有島武郎 或る女⑪

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問題文

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(ななようこはそのあさよこはまのゆうせんがいしゃのながたからてがみをうけとった。かんがくしゃ)

【七】 葉子はその朝横浜の郵船会社の永田から手紙を受け取った。漢学者

(らしいふうかくの、じょうずなじでとうしせんにかかれたもんくには、じぶんはこさつきしには)

らしい風格の、上手な字で唐紙牋に書かれた文句には、自分は故早月氏には

(かくべつのこうぎをうけていたが、あなたにたいしてもどうようのこうさいをつづけるひつようのないの)

格別の交誼を受けていたが、あなたに対しても同様の交際を続ける必要のないの

(をいかんにおもう。みょうばん(すなわちそのよる)のおまねきにもしゅっせきしかねる、とけんも)

を遺憾に思う。明晩(すなわちその夜)のお招きにも出席しかねる、と剣も

(ほろろにかきつらねて、ついしんに、せんじつあなたからいちごんのしょうかいもなくほうもんしてきた)

ほろろに書き連ねて、追伸に、先日あなたから一言の紹介もなく訪問してきた

(すじょうのしれぬせいねんのじさんしたかねはいらないからおかえしする。おっとのさだまったおんなの)

素性の知れぬ青年の持参した金はいらないからお返しする。良人の定まった女の

(こうどうは、もうすまでもないがつつしむがうえにもことにつつしむべきものだとわたしどもはきき)

行動は、申すまでもないが慎むが上にもことに慎むべきものだと私どもは聞き

(およんでいる。ときっぱりかいて、そのきんがくだけのかわせがどうふうしてあった。ようこが)

及んでいる。ときっぱり書いて、その金額だけの為替が同封してあった。葉子が

(ことうをつれてよこはまにいったのも、けびょうをつかってやどやにひきこもったのも、)

古藤を連れて横浜に行ったのも、仮病をつかって宿屋に引きこもったのも、

(じつをいうとふねしょうばいをするひとにはめずらしいげんかくなこのながたにあうめんどうをさける)

実をいうと船商売をする人には珍しい厳格なこの永田に会うめんどうを避ける

(ためだった。ようこはちいさくしたうちして、かわせごとてがみをひきさこうとしたが、)

ためだった。葉子は小さく舌打ちして、為替ごと手紙を引き裂こうとしたが、

(ふとおもいかえして、たんねんにすみをすりおろしていちじいちじかんがえてかいたようなてがみだけ)

ふと思い返して、丹念に墨をすりおろして一字一字考えて書いたような手紙だけ

(ずたずたにやぶいてくずかごにつっこんだ。ようこはじみなよそいきに)

ずたずたに破いて屑かごに突っ込んだ。葉子は地味な他行衣(よそいき)に

(ねまきをきかえてにかいをおりた。ちょうしょくはたべるきがなかった。いもうとたちの)

寝衣(ねまき)を着かえて二階を降りた。朝食は食べる気がなかった。妹たちの

(かおをみるのもきづまりだった。しまいさんにんのいるにかいの、すみからすみまで)

顔を見るのも気づまりだった。姉妹三人のいる二階の、すみからすみまで

(きちんとこぎれいにかたづいているのにひきかえて、おばいっかのすまうしもざしきは)

きちんと小ぎれいに片付いているのに引きかえて、叔母一家の住まう下座敷は

(へんにあぶらぎってよごれていた。はくちのこがあかんぼうどうようなので、ひがしのえんにほしてある)

変に油ぎってよごれていた。白ちの子が赤ん坊同様なので、東の縁に干してある

(むつきからたつしおくさいにおいや、たたみのうえにふみにじられたままこびり)

襁褓(むつき)から立つ塩臭いにおいや、畳の上に踏みにじられたままこびり

(ついているめしつぶなどが、すぐようこのしんけいをいらいらさせた。げんかんにでてみると、)

ついている飯粒などが、すぐ葉子の神経をいらいらさせた。玄関に出て見ると、

(そこにはおじが、えりのまっくろにあせじんだしろいかすりをうそさむそうにきて、はくちのこを)

