紫式部 源氏物語 葵 14 與謝野晶子訳

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(げんじはまだつれづれさをまぎらすことができなくて、あさがおのにょおうへ、)

源氏はまだつれづれさを紛らすことができなくて、朝顔の女王へ、

(じょうみのあるせいしつのひとはきょうのじぶんをあわれにおもってくれるであろう)

情味のある性質の人は今日の自分を哀れに思ってくれるであろう

(というたのみがあっててがみをかいた。もうくらかったがつかいをだしたのである。)

という頼みがあって手紙を書いた。もう暗かったが使いを出したのである。

(したしいこうさいはないが、こんなふうにときたまてがみのくることは)

親しい交際はないが、こんなふうに時たま手紙の来ることは

(もうふるくからのことでなれているにょうぼうはすぐににょおうへみせた。)

もう古くからのことで馴れている女房はすぐに女王へ見せた。

(あきのゆうべのそらのいろとおなじとうしに、 )

秋の夕べの空の色と同じ唐紙に、

(わきてこのくれこそそではつゆけけれものおもうあきはあまたへぬれど )

わきてこの暮こそ袖は露けけれ物思ふ秋はあまた経ぬれど

(「かんなづきいつもしぐれはふりしかど」というように。 とかいてあった。)

「神無月いつも時雨は降りしかど」というように。 と書いてあった。

(ことにちゅういしてかいたらしいげんじのじはうつくしかった。これにたいしてもと)

ことに注意して書いたらしい源氏の字は美しかった。これに対してもと

(にょうぼうたちがいい、にょおうじしんもそうおもったのでへんじはかいてだすことになった。)

女房たちが言い、女王自身もそう思ったので返事は書いて出すことになった。

(このごろのおさびしいごききょはそうぞういたしながら、)

このごろのお寂しい御起居は想像いたしながら、

(おたずねすることもまたごえんりょされたのでございます。 )

お尋ねすることもまた御遠慮されたのでございます。

(あきぎりにたちおくれぬとききしよりしぐるるそらもいかがとぞおもう )

秋霧に立ちおくれぬと聞きしより時雨るる空もいかがとぞ思ふ

(とだけであった。ほのかなかきようで、こころにくさのおぼえられる)

とだけであった。ほのかな書きようで、心憎さの覚えられる

(てがみであった。けっこんしたあとにいぜんこいびとであったときよりも)

手紙であった。結婚したあとに以前恋人であった時よりも

(あいてがよくおもわれることはまれなことであるが、げんじのせいへきからも)

相手がよく思われることは稀なことであるが、源氏の性癖からも

(まだえられないこいびとのすることは)

まだ得られない恋人のすることは

(なにひとつこころをひかないものはないのである。れいせいはれいせいでもそのばあいばあいに)

何一つ心を惹かないものはないのである。冷静は冷静でもその場合場合に

(どうじょうをおしまないあさがおのにょおうとはえいきゅうにゆうあいをかわしていくかのうせいがあるとも)

同情を惜しまない朝顔の女王とは永久に友愛をかわしていく可能性があるとも

(げんじはおもった。あまりにひぼんなおんなはじしんのもつさいしきがかえってわざわいにも)

源氏は思った。あまりに非凡な女は自身の持つ才識がかえって禍いにも

など

(なるものであるから、にしのたいのひめぎみをそうはきょういくしたくないともおもっていた。)

なるものであるから、西の対の姫君をそうは教育したくないとも思っていた。

(じぶんがかえらないことでどんなにさびしがっていることであろうと、)

自分が帰らないことでどんなに寂しがっていることであろうと、

(むらさきのにょおうのあたりがこいしかったが、それはちょうどははおやをなくしたむすめを)

紫の女王のあたりが恋しかったが、それはちょうど母親を亡くした娘を

(いえにおいておくちちおやににたかんじょうでおもうのであって、うらまれはしないか、)

家に置いておく父親に似た感情で思うのであって、恨まれはしないか、

(うたがってはいないだろうかとふあんなようなことではなかった。)

疑ってはいないだろうかと不安なようなことではなかった。

(すっかりよるになったので、げんじはひをちかくへおかせてよいにょうぼうたちだけをみな)

すっかり夜になったので、源氏は灯を近くへ置かせてよい女房たちだけを皆

(いまへよんではなしあうのであった。ちゅうなごんのきみというのはずっとまえから)

居間へ呼んで話し合うのであった。中納言の君というのはずっと前から

(じょうじんかんけいになっているひとであったが、このきちゅうはかえってそうしたひととして)

