有島武郎 或る女③
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問題文
(きべはすぐはやまにちいさなかくれがのようないえをみつけだして、ふたりはむつまじく)
木部はすぐ葉山に小さな隠れ家のような家を見つけ出して、二人はむつまじく
(そこにうつりすむことになった。ようこのこいはしかしながらそろそろとひえはじめるのに)
そこに移り住む事になった。葉子の恋はしかしながらそろそろと冷え始めるのに
(にしゅうかんいじょうをようしなかった。かのじょはきょうそうすべからぬかんけいのきょうそうしゃにたいして)
二週間以上を要しなかった。彼女は競争すべからぬ関係の競争者に対して
(みごとにしょうりをえてしまった。にっしんせんそうというもののひかりもたいようがにしにしずむたび)
みごとに勝利を得てしまった。日清戦争というものの光も太陽が西に沈むたび
(ごとにげんじていった。それらはそれとしていちばんようこをしつぼうさせたのはどうせいご)
ごとに減じて行った。それらはそれとしていちばん葉子を失望させたのは同棲後
(はじめておとこというもののうらをかえしてみたことだった。ようこをかくじつにせんりょうしたという)
始めて男というものの裏を返して見た事だった。葉子を確実に占領したという
(いしきにうらがきされたきべは、いままでおくびにもようこにみせなかっためめしい)
意識に裏書きされた木部は、今までおくびにも葉子に見せなかった女々しい
(じゃくてんをろこつにあらわしはじめた。うしろからみたきべはようこにはとりどころのないへいぼんな)
弱点を露骨に現わし始めた。後ろから見た木部は葉子には取り所のない平凡な
(きのよわいせいりょくのたりないおとこにすぎなかった。ふでいっぽんにぎることもせずにあさからばんまで)
気の弱い精力の足りない男に過ぎなかった。筆一本握る事もせずに朝から晩まで
(ようこにこうちゃくし、かんしょうてきなくせにおそろしくわがままで、こんにちこんにちのせいかつにさえ)
葉子に膠着し、感傷的なくせに恐ろしくわがままで、今日今日の生活にさえ
(ことかきながら、ばんじをようこのかたになげかけてそれがとうぜんなことでもあるような)
事欠きながら、万事を葉子の肩になげかけてそれが当然な事でもあるような
(どんかんなおぼっちゃんじみたせいかつのしかたがようこのするどいしんけいをいらいらさせだした。)
鈍感なお坊ちゃんじみた生活のしかたが葉子の鋭い神経をいらいらさせ出した。
(はじめのうちはようこもそれをきべのしじんらしいむじゃきさからだとおもってみた。)
始めのうちは葉子もそれを木部の詩人らしい無邪気さからだと思ってみた。
(そしてせっせせっせとせわにょうぼうらしくきりまわすことにきょうみをつないでみた。しかし)
そしてせっせせっせと世話女房らしく切り回す事に興味をつないでみた。しかし
(こころのそこのおそろしくぶっしつてきなようこにどうしてこんなしんぼうがいつまでもつづこうぞ。)
心の底の恐ろしく物質的な葉子にどうしてこんな辛抱がいつまでも続こうぞ。
(けっこんまえまではようこのほうからせまってみたにもかかわらず、すうこうとみえるまでに)
結婚前までは葉子のほうから迫ってみたにも係わらず、崇高と見えるまでに
(きょくたんなけっぺきやだったかれであったのに、おもいもかけぬどんらんなろうれつなじょうよくの)
極端な潔癖屋だった彼であったのに、思いもかけぬ貪婪な陋劣な情欲の
(もちぬしで、しかもそのよっきゅうをひんじゃくなたいしつであらわそうとするのにでっくわすと、)
持ち主で、しかもその欲求を貧弱な体質で表そうとするのに出っくわすと、
(ようこはいままでじぶんでもきがつかずにいたじぶんをかがみでみせつけられたようなふかいを)
葉子は今まで自分でも気がつかずにいた自分を鏡で見せつけられたような不快を
(かんぜずにはいられなかった。ゆうしょくをすますとようこはいつでもふまんとしつぼうとで)