そこには叔父が、襟のまっ黒に汗じんだ白い飛白を薄寒そうに着て、白ちの子を

など

(ひざのうえにのせながら、あさっぱらからかきをむいてあてがっていた。そのかきのかわが)

膝の上に乗せながら、朝っぱらから柿をむいてあてがっていた。その柿の皮が

(あかあかとかみくずとごったになってしきいしのうえにちっていた。ようこはおじに)

あかあかと紙くずとごったになって敷き石の上に散っていた。葉子は叔父に

(ちょっとあいさつをしてぞうりをさがしながら、「あいさんちょっとここにおいで。)

ちょっと挨拶をして草履をさがしながら、「愛さんちょっとここにおいで。

(げんかんがごらん、あんなによごれているからね、きれいにそうじしておいて)

玄関が御覧、あんなによごれているからね、きれいに掃除しておいて

(ちょうだいよ。ーーこんやはおきゃくさまもあるんだのに・・・」とかけてきたあいこに)

ちょうだいよ。ーー今夜はお客様もあるんだのに・・・」と駆けて来た愛子に

(わざとつんけんいうと、おじはしんけいのとおくのほうであてこすられたのをかんじた)

わざとつんけんいうと、叔父は神経の遠くのほうであてこすられたのを感じた

(ふうで、「おお、それはわしがしたんじゃで、わしがそうじしとく。かもうて)

ふうで、「おお、それはわしがしたんじゃで、わしが掃除しとく。構うて

(くださるな、おいおしゅんーーおしゅんというに、なにしとるぞい」とのろまらしくよび)

くださるな、おいお俊ーーお俊というに、何しとるぞい」とのろまらしく呼び

(たてた。おびしろはだかのおばがそこにやってきて、またくだらぬ)

立てた。帯しろ裸の叔母がそこにやって来て、またくだらぬ

(くちいさかいをするのだとおもうと、どろのなかでいがみあうぶたかなんぞを)

口論(くちいさかい)をするのだと思うと、泥の中でいがみ合う豚かなんぞを

(おもいだして、ようこはかかとのちりをはらわんばかりにそこそこいえをでた。)

思い出して、葉子は踵の塵を払わんばかりにそこそこ家を出た。

(ほそいくぎだなのおうらいはばしょがらだけにかどなみきれいにそうじされて、)

細い釘店(くぎだな)の往来は場所柄だけに門並みきれいに掃除されて、

(うちみずをしたうえを、きのきいたふうていのだんじょがいそがしそうにゆききしていた。)

打ち水をした上を、気のきいた風体の男女が忙しそうに往き来していた。

(ようこはぬけげのまるめたのや、まきたばこのふくろのちぎれたのがちらばってほうきのめひとつ)

葉子は抜け毛の丸めたのや、巻煙草の袋のちぎれたのが散らばって箒の目一つ

(ないじぶんのいえのまえをめをつぶってかけぬけたいほどのおもいをして、ついそばの)

ない自分の家の前を目をつぶって駆けぬけたいほどの思いをして、ついそばの

(にほんぎんこうにはいってありったけのよきんをひきだした。そしてそのまえのくるまやでしじゅう)

日本銀行にはいってありったけの預金を引き出した。そしてその前の車屋で始終

(のりつけのいちばんりっぱなじんりきしゃをしたてさして、そのあしでかいものにでかけた。)

乗りつけのいちばん立派な人力車を仕立てさして、その足で買い物に出かけた。

(いもうとたちにかいのこしておくべきいふくじや、がいこくじんむきのみやげひんや、あたらしいどっしり)

妹たちに買い残しておくべき衣服地や、外国人向きの土産品や、新しいどっしり

(したとらんくなどをかいいれると、ひきだしたかねはいくらものこっては)

したトランクなどを買い入れると、引き出した金はいくらも残っては

(いなかった。そしてごごのひがややかたむきかかったころ、おおつかくぼまちにすむうちだと)

いなかった。そして午後の日がやや傾きかかったころ、大塚窪町に住む内田と

(いうははのゆうじんをおとずれた。うちだはねっしんなきりすときょうのでんどうしゃとして、にくむひとからは)