情人関係になっている人であったが、この忌中はかえってそうした人として

(げんじがとりあつかわないのを、ちゅうなごんのきみはふじんへのげんじのこころざしとしてそれを)

源氏が取り扱わないのを、中納言の君は夫人への源氏の志としてそれを

(うれしくおもった。ただしゅじゅうとしてこのひとともきわめてむつまじくかたっているのである。)

うれしく思った。ただ主従としてこの人とも極めて睦じく語っているのである。

(「このごろはだれともまいにちこうしていっしょにくらしているのだから、)

「このごろはだれとも毎日こうしていっしょに暮らしているのだから、

(もうすっかりこのせいかつになれてしまったわたくしは、みなといっしょに)

もうすっかりこの生活に馴れてしまった私は、皆といっしょに

(いられなくなったら、さびしくないだろうか。おくさんのなくなったことは)

いられなくなったら、寂しくないだろうか。奥さんの亡くなったことは

(べつとして、ちょっとかんがえてみてもじんせいにはいろいろなかなしいことがおおいね」)

別として、ちょっと考えてみても人生にはいろいろな悲しいことが多いね」

(とげんじがいうと、はじめからないているものもあったにょうぼうたちは、)

と源氏が言うと、初めから泣いているものもあった女房たちは、

(みなないてしまって、 「おくさまのことはおもいだすだけでせかいがくらくなるほど)

皆泣いてしまって、 「奥様のことは思い出すだけで世界が暗くなるほど

(かなしゅうございますが、こんどまたあなたさまがこちらからいって)

悲しゅうございますが、今度またあなた様がこちらから行って

(おしまいになって、すっかりよそのかたにおなりあそばすことをおもいますと」)

おしまいになって、すっかりよその方におなりあそばすことを思いますと」

(いうことばがおわりまでつづかない。げんじはだれにもどうじょうのめをむけながら、)

言う言葉が終わりまで続かない。源氏はだれにも同情の目を向けながら、

(「すっかりよそのひとになるようなことがどうしてあるものか。わたくしをそんな)

「すっかりよその人になるようなことがどうしてあるものか。私をそんな

(けいはくなものとみているのだね。きながにみていてくれるひとがあれば)

軽薄なものと見ているのだね。気長に見ていてくれる人があれば

(わかるだろうがね。しかしまたわたくしのいのちがどうなるだろう、そのじしんはない」)

わかるだろうがね。しかしまた私の命がどうなるだろう、その自信はない」

(といって、ひをみつめているげんじのめになみだがひかっていた。とくべつにふじんが)

と言って、灯を見つめている源氏の目に涙が光っていた。特別に夫人が

(かわいがっていたおやもないどうじょが、こころぼそそうなかおをしているのを、)

かわいがっていた親もない童女が、心細そうな顔をしているのを、

(もっともであるとげんじはあわれにおもった。 「あてきはもうわたくしにだけしか)

もっともであると源氏は哀れに思った。 「あてきはもう私にだけしか

(かわいがってもらえないひとになったのだね」 げんじがこういうと、)

かわいがってもらえない人になったのだね」 源氏がこう言うと、

(そのこはこえをたててなくのである。からだそうおうなみじかいあこめをくろいいろにして、)

その子は声を立てて泣くのである。からだ相応な短い衵を黒い色にして、

(くろいかざみにかばいろのはかまというすがたもかれんであった。)

黒い汗袗に樺色の袴という姿も可憐であった。

(「おくさんのことをわすれないひとは、つまらなくてもがまんして、)

「奥さんのことを忘れない人は、つまらなくても我慢して、

(わたくしのちいさいこどもといっしょにくらしていてください。みながちりぢりに)

私の小さい子供といっしょに暮していてください。皆が散り散りに

(なってしまってはいっそうむかしがかげもかたちもなくなってしまうからね。)

なってしまってはいっそう昔が影も形もなくなってしまうからね。

(こころぼそいよそんなことは」 げんじがたがいにながくあいをもっていこうといっても、)

心細いよそんなことは」 源氏が互いに長く愛を持っていこうと行っても、

(にょうぼうたちはそうだろうか、むかしいじょうにまちどおしいひがかさなるのではないかと)

女房たちはそうだろうか、昔以上に待ち遠しい日が重なるのではないかと

(ふあんでならなかった。 だいじんはにょうぼうたちに、みぶんやねんこうでさをつけて、)

不安でならなかった。 大臣は女房たちに、身分や年功で差をつけて、

(こじんのあいしたてまわりのしな、それからいるいなどを、めにたつほどにしないで)

故人の愛した手まわりの品、それから衣類などを、目に立つほどにしないで

(じょうひんにわけてやった。)

上品に分けてやった。

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