紫式部 源氏物語 須磨 10 與謝野晶子訳

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(たびずまいがようやくととのったけいしきをそなえるようになったころは、)

旅住居がようやく整った形式を備えるようになったころは、

(もうさみだれのきせつになっていて、げんじはきょうのことがしきりにおもいだされた。)

もう五月雨の季節になっていて、源氏は京の事がしきりに思い出された。

(こいしいひとがおおかった。なげきにしずんでいたふじん、とうぐうのこと、むしんにげんきよく)

恋しい人が多かった。歎きに沈んでいた夫人、東宮のこと、無心に元気よく

(あそんでいたわかぎみ、そんなことばかりをおもってかなしんでいた。げんじはきょうへ)

遊んでいた若君、そんなことばかりを思って悲しんでいた。源氏は京へ

(つかいをだすことにした。にじょうのいんへとにゅうどうのみやへとのてがみは)

使いを出すことにした。二条の院へと入道の宮へとの手紙は

(よういにかけなかった。みやへは、 )

容易に書けなかった。宮へは、

(まつしまのあまのとまやもいかならんすまのうらびとしおたるるころ )

松島のあまの苫屋もいかならん須磨の浦人しほたるる頃

(いつもそうでございますが、ことにさみだれにはいりましてからは、)

いつもそうでございますが、ことに五月雨にはいりましてからは、

(かなしいことも、むかしのこいしいこともひときわふかく、ひときわじぶんのせかいが)

悲しいことも、昔の恋しいこともひときわ深く、ひときわ自分の世界が

(くらくなったきがいたされます。 というのであった。ないしのかみのところへは、)

暗くなった気がいたされます。 というのであった。尚侍の所へは、

(れいのようにちゅうなごんのきみへのししんのようにして、そのなかへいれたのには、)

例のように中納言の君への私信のようにして、その中へ入れたのには、

(るにんのつれづれさにむかしのついそうされることがおおくなればなるほど、)

流人のつれづれさに昔の追想されることが多くなればなるほど、

(おあいしたくてならないきばかりがされます。 )

お逢いしたくてならない気ばかりがされます。

(こりずまのうらのみるめのゆかしきをしおやくあまやいかがおもわん )

こりずまの浦のみるめのゆかしきを塩焼くあまやいかが思はん

(とかいた。なおことばはおおかった。さだいじんへもかき、わかぎみのめのとのさいしょうのきみへも)

と書いた。なお言葉は多かった。左大臣へも書き、若君の乳母の宰相の君へも

(いくじについてのちゅういをげんじはかいておくった。 きょうではすまのつかいのもたらした)

育児についての注意を源氏は書いて送った。 京では須磨の使いのもたらした

(てがみによっておもいみだれるひとがおおかった。にじょうのいんのにょおうはおきあがることも)

手紙によって思い乱れる人が多かった。二条の院の女王は起き上がることも

(できないほどのしょうげきをうけたのである。こがれてなくにょおうをにょうぼうたちは)

できないほどの衝撃を受けたのである。焦れて泣く女王を女房たちは

(なだめかねてこころぼそいおもいをしていた。げんじのつかっていたてどうぐ、)

なだめかねて心細い思いをしていた。源氏の使っていた手道具、

(つねにひいていたがっき、ぬいでいったいふくのかなどからうけるかんじは、)

常に弾いていた楽器、脱いで行った衣服の香などから受ける感じは、

など

(ふじんにとってはひとのしんだあとのようにはげしいものらしかった。)

夫人にとっては人の死んだ跡のようにはげしいものらしかった。

(ふじんのこのじょうたいがまたくろうで、しょうなごんはきたやまのそうずにきとうのことをたのんだ。)

夫人のこの状態がまた苦労で、少納言は北山の僧都に祈祷のことを頼んだ。

(きたやまではなげきのこころがしずまっていくことと、こうふくなひがまたふたりのうえに)

北山では歎きの心が静まっていくことと、幸福な日がまた二人の上に

(かえってくることをほとけにいのったのである。にじょうのいんではなつのよぎるいもつくって)

帰ってくることを仏に祈ったのである。二条の院では夏の夜着類も作って

(すまへおくることにした。むいむかんのひとのもちいるかとりのきぬののうし、)

須磨へ送ることにした。無位無官の人の用いる縑の絹の直衣、

(さしぬきのしたてられていくのをみても、かつておもいもよらなかったひあいを)

指貫の仕立てられていくのを見ても、かつて思いも寄らなかった悲哀を

(ふじんはおおくかんじた。かがみのかげほどのたしかさでこころはつねにあなたから)

夫人は多く感じた。鏡の影ほどの確かさで心は常にあなたから

(はなれないであろうといった、こいしいひとのおもかげはそのことばのとおりに)

離れないであろうと言った、恋しい人の面影はその言葉のとおりに

(めからはなれなくても、げんじつのことでないことはなんにもならなかった。)

目から離れなくても、現実のことでないことは何にもならなかった。

(げんじがそこからでいりしたとぐち、よりかかっていることのおおかったはしらもみては)

源氏がそこから出入りした戸口、よりかかっていることの多かった柱も見ては

(むねがかなしみでふさがるふじんであった。いまのかなしみのりょうをかこのいくつのことに)

胸が悲しみでふさがる夫人であった。今の悲しみの量を過去の幾つの事に

(くらべてみることができたりするねんぱいのひとであっても、こんなことは)

比べてみることができたりする年配の人であっても、こんなことは

(たえられないにちがいないのを、だれよりもむつまじくくらして、あるときはちちにも)

堪えられないに違いないのを、だれよりも睦まじく暮らして、ある時は父にも

(ははにもなってあいぶされたほごしゃでおっとだったひとににわかにひきはなされて)

母にもなって愛撫された保護者で良人だった人ににわかに引き離されて

(にょおうがげんじをこいしくおもうのはもっともである。しんだひとであればかなしいなかにも、)

女王が源氏を恋しく思うのはもっともである。死んだ人であれば悲しい中にも、

(じかんがあきらめをおしえるのであるが、これはとおいじゅうまんおくどではないが、)

時間があきらめを教えるのであるが、これは遠い十万億土ではないが、

(いつかえるともさだめておもえないわかれをしているのであるのを)

いつ帰るとも定めて思えない別れをしているのであるのを

(ふじんはつらくおもうのである。)

夫人はつらく思うのである。

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