人間椅子 2
関連タイピング
-
プレイ回数10万歌詞200打
-
プレイ回数3.2万歌詞1030打
-
プレイ回数4276かな314打
-
プレイ回数75万長文300秒
-
プレイ回数25万長文786打
-
プレイ回数1.8万長文かな102打
-
プレイ回数128長文240秒
-
プレイ回数483長文535打
問題文
(ひとつのいすができあがると、わたしはまず、じぶんで、)
一つの椅子が出来上ると、私は先ず、自分で、
(それにこしかけて、すわりぐあいをためしてみます。)
それに腰かけて、坐り工合を試して見ます。
(そして、あじけないしょくにんせいかつのうちにも、そのときばかりは、)
そして、味気ない職人生活の内にも、その時ばかりは、
(なんともいえぬとくいをかんじるのでございます。)
何とも云えぬ得意を感じるのでございます。
(そこへは、どのようなこうきのかたが、)
そこへは、どの様な高貴の方が、
(あるいはどのようなうつくしいかたがおかけなさることか、)
或はどの様な美しい方がおかけなさることか、
(こんなりっぱないすを、ちゅうもんなさるほどのおやしきだから、)
こんな立派な椅子を、註文なさる程のお邸だから、
(そこには、きっと、このいすにふさわしい、)
そこには、きっと、この椅子にふさわしい、
(ぜいたくなへやがあるだろう。かべかんにはさだめし、)
贅沢な部屋があるだろう。壁間には定めし、
(ゆうめいながかのあぶらえがかかり、てんじょうからは、)
有名な画家の油絵が懸り、天井からは、
(いだいなほうせきのようなそうしょくでんとうが、さがっているにそういない。)
偉大な宝石の様な装飾電燈が、さがっているに相違ない。
(ゆかには、こうかなじゅうせんが、しきつめてあるだろう。)
床には、高価な絨氈が、敷きつめてあるだろう。
(そして、このいすのまえのてーぶるには、めのさめるさまな、)
そして、この椅子の前のテーブルには、眼の醒める様な、
(せいようくさばなが、かんびなかおりをはなって、さきみだれていることであろう。)
西洋草花が、甘美な薫を放って、咲き乱れていることであろう。
(そんなもうそうにふけっていますと、なんだかこう、)
そんな妄想に耽っていますと、何だかこう、
(じぶんが、そのりっぱなへやのぬしにでもなったようなきがして、)
自分が、その立派な部屋の主にでもなった様な気がして、
(ほんのいっしゅんかんではありますけれど、なんともけいようのできない、)
ほんの一瞬間ではありますけれど、何とも形容の出来ない、
(ゆかいなきもちになるのでございます。)
愉快な気持になるのでございます。
(わたしのはかないもうそうは、なおとめどもなくぞうちょうしてまいります。)
私の果敢ない妄想は、猶とめどもなく増長して参ります。
(このわたしが、びんぼうな、みにくい、いちしょくにんにすぎないわたしが、もうそうのせかいでは、)
この私が、貧乏な、醜い、一職人に過ぎない私が、妄想の世界では、
(けだかいきこうしになって、わたしのつくったりっぱないすに、)
気高い貴公子になって、私の作った立派な椅子に、
(こしかけているのでございます。そして、そのそばには、)
腰かけているのでございます。そして、その傍には、
(いつもわたしのゆめにでてくる、うつくしいわたしのこいびとが、)
いつも私の夢に出て来る、美しい私の恋人が、
(におやかにほほえみながら、わたしのはなしにききいっております。)
におやかにほほえみながら、私の話に聞入って居ります。
(そればかりではありません。わたしはもうそうのなかで、)
そればかりではありません。私は妄想の中で、
(そのひととてをとりあって、あまいこいのむつごとを、)
その人と手をとり合って、甘い恋の睦言を、
(ささやきかわしさえするのでございます。)
囁き交しさえするのでございます。
(ところが、いつのばあいにも、)
ところが、いつの場合にも、