感ぜずにはいられなかった。夕食を済ますと葉子はいつでも不満と失望とで
(よるをむかえねばならなかった。きべのようこにたいするあいちゃくがつのればつのるほど、ようこは)
夜を迎えねばならなかった。木部の葉子に対する愛着が募れば募るほど、葉子は
(いっしょうがくらくなりまさるようにおもった。こうしてしぬためにうまれてきたのでは)
一生が暗くなりまさるように思った。こうして死ぬために生まれて来たのでは
(ないはずだ。そうようこはくさくさしながらおもいはじめた。そのこころもちがまたきべに)
ないはずだ。そう葉子はくさくさしながら思い始めた。その心持ちがまた木部に
(ひびいた。きべはだんだんかんしのめをもってようこのいっきょいちどうをちゅういするように)
響いた。木部はだんだん監視の目をもって葉子の一挙一動を注意するように
(なってきた。どうせいしてからはんかげつもたたないうちに、きべはややもすると)
なって来た。同棲してから半か月もたたないうちに、木部はややもすると
(こうあつてきにようこのじゆうをそくばくするようなたいどをとるようになった。きべのあいじょうは)
高圧的に葉子の自由を束縛するような態度を取るようになった。木部の愛情は
(ほねにしみるほどしりぬきながら、にぶっていたようこのひはんりょくはまたみがきを)
骨にしみるほど知り抜きながら、鈍っていた葉子の批判力はまた磨きを
(かけられた。そのするどくなったひはんりょくでみると、じぶんとによったすがたなり)
かけられた。その鋭くなった批判力で見ると、自分と似よった姿なり
(せいかくなりをきべにみいだすということは、しぜんがこうみょうなひにくをやっているような)
性格なりを木部に見いだすという事は、自然が巧妙な皮肉をやっているような
(ものだった。じぶんもあんなことをおもい、あんなことをいうのかとおもうと、ようこの)
ものだった。自分もあんな事を想い、あんな事をいうのかと思うと、葉子の
(じそんしんはおもうぞんぶんにきずつけられた。ほかのげんいんもある。しかしこれだけでじゅうぶん)
自尊心は思う存分に傷つけられた。ほかの原因もある。しかしこれだけで充分
(だった。ふたりがいっしょになってからにかげつめに、ようこはとつぜんしっそうして、ちちの)
だった。二人が一緒になってから二か月目に、葉子は突然失踪して、父の
(しんゆうで、いわゆるものごとのよくわかるたかやまといういしゃのびょうしつにとじこもらして)
親友で、いわゆる物事のよくわかる高山という医者の病室に閉じこもらして
(もらって、みっかばかりはくうものもくわずに、あさましくもおとこのためにめの)
もらって、三日ばかりは食うものも食わずに、浅ましくも男のために目の
(くらんだじぶんのふかくをなきくやんだ。きべがきょうきのようになって、ようやく)
くらんだ自分の不覚を泣き悔やんだ。木部が狂気のようになって、ようやく
(ようこのかくればしょをみつけてあいにきたときは、ようこはれいせいなたいどでしらじらしく)
葉子の隠れ場所を見つけて会いに来た時は、葉子は冷静な態度でしらじらしく
(めんかいした。そして「あなたのしょうらいのおためにきっとなりませんから」と)
面会した。そして「あなたの将来のおためにきっとなりませんから」と
(なにげなげにいってのけた。きべがそのことばにほねをさすようなふうしをみいだし)
何気なげにいってのけた。木部がその言葉に骨を刺すような諷刺を見いだし
(かねているのをみると、ようこはしろくそろったうつくしいはをみせてこえをだして)
かねているのを見ると、葉子は白くそろった美しい歯を見せて声を出して
(わらった。ようこときべとのあいだがらはこんなたわいもないばめんをくぎりにして)
笑った。葉子と木部との間柄はこんなたわいもない場面を区切りにして
(はかなくもやぶれてしまった。きべはあらんかぎりのしゅだんをもちいて、なだめたり、)