いう母の友人を訪れた。内田は熱心なキリスト教の伝道者として、憎む人からは

(だかつのようににくまれるし、すきなひとからはよげんしゃのようにすうはいされて)

蛇蝎(だかつ)のように憎まれるし、好きな人からは予言者のように崇拝されて

(いるてんさいはだのひとだった。ようこはいつつむっつのころ、ははにつれられて、よくそのいえに)

いる天才肌の人だった。葉子は五つ六つのころ、母に連れられて、よくその家に

(でいりしたが、ひとをおそれずにぐんぐんおもったことをかわいらしいくちもとからいいだす)

出入りしたが、人を恐れずにぐんぐん思った事を可愛らしい口もとからいい出す

(ようこのようすが、しじゅうひとからへだてをおかれつけたうちだをよろこばしたので、ようこが)

葉子の様子が、始終人から距てをおかれつけた内田を喜ばしたので、葉子が

(くるとうちだは、なにかこころのこだわったときでもきげんをなおして、せまったまゆねをすこしは)

来ると内田は、何か心のこだわった時でもきげんを直して、窄った眉根を少しは

(ひらきながら、「またこざるがきたな」といって、そのつやつやしたおかっぱを)

開きながら、「また子猿が来たな」といって、そのつやつやしたおかっぱを

(なでまわしたりなぞした。そのうちははがきりすときょうふじんどうめいのじぎょうにかんけいして、)

なで回したりなぞした。そのうち母がキリスト教婦人同盟の事業に関係して、

(たちまちのうちにそのぎゅうじをにぎり、がいこくせんきょうしだとか、きふじんだとかをひき)

たちまちのうちにその牛耳を握り、外国宣教師だとか、貴婦人だとかを引き

(いれて、せいりゃくがましくじぎょうのかくちょうにほんそうするようになると、うちだはすぐきげんを)

入れて、政略がましく事業の拡張に奔走するようになると、内田はすぐきげんを

(そんじて、さつきおやさをせめて、きりすとのせいしんをむししたぞくあくなたいどだと)

損じて、早月親佐を責めて、キリストの精神を無視した俗悪な態度だと

(いきまいたが、おやさがいっこうにとりあうようすがないので、りょうけのあいだはみるみる)

いきまいたが、親佐がいっこうに取り合う様子がないので、両家の間は見る見る

(うとうとしいものになってしまった。それでもうちだはようこだけにはふしぎにあいちゃくを)

疎々しいものになってしまった。それでも内田は葉子だけには不思議に愛着を

(もっていたとみえて、よくようこのうわさをして、「こざる」だけはひきとって)

持っていたと見えて、よく葉子のうわさをして、「子猿」だけは引き取って

(こどもどうようにそだててやってもいいなぞといったりした。うちだはりえんしたさいしょの)

子供同様に育ててやってもいいなぞといったりした。内田は離縁した最初の

(つまがつれていってしまったたったひとりのむすめにいつまでもみれんをもっている)

妻が連れて行ってしまったたった一人の娘にいつまでも未練を持っている

(らしかった。どこでもいいそのむすめににたらしいところのあるしょうじょをみると、うちだは)

らしかった。どこでもいいその娘に似たらしい所のある少女を見ると、内田は

(ひごろのじぶんをわすれたようにあまあましいかおつきをした。ひとがおそれるわりあいに、)

日ごろの自分を忘れたように甘々しい顔つきをした。人が怖れる割合に、

(ようこにはうちだがおそろしくおもえなかったばかりか、そのしゅんれつなせいかくのおくにとじこめ)

葉子には内田が恐ろしく思えなかったばかりか、その峻烈な性格の奥にとじこめ

(られてちいさくよどんだあいじょうにふれると、ありきたりのにんげんからはえられない)

られて小さくよどんだ愛情に触れると、ありきたりの人間からは得られない

(ようななつかしみをかんずることがあった。ようこはははにだまってときどきうちだをおとずれた。)