(わたしのこの、ふーわりとしたむらさきのゆめは、たちまちにして、)
私のこの、フーワリとした紫の夢は、忽ちにして、
(きんじょのおかみさんのやかましいはなしごえや、ひすてりーのさまになきさけぶ、)
近所のお上さんのやかましい話声や、ヒステリーの様に泣き叫ぶ、
(それへんのびょうじのこえにさまたげられて、わたしのまえには、またしても、)
其辺の病児の声に妨げられて、私の前には、又しても、
(みにくいげんじつが、あのはいいろのむくろをさらけだすのでございます。)
醜い現実が、あの灰色のむくろをさらけ出すのでございます。
(げんじつにたちかえったわたしは、そこに、ゆめのきこうしとはにてもつかない、)
現実に立帰った私は、そこに、夢の貴公子とは似てもつかない、
(あわれにもみにくい、じぶんじしんのすがたをみだします。そして、)
哀れにも醜い、自分自身の姿を見出します。そして、
(いまのさき、わたしにほほえみかけてくれた、あのうつくしいひとは。)
今の先、私にほほえみかけて呉れた、あの美しい人は。
(・・・・・・そんなものが、ぜんたいどこにいるのでしょう。そのへんに、)
……そんなものが、全体どこにいるのでしょう。その辺に、
(ほこりまみれになってあそんでいる、きたならしいこもりおんなでさえ、)
埃まみれになって遊んでいる、汚らしい子守女でさえ、
(わたしなぞには、みむいてもくれはしないのでございます。)
私なぞには、見向いても呉れはしないのでございます。
(ただひとつ、わたしのつくったいすだけが、いまのゆめのなごりのさまに、)
ただ一つ、私の作った椅子丈けが、今の夢の名残りの様に、
(そこに、ぽつねんとのこっております。でも、そのいすは、)
そこに、ポツネンと残って居ります。でも、その椅子は、
(やがて、いずこともしれぬ、わたしたちのとはまったくべつなせかいへ、)
やがて、いずことも知れぬ、私達のとは全く別な世界へ、
(はこびさられてしまうのではありませんか。)
運び去られて了うのではありませんか。
(わたしは、そうして、ひとつひとついすをしあげるたびごとに、)
私は、そうして、一つ一つ椅子を仕上げる度毎に、
(いいしれぬあじけなさにおそわれるのでございます。)
いい知れぬ味気なさに襲われるのでございます。
(その、なんともけいようのできない、いやあな、いやあなこころもちは、)
その、何とも形容の出来ない、いやあな、いやあな心持は、
(つきひがたつにしたがって、だんだん、わたしにはこらえきれないものになってまいりました。)
月日が経つに従って、段々、私には堪え切れないものになって参りました。
(「こんな、うじむしのようなせいかつを、つづけていくくらいなら、)
「こんな、うじ虫の様な生活を、続けて行く位なら、
(いっそのこと、しんでしまったほうがましだ」)
いっそのこと、死んで了った方が増しだ」
(わたしは、まじめに、そんなことをおもいます。)
私は、真面目に、そんなことを思います。
(しごとばで、こつこつといりほがをつかいながら、くぎをうちながら、)
仕事場で、コツコツと鑿を使いながら、釘を打ちながら、
(あるいは、しげきのつよいとりょうをこねまわしながら、そのおなじことを、)
或は、刺戟の強い塗料をこね廻しながら、その同じことを、
(しつようにかんがえつづけるのでございます。)
執拗に考え続けるのでございます。
(「だが、まてよ、しんでしまうくらいなら、それほどのけっしんができるなら、)
「だが、待てよ、死んで了う位なら、それ程の決心が出来るなら、
(もっとほかに、ほうほうがないものであろうか。たとえば・・・・・・」)
もっと外に、方法がないものであろうか。例えば……」
(そうして、わたしのかんがえは、だんだんおそろしいほうへ、むいていくのでありました。)
そうして、私の考えは、段々恐ろしい方へ、向いて行くのでありました。
(ちょうどそのころ、わたしは、かつててがけたことのない、)
