『怪人二十面相』江戸川乱歩5
○少年探偵団シリーズ第1作品『怪人二十面相』
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問題文
(ふだんはどきょうがすわっているそうたろうしのかおも、)
普段は度胸がすわっている壮太郎氏の顔も、
(さすがにいくらかあおざめて、ひたいにはうっすら)
さすがにいくらか青ざめて、ひたいにはうっすら
(あせがにじみだしています。そういちくんも、ひざのうえに)
汗がにじみだしています。壮一君も、ひざの上に
(にぎりこぶしをかためて、はをくいしばるように)
握りこぶしを固めて、歯を食いしばるように
(しています。ふたりのいきづかいや、うでどけいのびょうをきざむ)
しています。二人の息遣いや、腕時計の秒を刻む
(おとまでがきこえるほど、へやのなかはしずまりかえって)
音までが聞こえるほど、部屋の中は静まり返って
(いました。「あとなんぷんだね」「あとじゅっぷんです」)
いました。「あと何分だね」「あと十分です」
(するとそのとき、なにかちいさくてしろいものが、)
するとその時、何か小さくて白い物が、
(じゅうたんのうえをことことはしっていくのが、)
じゅうたんの上をコトコト走っていくのが、
(ふたりのめのすみにうつりました。おや、はつかねずみ)
二人の目の隅に映りました。おや、はつかネズミ
(だろうか。そうたろうしはおもわずぎょっとして、うしろの)
だろうか。壮太郎氏は思わずギョッとして、後ろの
(つくえのしたをのぞきました。しろいものは、どうやらつくえのした)
机の下をのぞきました。白い物は、どうやら机の下
(へかくれたようにみえたからです。「なあんだ、)
へ隠れたように見えたからです。「なあんだ、
(ぴんぽんのたまじゃないか。だが、こんなものが、)
ピンポンの玉じゃないか。だが、こんな物が、
(どうしてころがってきたんだろう」つくえのしたから)
どうして転がってきたんだろう」 机の下から
(それをひろって、ふしぎそうにながめました。)
それを拾って、不思議そうにながめました。
(「おかしいですね。そうじくんが、そのへんのたなのうえに)
「おかしいですね。壮二君が、そのへんの棚の上に
(おきわすれていたのが、なにかのはずみでおちた)
置き忘れていたのが、何かのはずみで落ちた
(のじゃありませんか」「そうかもしれない。)
のじゃありませんか」「そうかもしれない。
(ところでじかんはどうだ」そうたろうしの)
ところで時間はどうだ」 壮太郎氏の
(じかんをたずねるかいすうが、だんだんひんぱんに)
時間をたずねる回数が、段々ひんぱんに
(なってくるのです。「あとよんふんです」ふたりは)
なってくるのです。「あと四分です」 二人は
(めとめをみあわせました。びょうをきざむおとがこわい)
目と目を見合わせました。秒を刻む音が怖い
(ようでした。さんぷん、にふん、いっぷん、じりじりと、)
ようでした。三分、二分、一分、ジリジリと、
(そのときがせまってきます。にじゅうめんそうは、もうへいを)
その時が迫ってきます。二十面相は、もう塀を
(のりこえたかもしれません。いまごろは、ろうかを)
乗り越えたかもしれません。今頃は、廊下を
(あるいているかもしれません。いや、もうどあのそとに)
歩いているかもしれません。いや、もうドアの外に
(きて、じっとみみをすましているかもしれません。)
来て、ジッと耳をすましているかもしれません。
(ああ、いまにもおそろしいおとをたてて、どあがはかい)
ああ、今にも恐ろしい音をたてて、ドアが破壊
(されるのではないでしょうか。「おとうさん、)
されるのではないでしょうか。「お父さん、
(どうかなさったのですか」「いやいや、)
どうかなさったのですか」「いやいや、
(なんでもない。わしはにじゅうめんそうなんかにまけやしない」)