はかなくも破れてしまった。木部はあらん限りの手段を用いて、なだめたり、
(すかしたり、きょうはくまでしてみたが、すべてはまったくむえきだった。いったんきべから)
すかしたり、脅迫までしてみたが、すべては全く無益だった。いったん木部から
(はなれたようこのこころは、なにものもふれたことのないしょじょのそれのようにさえみえた。)
離れた葉子の心は、何者も触れた事のない処女のそれのようにさえ見えた。
(それからふつうのきかんをすぎてようこはきべのこをぶんべんしたが、もとよりそのことを)
それから普通の期間を過ぎて葉子は木部の子を分娩したが、もとよりその事を
(きべにしらせなかったばかりでなく、ははにさえあるほかのおとこによってうんだこだと)
木部に知らせなかったばかりでなく、母にさえある他の男によって生んだ子だと
(こくはくした。じっさいようこはそのあと、ははにそのこくはくをしんじさすほどのせいかつをあえてして)
告白した。実際葉子はその後、母にその告白を信じさすほどの生活をあえてして
(いたのだった。しかしはははめざとくもそのあかんぼうにきべのおもかげをさぐりだして、)
いたのだった。しかし母は目ざとくもその赤ん坊に木部の面影を探り出して、
(きりすとしんとにあるまじきあくいをこのあわれなあかんぼうにくわえようとした。)
キリスト信徒にあるまじき悪意をこのあわれな赤ん坊に加えようとした。
(あかんぼうはじょちゅうべやにはこばれたまま、そぼのひざにはいちどものらなかった。)
赤ん坊は女中部屋に運ばれたまま、祖母の膝には一度も乗らなかった。
(いじのよわいようこのちちだけはまごのかわいさからそっとあかんぼうをようこのうばのいえに)
意地の弱い葉子の父だけは孫のかわいさからそっと赤ん坊を葉子の乳母の家に
(ひきとるようにしてやった。そしてそのみじめなあかんぼうはうばのてひとつに)
引き取るようにしてやった。そしてそのみじめな赤ん坊は乳母の手一つに
(そだてられてさだこというろくさいのどうじょになった。)
育てられて定子という六歳の童女になった。
(そのごようこのちちはしんだ。ははもしんだ。きべはようことわかれてから、)
その後葉子の父は死んだ。母も死んだ。木部は葉子と別れてから、
(きょうらんのようなせいかつにみをまかせた。しゅうぎいんぎいんのこうほにたってもみたり、じゅんぶんがくに)
狂瀾のような生活に身を任せた。衆議院議員の候補に立ってもみたり、純文学に
(ゆびをそめてもみたり、たびそうのようなほうろうせいかつもおくったり、つまをもちこをなし、)
指を染めてもみたり、旅僧のような放浪生活も送ったり、妻を持ち子を成し、
(さけにふけり、ざっしのはっこうもくわだてた。そしてそのすべてにいちいちふまんをかんずるばかり)
酒にふけり、雑誌の発行も企てた。そしてそのすべてに一々不満を感ずるばかり
(だった。そしてようこがひさしぶりできしゃのなかでであったいまは、さいしをさとにかえして)
だった。そして葉子が久しぶりで汽車の中で出あった今は、妻子を里に返して
(しまって、あるゆいしょあるどうじょうかぞくのきしょくしゃとなって、これといってするしごと)
しまって、ある由緒ある堂上華族の寄食者となって、これといってする仕事
(もなく、むねのなかだけにはいろいろなくうそうをうかべたりけしたりして、)
もなく、胸の中だけにはいろいろな空想を浮かべたり消したりして、
(とかくかいそうにふけりやすいひおくりをしているときだった。)
とかく回想にふけりやすい日送りをしている時だった。
(さんそのきべのめはしゅうねくもつきまつわった。しかしようこはそっちを)
【三】 その木部の目は執念くもつきまつわった。しかし葉子はそっちを
(みむこうともしなかった。そしてにとうのきっぷでもかまわないからなぜいっとうに)
見向こうともしなかった。そして二等の切符でもかまわないからなぜ一等に
(のらなかったのだろう。こういうことがきっとあるとおもったからこそ、)
