおやのいじから、むこはぜひともしゅうさいをと)

重度の知的障害を持つ娘の親の意地から、婿はぜひとも秀才をと

(じゅうにぶんのじょうけんをよういしてはっぽうをさがした。)

十二分の条件を用意して八方を探した。

(かわちやは、とうきょうきんこうのまちきってのしさんかだった。)

カワチ屋は、東京近郊の町きっての資産家だった。

(さんにんほどこくりつだいがくでのせいねんが、すすんでむこのこうほしゃにたった。)

三人ほど国立大学出の青年が、進んで婿の候補者に立った。

(しかしかれらがみあいがてらかわちやにたいざいしているうちに、)

しかし彼等が見合いがてらカワチ屋に滞在しているうちに、

(かれらはことごとくさじをなげた。「かみ」「かみ」と、うらこはべんじょへはいって)

彼等はことごとくさじを投げた。「紙」「紙」と、浦子は便所へ入って

(とをあけたままみらいのおっとをよんで、)

戸を開けたまま未来の夫を呼んで、

(かみをもってこさせるようなきちがいをへいきでした。)

紙を持って来させるようなキチガイを平気でした。

(まつざきはむこのこうほしゃというわけではなかった。)

松崎は婿の候補者というわけではなかった。

など

(ひょうばんをききつけておもしろはんぶん、むすめけんぶつにきたのだった。)

評判を聞きつけて面白半分、娘見物に来たのだった。

(まつざきはあゆつりがすきだったところから、)

松崎はアユ釣りが好きだったところから、

(それをりゆうにどうぎょうのおじからしょうかいじょうをもらってかわちやにとまりこんでいた。)

それを理由に同業の伯父から紹介状を貰ってカワチ屋に泊まり込んでいた。

(このまちのそばにはあゆのいるかわがながれて、きせつのあいだはそうとうにぎわった。)

この町のそばにはアユのいる川が流れて、季節の間は相当にぎわった。

(まつざきはこうかでのけんこうなせいねんで、あきからとうほくのこうざんへつとめる)

松崎は工科出の健康な青年で、秋から東北の鉱山へ勤める

(しゅうしょくぐちもさだまっていた。)

就職口も定まっていた。

(もはやむこようしののぞみもたったおやたちは、)

もはや婿養子の望みも絶った親たちは、

(せめてしょうらいじぶんひとりでようをたせるようにと)

せめて将来自分一人で用を足せるようにと

(うらこににちじょうのやさしいせいかつじむをゆっくりおしえこむことに)

浦子に日常のやさしい生活事務をゆっくり教え込むことに

(どりょくをむけかえていた。まつざきのくるすこしまえごろからうらこは、)

努力を向けかえていた。松崎の来る少し前頃から浦子は、

(まいにちははおやからおかねをわたされてひとりでまちへかいものにいくけいこをさせられていた。)

毎日母親からお金を渡されて一人で町へ買物に行く稽古をさせられていた。

(にわにはふじがさきほこっていた。つきやまをめぐってのぞかれるはなばたけには)

庭には藤が咲きほこっていた。ツキ山をめぐって覗かれる花畑には

(じきたりすのほそいくびのはながゆめのほのおのようにつめたくいくすじもゆらめいていた。)

ジキタリスの細い首の花が夢の炎のように冷たく幾筋もゆらめいていた。

(はやでのかをくおうとぬるいみずにもんどりうついけのまごい。)

早出の蚊を食おうとぬるい水にもんどり打つ池の真鯉。

(なやましくこころがなごむろくがつのゆうがただ。)

なやましく心がなごむ六月の夕方だ。

(まつざきはこばやくかわからあがって、えんがわでどうぐのしまつをしていた。)

松崎は小早く川からあがって、縁側で道具の仕末をしていた。

(つってきたわかあゆのむせるようなにおいがゆうやみにしみていた。)

釣ってきた若アユのむせるような匂いが夕闇にしみていた。

(そこへうらこが「おかねがあせをかいたわ」といってかえってきた。)

そこへ浦子が「お金が汗をかいたわ」といって帰って来た。

(「まつざきさん、こんなおかねでおしおせんかえるかしら」)

「松崎さん、こんなお金でおしおせん買えるかしら」

(このうたがいのために、うらこはそのまましおせんべいやのまえからひきかえしてきたのだ。)

この疑いの為に、浦子はそのまま塩煎餅屋の前から引き返して来たのだ。

(まつざきはめをまるくしてうらこのかおをみた。むっくりたかいはな。)

松崎は目を丸くして浦子の顔を見た。むっくり高い鼻。

(はかったようにえくぼをさゆうへほりこんだまるがおのほほ。)

はかったようにえくぼを左右へ彫り込んだ丸顔のほほ。

(ゆたかにむすんだしゅのくちびる。そしてがのしょっかくのようにほそくこをえがいた)

豊かに結んだ朱の唇。そして蛾の触角のように細く弧をえがいた

(うつくしいまゆのしたに、くろいひとみがどこをみるともなくたたずんでいる。)

美しい眉の下に、黒い瞳がどこを見るともなく佇んでいる。

(げんだいではわそうのはなよめがするかみがたをしており、そこにいってんのしゅうちのかげもない。)

現代では和装の花嫁がする髪型をしており、そこに一点の羞恥の影も無い。

(まつざきはめをおとしてむすめのてのひらをみた。)

松崎は目を落して娘の手のひらを見た。

(こてんてきでわかわかしいろーまのおかのようにもりあがったうらこのてのひらの)

古典的で若々しいローマの丘のように盛り上った浦子の手のひらの

(にくのなかにまるいぎんかのめんは、なかばくもりをふきけしつつある。)

肉の中に丸い銀貨の面は、なかば曇りを吹き消しつつある。

(まつざきはおもわずむすめのてくびをにぎった。そしてむすめのかおをまたみあげた。)

松崎は思わず娘の手首を握った。そして娘の顔をまた見上げた。

(そのとき、まつざきのかおにはあきらかにひとつのかんどうのいろが)

その時、松崎の顔にはあきらかに一つの感動の色が

(うちからひふをかきむしっていた。「こんなおかねでおしおせんかえるかしら」)

内から皮膚をかきむしっていた。「こんなお金でおしおせん買えるかしら」

(まつざきのかおはけっしんした。そしてほっとためいきをついて、)

松崎の顔は決心した。そしてほっと溜め息をついて、

(かわいらしいうらこのてのひらへきすをあたえた。そしていった。)

可愛らしい浦子の手のひらへキスを与えた。そしていった。

(「かえますよ、かえますとも。どれ、そいじゃぼくもいっしょに)

「買えますよ、買えますとも。どれ、そいじゃ僕も一緒に

(いってあげましょう。そしてこれからはあなたがかいものにいくときには、)

行ってあげましょう。そしてこれからはあなたが買い物に行く時には、

(いつでもいっしょにいってあげますよ」)

いつでも一緒に行ってあげますよ」

(そのあきにまつざきはうらこをつまにもらって、とうほくのにんちへたっていった。)

その秋に松崎は浦子を妻に貰って、東北の任地へたって行った。

(これはあのおおがらでひとのよさそうなかへい、いちえんぎんかがあったころのはなしである。)

これはあの大柄で人の良さそうな貨幣、一円銀貨があった頃の話である。

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