丁度その頃、私は、嘗つて手がけたことのない、
(おおきなかわばりのひじかけいすの、せいさくをたのまれておりました。)
大きな皮張りの肘掛椅子の、製作を頼まれて居りました。
(このいすは、おなじyしでがいじんのけいえいしている、あるほてるへおさめるしなで、)
此椅子は、同じY市で外人の経営している、あるホテルへ納める品で、
(いったいなら、そのほんごくからとりよせるはずのを、わたしのやとわれていた、)
一体なら、その本国から取寄せる筈のを、私の雇われていた、
(しょうかいがうんどうして、にっぽんにもはくらいひんにおとらぬいすしょくにんがいるからというので、)
商会が運動して、日本にも舶来品に劣らぬ椅子職人がいるからというので、
(やっとちゅうもんをとったものでした。)
やっと註文を取ったものでした。
(それだけけに、わたしとしても、しんしょくをわすれてそのせいさくにじゅうじしました。)
それ丈けに、私としても、寝食を忘れてその製作に従事しました。
(ほんとうにたましいをこめて、むちゅうになってやったものでございます。)
本当に魂をこめて、夢中になってやったものでございます。
(さて、できあがったいすをみますと、わたしはかつておぼえないまんぞくをかんじました。)
さて、出来上った椅子を見ますと、私は嘗つて覚えない満足を感じました。
(それは、われながら、みとれるほどの、みごとなできばえであったのです。)
それは、我乍ら、見とれる程の、見事な出来ばえであったのです。
(わたしはれいによって、よんきゃくひとくみになっているそのいすのひとつを、)
私は例によって、四脚一組になっているその椅子の一つを、
(ひあたりのよいいたのまへもちだして、ゆったりとこしをくだしました。)
日当りのよい板の間へ持出して、ゆったりと腰を下しました。
(なんというすわりごこちのよさでしょう。)
何という坐り心地のよさでしょう。
(ふっくらと、かたすぎずやわらかすぎぬくっしょんのねばりぐあい、)
フックラと、硬すぎず軟かすぎぬクッションのねばり工合、
(わざとせんしょくをきらってはいいろのきじのままはりつけた、)
態と染色を嫌って灰色の生地のまま張りつけた、
(なめしがわのはだざわり、てきどのけいしゃをたもって、そっとせなかをささえてくれる、)
鞣革の肌触り、適度の傾斜を保って、そっと背中を支えて呉れる、
(ほうまんなもたれ、でりけーとなきょくせんをえがいて、おんもりとふくれあがった、)
豊満な凭れ、デリケートな曲線を描いて、オンモリとふくれ上った、
(りょうがわのひじかけ、それらのすべてが、ふしぎなちょうわをたもって、)
両側の肘掛け、それらの凡てが、不思議な調和を保って、
(こんぜんとして「あんらく」ということばを、そのままかたちにあらわしているようにみえます。)
渾然として「安楽」という言葉を、そのまま形に現している様に見えます。
(わたしは、そこへしんしんとみをしずめ、)
私は、そこへ深々と身を沈め、
(りょうてで、まるまるとしたひじかけをあいぶしながら、うっとりとしていました。)
両手で、丸々とした肘掛けを愛撫しながら、うっとりとしていました。
(すると、わたしのくせとして、とめどもないもうそうが、)
すると、私の癖として、止めどもない妄想が、
(ごしきのにじのように、まばゆいばかりのしきさいをもって、)
五色の虹の様に、まばゆいばかりの色彩を以て、
(つぎからつぎへとわきあがってくるのです。あれをまぼろしというのでしょうか。)
次から次へと湧き上って来るのです。あれを幻というのでしょうか。
(こころにおもうままが、あんまりはっきりと、めのまえにうかんできますので、)
心に思うままが、あんまりはっきりと、眼の前に浮んで来ますので、
(わたしは、もしやきでもちがうのではないかと、そらおそろしくなったほどでございます。)
私は、若しや気でも違うのではないかと、空恐ろしくなった程でございます。