乗らなかったのだろう。こういう事がきっとあると思ったからこそ、
(のりこむときもそういおうとしたのだのに、きがきかないっちゃないとおもうと、)
乗り込む時もそういおうとしたのだのに、気がきかないっちゃないと思うと、
(ちかごろになくおきぬけからさえざえしていたきぶんが、しずみかけたあきのひのように)
近ごろになく起きぬけからさえざえしていた気分が、沈みかけた秋の日のように
(かげったりめいったりしだして、つめたいちがぽんぷにでもかけられたようにのうの)
陰ったりめいったりし出して、冷たい血がポンプにでもかけられたように脳の
(すきまというすきまをかたくとざした。たまらなくなってむかいのまどから)
すきまというすきまをかたく閉ざした。たまらなくなって向かいの窓から
(けしきでもみようとすると、そこにはしぇーどがおろしてあって、れいのしじゅうさんしの)
景色でも見ようとすると、そこにはシェードがおろしてあって、例の四十三四の
(おとこがあついくちびるをゆるくあけたままで、ばかなかおをしながらまじまじとようこを)
男が厚い口びるをゆるくあけたままで、ばかな顔をしながらまじまじと葉子を
(みやっていた。ようこはむっとしてそのおとこのひたいからはなにかけたあたりを、)
見やっていた。葉子はむっとしてその男の額から鼻にかけたあたりを、
(えんりょもなくはっしとめでむちうった。しょうにんは、ほんとうにむちうたれたひとが)
遠慮もなく発矢と目でむちうった。商人は、ほんとうにむちうたれた人が
(なきだすまえにするように、わらうような、はにかんだような、ふしぎなかおの)
泣き出す前にするように、笑うような、はにかんだような、不思議な顔の
(ゆがめかたをして、さすがにかおをそむけてしまった。そのいくじのないようすが)
ゆがめかたをして、さすがに顔をそむけてしまった。その意気地のない様子が
(またようこのこころをいらいらさせた。みぎにめをうつせばさんよにんさきにきべがいた。その)
また葉子の心をいらいらさせた。右に目を移せば三四人先に木部がいた。その
(するどいちいさなめはいぜんとしてようこをみまもっていた。ようこはふるえをおぼえるばかりに)
鋭い小さな目は依然として葉子を見守っていた。葉子は震えを覚えるばかりに
(げきこうしたしんけいをりょうてにあつめて、そのりょうてをにぎりあわせてひざのうえのはんけちの)
激昂した神経を両手に集めて、その両手を握り合わせて膝の上のハンケチの
(つつみをおさえながら、げたのさきをじっとみいってしまった。いまはしゃないのひとが)
包みを押えながら、下駄の先をじっと見入ってしまった。今は車内の人が
(もうしあわせてぶじょくでもしているようにようこにはおもえた。ことうがとなりざにいるの)
申し合わせて侮辱でもしているように葉子には思えた。古藤が隣座にいるの
(さえ、いっしゅのくつうだった。そのめいそうてきなむじゃきなたいどが、ようこのないぶてきけいけんや)
さえ、一種の苦痛だった。その瞑想的な無邪気な態度が、葉子の内部的経験や
(くもんとすこしもえんがつづいていないで、ふたりのあいだにはこんりんざいりかいがなりたちえないと)
苦悶と少しも縁が続いていないで、二人の間には金輪際理解が成り立ち得ないと
(おもうと、かのじょはとくべつにけいろのかわったじぶんのきょうかいに、そっとうかがいよろうと)
思うと、彼女は特別に毛色の変わった自分の境界に、そっとうかがい寄ろうと
(するたんていをこのせいねんにみいだすようにおもって、そのごぶがりにしたじぞうあたままでが)
する探偵をこの青年に見いだすように思って、その五分刈りにした地蔵頭までが
(かえりみるにもたりないきのくずかなんぞのようにみえた。)
顧みるにも足りない木のくずかなんぞのように見えた。
(やせたきべのちいさなかがやいためは、いぜんとしてようこをみつめていた。)
やせた木部の小さな輝いた目は、依然として葉子を見つめていた。