なんでもない。わしは二十面相なんかに負けやしない」
(そうはいうものの、そうたろうしは、もうまっさおに)
そうは言うものの、壮太郎氏は、もう真っ青に
(なって、りょうてでひたいをおさえているのです。)
なって、両手でひたいを押さえているのです。
(さんじゅうびょう、にじゅうびょう、じゅうびょうと、ふたりのしんぞうのこどうを)
三十秒、二十秒、十秒と、二人の心臓の鼓動を
(あわせて、いきづまるようなおそろしいときがすぎ)
あわせて、息詰まるような恐ろしい時が過ぎ
(さっていきました。「おい、じかんはどうだ」)
さっていきました。「おい、時間はどうだ」
(そうたろうしの、うめくようなこえがたずねます。)
壮太郎氏の、うめくような声がたずねます。
(「じゅうにじいっぷんすぎです」「なに、いっぷんすぎたのか。)
「十二時一分過ぎです」「なに、一分過ぎたのか。
(あははは、どうだそういち、にじゅうめんそうのよこくじょうも、)
アハハハ、どうだ壮一、二十面相の予告状も、
(あてにならんじゃないか。ほうせきはここにちゃんと)
あてにならんじゃないか。宝石はここにちゃんと
(あるぞ。なんのいじょうもないぞ」そうたろうしは)
あるぞ。なんの異常もないぞ」 壮太郎氏は
(かちほこり、おおごえでわらいました。しかしそういちくんは、)
勝ち誇り、大声で笑いました。しかし壮一君は、
(にっこりともしません。「ぼくはしんじられません。)
ニッコリともしません。「ぼくは信じられません。
(ほうせきに、はたしていじょうはないのでしょうか。)
宝石に、果たして異常はないでのしょうか。
(にじゅうめんそうは、よこくにそむくおとこでしょうか」)
二十面相は、予告にそむく男でしょうか」
(「なにをいっているんだ。ほうせきはめのまえにある)
「なにを言っているんだ。宝石は目の前にある
(じゃないか」「でも、それははこです」「すると、)
じゃないか」「でも、それは箱です」「すると、
(おまえは、はこだけがあって、なかみのだいやもんどが)
お前は、箱だけがあって、中身のダイヤモンドが
(どうにかしたとでもいうのか」「たしかめてみたい)
どうにかしたとでも言うのか」「確かめてみたい
(のです。たしかめるまでは、あんしんできません」)
のです。確かめるまでは、安心できません」
(そうたろうしはおもわずたちあがって、こばこをりょうてで)
壮太郎氏は思わず立ち上がって、小箱を両手で
(おさえつけました。そういちくんもたちあがりました。)
押さえつけました。壮一君も立ち上がりました。
(ふたりのめがやくいっぷんかん、いようににらみあったまま、)
二人の目が約一分間、異様ににらみあったまま、
(うごきませんでした。「じゃ、あけてみよう。)
動きませんでした。「じゃ、あけてみよう。
(そんなばかなことが、あるはずない」ぱちんとこばこの)
そんなバカなことが、あるはずない」パチンと小箱の
(ふたがひらかれたのです。とどうじに、そうたろうしの)
フタがひらかれたのです。と同時に、壮太郎氏の
(くちからあっというさけびごえが、ほとばしりました。)
口からアッという叫び声が、ほとばしりました。
(ないのです。くろいびろーどのだいざのうえは、からっぽ)
無いのです。黒いビロードの台座の上は、空っぽ
(なのです。ゆいしょただしいにひゃくまんえんのだいやもんどは、)
なのです。由緒正しい二百万円のダイヤモンドは、
(まるでじょうはつでもしたように、きえていたのでした。)
まるで蒸発でもしたように、消えていたのでした。
(「まほうつかい」)
「魔法使い」
(しばらくのあいだ、ふたりともだまりこくって、)
しばらくのあいだ、二人とも黙りこくって、
(あおざめたかおをみあわせるのみでしたが、)
青ざめた顔を見合わせるのみでしたが、
(やっとそうたろうしは、さもいまいましそうに)
やっと壮太郎氏は、さも忌々しそうに
(「ふしぎだ」と、つぶやきました。「ふしぎですね」)
