紫式部 源氏物語 葵 9 與謝野晶子訳
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問題文
(さいぐうはきょねんにもうごしょのなかへおうつりになるはずであったが、)
斎宮は去年にもう御所の中へお移りになるはずであったが、
(いろいろなさわりがあって、このあきいよいよけっさいせいかつのだいいっぽを)
いろいろな障りがあって、この秋いよいよ潔斎生活の第一歩を
(おふみだしになることとなった。そしてもうくがつからはさがのののみやへ)
お踏み出しになることとなった。そしてもう九月からは嵯峨の野の宮へ
(おはいりになるのである。それとこれとにどあるみそぎのひのしたくに)
おはいりになるのである。それとこれと二度ある御禊の日の仕度に
(やしきのひとびとはぼうさつされているのであるがみやすどころはあたまをぼんやりとさせて、)
邸の人々は忙殺されているのであるが御息所は頭をぼんやりとさせて、
(ねてくらすことがおおかった。なにびょうというほどのことはなくて、)
寝て暮らすことが多かった。何病というほどのことはなくて、
(ぶらぶらとやんでいるのである。げんじからもしじゅうみまいのてがみはくるが、)
ぶらぶらと病んでいるのである。源氏からも始終見舞いの手紙は来るが、
(あいするつまのようだいのわるさは、じぶんでこのひとをたずねてくることなどを)
愛する妻の容体の悪さは、自分でこの人を訪ねて来ることなどを
(できなくしているようであった。 まださんきにははやいようにおもって)
できなくしているようであった。 まだ産期には早いように思って
(いっかのひとびとがゆだんしているうちにあおいのきみはにわかにうみのくるしみに)
一家の人々が油断しているうちに葵の君はにわかに生みの苦しみに
(もだえはじめた。びょうきのきとうのほかにあんざんのいのりもかずおおくはじめられたが、)
もだえ始めた。病気の祈祷のほかに安産の祈りも数多く始められたが、
(れいのしゅうねんぶかいひとつのもののけだけはどうしてもふじんからはなれない。なだかいそうたちも)
例の執念深い一つの物怪だけはどうしても夫人から離れない。名高い僧たちも
(これほどのもののけにはであったけいけんがないといってこまっていた。)
これほどの物怪には出あった経験がないと言って困っていた。
(さすがにほうりきにおさえられて、あわれにないている。)
さすがに法力におさえられて、哀れに泣いている。
(「すこしゆるめてくださいな、たいしょうさんにおはなしすることがあります」)
「少しゆるめてくださいな、大将さんにお話しすることがあります」
(そうふじんのくちからいうのである。 「あんなこと。わけがありますよ。)
そう夫人の口から言うのである。 「あんなこと。わけがありますよ。
(わたくしたちのそうぞうがあたりますよ」 にょうぼうたちはこんなこともいって、)
私たちの想像が当たりますよ」 女房たちはこんなことも言って、
(びょうしょうにそえたてたきちょうのまえへげんじをみちびいた。ふぼたちはたのみすくなくなったむすめは、)
病床に添え立てた几帳の前へ源氏を導いた。父母たちは頼み少なくなった娘は、
(おっとになにかいいおくことがあるのかもしれないとおもってざをさけた。)
良人に何か言い置くことがあるのかもしれないと思って座を避けた。
(このときにかじをするそうがこえをひくくしてほけきょうをよみだしたのが)
この時に加持をする僧が声を低くして法華経を読み出したのが
(ひじょうにありがたいきのすることであった。きちょうのたれぎぬをひきあげて)
非常にありがたい気のすることであった。几帳の垂れ絹を引き上げて
(げんじがなかをみると、ふじんはうつくしいかおをして、そしてふくぶだけがもりあがったかたちで)
源氏が中を見ると、夫人は美しい顔をして、そして腹部だけが盛り上がった形で