ようななつかしみを感ずる事があった。葉子は母に黙って時々内田を訪れた。

(うちだはようこがくると、どんないそがしいときでもじぶんのへやにとおしてわらいばなしなどを)

内田は葉子が来ると、どんな忙しい時でも自分の部屋に通して笑い話などを

(した。ときにはふたりだけでこうがいのしずかななみきみちなどをさんぽしたりした。)

した。時には二人だけで郊外の静かな並み木道などを散歩したりした。

(あるときうちだはもうむすめらしくせいちょうしたようこのてをかたくにぎって、「おまえはかみさまいがいの)

ある時内田はもう娘らしく生長した葉子の手を堅く握って、「お前は神様以外の

(わたしのただひとりのみちづれだ」などといった。ようこはふしぎなあまいこころもちで)

私のただ一人の道伴れだ」などといった。葉子は不思議な甘い心持ちで

(そのことばをきいた。そのきおくはながくわすれえなかった。それがあのきべとの)

その言葉を聞いた。その記憶は長く忘れ得なかった。それがあの木部との

(けっこんもんだいがもちあがると、うちだはいやおうなしにあるひようこをじぶんのいえによび)

結婚問題が持ち上がると、内田は否応なしにある日葉子を自分の家に呼び

(つけた。そしてこいびとのへんしんをなじりせめるしっとぶかいおとこのようにひとなみだとをめから)

つけた。そして恋人の変心を詰り責める嫉妬深い男のように火と涙とを目から

(ほとばしらせて、うちもすえかねぬまでにくるいいかった。そのときばかりはようこも)

ほとばしらせて、打ちもすえかねぬまでに狂い怒った。その時ばかりは葉子も

(こころからげきこうさせられた。「だれがもうこんなわがままなひとのところにきてやるものか」)

心から激昂させられた。「誰がもうこんなわがままな人の所に来てやるものか」

(そうおもいながら、いけがきのおおい、やなみのまばらな、わだちのあとのめいりこんだ)

そう思いながら、生垣の多い、家(や)並みのまばらな、轍の跡のめいりこんだ

(こいしかわのおうらいをあるきあるき、ふんぬのはぎしりをとめかねた。それはゆうやみのもよおした)

小石川の往来を歩き歩き、憤怒の歯ぎしりを止めかねた。それは夕闇の催した

(ばんしゅうだった。しかしそれとどうじになんだかたいせつなものをとりおとしたような、)

晩秋だった。しかしそれと同時になんだか大切なものを取り落したような、

(じぶんをこのよにつりあげてるいとのひとつがぷつんときれたようなふしぎな)

自分をこの世につり上げてる糸の一つがぷつんと切れたような不思議な

(さびしさのむねにせまるのをどうすることもできなかった。「きりすとにみずをやった)

さびしさの胸に逼るのをどうする事もできなかった。「キリストに水をやった

(さまりやのおんなのこともおもうから、このうえおまえにはなにもいうまいーーひとの)

サマリヤの女の事も思うから、この上お前には何もいうまいーー他人(ひと)の

(しつぼうもかみのしつぼうもちっとはかんがえてみるがいい、・・・つみだぞ、おそろしいつみだぞ」)

失望も神の失望もちっとは考えて見るがいい、・・・罪だぞ、恐ろしい罪だぞ」

(そんなことがあってからごねんをすぎたきょう、ゆうびんきょくにいって、ながたからきた)

そんな事があってから五年を過ぎたきょう、郵便局に行って、永田から来た

(かわせをひきだして、さだこをあずかってくれているうばのいえにもっていこうとおもった)

為替を引き出して、定子を預かってくれている乳母の家に持って行こうと思った

(とき、ようこはしへいのたばをかぞえながら、ふとうちだのさいごのことばをおもいだしたの)

時、葉子は紙幣の束を算えながら、ふと内田の最後の言葉を思い出したの

(だった。もののないところにものをさぐるようなこころもちでようこはじんりきしゃをおおつかのほうに)

だった。物のない所に物を探るような心持ちで葉子は人力車を大塚のほうに

(はしらした。)

走らした。

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