「不思議だ」と、つぶやきました。「不思議ですね」
(そういちくんも、おうむがえしにおなじことをつぶやきました。)
壮一君も、オウム返しに同じことをつぶやきました。
(しかし、みょうなことにそういちくんは、いっこうに)
しかし、みょうなことに壮一君は、いっこうに
(おどろいたり、しんぱいしたりしているようすが)
驚いたり、心配したりしている様子が
(ありません。くちびるのすみに、なんだかうすわらいの)
ありません。唇の隅に、なんだか薄笑いの
(かげさえみえます。「とじまりにいじょうはないし、)
影さえ見えます。「戸締まりに異常はないし、
(それに、だれかがはいってくれば、このわしのめに)
それに、だれかが入ってくれば、このわしの目に
(うつらぬはずはない。まさか、ぞくはゆうれいのように、)
映らぬはずはない。まさか、賊は幽霊のように、
(どあのかぎあなからではいりしたわけではなかろう)
ドアのカギ穴から出はいりした訳ではなかろう
(からね」「そうですとも。いくらにじゅうめんそうでも、)
からね」「そうですとも。いくら二十面相でも、
(ゆうれいにばけることはできないでしょう」「すると、)
幽霊に化けることは出来ないでしょう」「すると、
(このへやにいて、だいやもんどにてをふれることが)
この部屋に居て、ダイヤモンドに手をふれることが
(できたものは、わしとおまえのほかにはいないのだ」)
出来た者は、わしとお前の他には居ないのだ」
(そうたろうしは、なにかうたがわしげなひょうじょうで、じっと)
壮太郎氏は、何か疑わしげな表情で、ジッと
(わがこのかおをみつめました。「そうです。)
我が子の顔を見つめました。「そうです。
(あなたとぼくのほかには、おりません」そういちくんの)
あなたとぼくの他には、おりません」 壮一君の
(うすわらいがだんだんはっきりして、にこにこと)
薄笑いが段々ハッキリして、ニコニコと
(わらいはじめたのです。「おい、そういち、おまえなにを)
笑い始めたのです。「おい、壮一、お前なにを
(わらっているのだ。なにがおかしいのだ」そうたろうしは)
笑っているのだ。何がおかしいのだ」壮太郎氏は
(はっとしたように、かおいろをかえてどなりました。)
ハッとしたように、顔色を変えてどなりました。
(「ぼくはぞくのうでまえにかんしんしているのですよ。)
「ぼくは賊の腕前に感心しているのですよ。
(かれはやっぱりえらいですなあ。ちゃんとやくそくを)
彼はやっぱり偉いですなあ。ちゃんと約束を
(まもったじゃありませんか。なんじゅうにもなるけいかいを、)
守ったじゃありませんか。何重にもなる警戒を、
(もののみごとにとっぱしたじゃありませんか」)
物の見事に突破したじゃありませんか」
(「こら、よさんか。おまえは、またぞくをほめている。)
「こら、よさんか。お前は、また賊を褒めている。
(つまりぞくにだしぬかれた、わしのかおがおかしい)
つまり賊に出し抜かれた、わしの顔がおかしい
(とでもいうのか」「そうですよ。あなたがそうして、)
とでも言うのか」「そうですよ。あなたがそうして、
(うろたえているようすが、じつにゆかいなんですよ」)
うろたえている様子が、実に愉快なんですよ」
(ああ、これがちちにたいするこどものことばでしょうか。)
ああ、これが父に対する子どもの言葉でしょうか。
(そうたろうしはおこるよりも、あっけにとられて)
壮太郎氏は怒るよりも、あっけにとられて
(しまいました。そしていま、めのまえでにやにやわらって)
しまいました。そして今、目の前でニヤニヤ笑って
(いるせいねんがじぶんのむすこではなく、なにかしら)
いる青年が自分の息子ではなく、何かしら
(えたいのしれないにんげんにみえてきました。)
得体の知れない人間に見えてきました。
(「そういち、そこをうごくんじゃないぞ」)
「壮一、そこを動くんじゃないぞ」