(ねていた。たにんでもなみだなしにはみられないのを、ましておっとであるげんじがみて)
寝ていた。他人でも涙なしには見られないのを、まして良人である源氏が見て
(おしくかなしくおもうのはどうりである。しろいきものをきていて、かおいろはびょうねつで)
惜しく悲しく思うのは道理である。白い着物を着ていて、顔色は病熱で
(はなやかになっている。たくさんなながいかみはなかほどでたばねられて、)
はなやかになっている。たくさんな長い髪は中ほどで束ねられて、
(まくらにそえてある。びじょがこんなふうでいることは)
枕に添えてある。美女がこんなふうでいることは
(もっともみわくてきなものであるとみえた。げんじはつまのてをとって、)
最も魅惑的なものであると見えた。源氏は妻の手を取って、
(「かなしいじゃありませんか。わたくしにこんなくるしいおもいをおさせになる」)
「悲しいじゃありませんか。私にこんな苦しい思いをおさせになる」
(おおくものがいわれなかった。ただなくばかりである。へいぜいはげんじに)
多くものが言われなかった。ただ泣くばかりである。平生は源氏に
(ましょうめんからみられるととてもきまりわるそうにして、よこへそらすそのめで)
真正面から見られるととてもきまりわるそうにして、横へそらすその目で
(じっとおっとをみあげているうちになみだがそこからながれてでるのであった。)
じっと良人を見あげているうちに涙がそこから流れて出るのであった。
(それをみてげんじがふかいあわれみをおぼえたことはいうまでもない。)
それを見て源氏が深い憐みを覚えたことはいうまでもない。
(あまりになくのをみて、のこしていくおやたちのことをかんがえたり、またじぶんをみて、)
あまりに泣くのを見て、残して行く親たちのことを考えたり、また自分を見て、
(わかれのたえがたいかなしみをおぼえるのであろうとげんじはおもった。)
別れの堪えがたい悲しみを覚えるのであろうと源氏は思った。
(「そんなにかなしまないでいらっしゃい。それほどきけんなじょうたいでないとわたくしはおもう。)
「そんなに悲しまないでいらっしゃい。それほど危険な状態でないと私は思う。
(またたとえどうなってもめおとはらいせであえるのだからね。ごりょうしんもおやこのえんの)
またたとえどうなっても夫婦は来世で逢えるのだからね。御両親も親子の縁の
(むすばれたあいだがらはまたとくべつなえんでらいせでさいかいができるのだとしんじていらっしゃい」)
結ばれた間柄はまた特別な縁で来世で再会ができるのだと信じていらっしゃい」
(とげんじがなぐさめると、 「そうじゃありません。わたくしはくるしくてなりませんから)
と源氏が慰めると、 「そうじゃありません。私は苦しくてなりませんから
(しばらくほうりきをゆるめていただきたいとあなたにおねがいしようとしたのです。)
しばらく法力をゆるめていただきたいとあなたにお願いしようとしたのです。
(わたくしはこんなふうにしてこちらへでてこようなどとはおもわないのですが、)
私はこんなふうにしてこちらへ出て来ようなどとは思わないのですが、
(ものおもいをするひとのたましいというものはほんとうにじぶんからはなれていくものなのです」)
物思いをする人の魂というものはほんとうに自分から離れて行くものなのです」
(なつかしいちょうしでそういったあとで、 )
なつかしい調子でそう言ったあとで、
(なげきわびそらにみだるるわがたまをむすびとめてよしたがいのつま )
歎きわび空に乱るるわが魂を結びとめてよ下がひの褄
(というこえもようすもふじんではなかった。まったくかわってしまっているのである。)
という声も様子も夫人ではなかった。まったく変わってしまっているのである。
(あやしいとおもってかんがえてみると、ふじんはすっかりろくじょうのみやすどころになっていた。)
怪しいと思って考えてみると、夫人はすっかり六条の御息所になっていた。
(げんじはあさましかった。ひとがいろいろなうわさをしても、)
源氏はあさましかった。人がいろいろな噂をしても、
(くだらぬひとがいいだしたこととして、これまでげんじのひていしてきたことが)
くだらぬ人が言い出したこととして、これまで源氏の否定してきたことが
(がんぜんにじじつとなってあらわれているのであった。こんなことが)
眼前に事実となって現れているのであった。こんなことが
(このよにありもするのだとおもうと、じんせいがいやなものにおもわれだした。)
この世にありもするのだと思うと、人生がいやなものに思われ出した。
(「そんなことをおいいになっても、あなたがだれであるかわたくしはしらない。)
「そんなことをお言いになっても、あなたがだれであるか私は知らない。
(たしかになをいってごらんなさい」 げんじがこういったのちのそのひとは)
確かに名を言ってごらんなさい」 源氏がこう言ったのちのその人は
(ますますみやすどころそっくりにみえた。あさましいなどということばでは)
ますます御息所そっくりに見えた。あさましいなどという言葉では
(いいたりないおかんをげんじはおぼえた。にょうぼうたちがちかくよってくるけはいにも、)
言い足りない悪感を源氏は覚えた。女房たちが近く寄って来る気配にも、
(げんじはそれをみあらわされはせぬかとむねがとどろいた。びょうくにもだえるこえが)
源氏はそれを見現わされはせぬかと胸がとどろいた。病苦にもだえる声が
(すこししずまったのは、ちょっとらくになったのではないかとみやさまがのみゆをもたせて)
少し静まったのは、ちょっと楽になったのではないかと宮様が飲み湯を持たせて
(およこしになったとき、そのにょうぼうにだきおこされてまもなくこがうまれた。)
およこしになった時、その女房に抱き起こされて間もなく子が生まれた。
(げんじがひじょうにうれしくおもったとき、ほかのにんげんにうつしてあったのがみなくちおしがって)
源氏が非常にうれしく思った時、他の人間に移してあったのが皆口惜しがって
(もののけはさわぎたった。それにまだあとざんもすまぬのであるから)
物怪は騒ぎ立った。それにまだ後産も済まぬのであるから
(すくなからぬふあんがあった。おっととりょうしんがしんぶつにたいがんをたてたのはこのときである。)
少なからぬ不安があった。良人と両親が神仏に大願を立てたのはこの時である。
(そのせいであったかすべてがぶじにすんだので、えいざんのざすをはじめ)
そのせいであったかすべてが無事に済んだので、叡山の座主をはじめ
(こうそうたちが、だれもみなほこらかにあせをぬぐいぬぐいかえっていった。)
高僧たちが、だれも皆誇らかに汗を拭い拭い帰って行った。
(これまでしんぱいをしつづけていたひとはほっとして、きけんもこれでさったという)
これまで心配をし続けていた人はほっとして、危険もこれで去ったという
(あんしんをおぼえてかいふくのしょこうもあらわれたとだれもがおもった。しゅほうなどはまたあらためて)
安心を覚えて恢復の曙光も現われたとだれもが思った。修法などはまた改めて
(おこなわせていたが、いまもくぜんにあたらしいいのちがひとつしゅつげんしたことにたいするかんきが)
行なわせていたが、今目前に新しい命が一つ出現したことに対する歓喜が
(おおきくて、さだいじんけはきのうにかわるこうふくにみたされたかたちである。)
大きくて、左大臣家は昨日に変わる幸福に満たされた形である。
(いんをはじめとしてしんのうかた、こうかんたちからはでなうぶやしないのがえんがまいよもちこまれた。)
院をはじめとして親王方、高官たちから派手な産養の賀宴が毎夜持ち込まれた。
(しゅっしょうしたのはだんしでさえもあったから)
出生したのは男子でさえもあったから
(それらのぎしきがことさらはなやかであった。)
それらの儀式がことさらはなやかであった。