有島武郎 或る女㉒

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(おもいいったけっしんをまゆにあつめて、ひごろのらくてんてきなせいじょうにもにず、うんめいととりくむ)

思い入った決心を眉に集めて、日ごろの楽天的な性情にも似ず、運命と取り組む

(ようなしんけんなかおつきでだいじのけっちゃくをまつきむらのかお。ははのしをあわれむとも)

ような真剣な顔つきで大事の決着を待つ木村の顔。母の死をあわれむとも

(かなしむともしれないなみだをめにはたたえながら、こおりのようにひえきったこころで、)

悲しむとも知れない涙を目にはたたえながら、氷のように冷え切った心で、

(うつむいたまま、くちひとつきかないようこじしんのすがた・・・そんなまぼろしが)

うつむいたまま、口一つきかない葉子自身の姿・・・そんな幻像(まぼろし)が

(あるいはつぎつぎに、あるいはおりかさなって、はいいろのきりのなかにうごきあらわれた。)

あるいはつぎつぎに、あるいは折り重なって、灰色の霧の中に動き現われた。

(そしてきおくはだんだんとかこからげんざいのほうにちかづいてきた。と、じむちょうの)

そして記憶はだんだんと過去から現在のほうに近づいて来た。と、事務長の

(くらちのあさぐろくひにやけたかおと、そのひろいかたとがおもいだされた。ようこはおもいも)

倉知の浅黒く日に焼けた顔と、その広い肩とが思い出された。葉子は思いも

(かけないものをみいだしたようにはっとなると、そのげんぞうはたわいもなく)

かけないものを見いだしたようにはっとなると、その幻像はたわいもなく

(きえて、きおくはまたとおいかこにかえっていった。それがまただんだんげんざいのほうに)

消えて、記憶はまた遠い過去に帰って行った。それがまただんだん現在のほうに

(ちかづいてきたとおもうと、さいごにはきっとくらちのすがたがあらわれでた。それがようこを)

近づいて来たと思うと、最後にはきっと倉知の姿が現われ出た。それが葉子を

(いらいらさせて、ようこははじめてゆめうつつのさかいからほんとうにめざめて、うるさいもの)

いらいらさせて、葉子は始めて夢現の境からほんとうに目ざめて、うるさいもの

(でもはらいのけるように、めまどからめをそむけてばーすをはなれた。)

でも払いのけるように、眼窓から目をそむけて寝台(バース)を離れた。

(ようこのしんけいはあさからひどくこうふんしていた。すてぃーむでぞんぶんにあたたまってきたせんしつ)

葉子の神経は朝からひどく興奮していた。スティームで存分に暖まって来た船室

(のなかのくうきはいきぐるしいほどだった。ふねにのってからろくろくうんどうもせずに、)

の中の空気は息気苦しいほどだった。船に乗ってからろくろく運動もせずに、

(やさいけのすくないものばかりをむさぼりたべたので、みうちのちにははげしいねつが)

野菜気の少ない物ばかりをむさぼり食べたので、身内の血には激しい熱が

(こもって、けのさきへまでもかようようだった。ばーすからたちあがった)

こもって、毛のさきへまでも通うようだった。寝台(バース)から立ち上がった

(ようこはめまいをかんずるほどにじょうきして、こおりのようなつめたいものでも)

葉子は瞑眩(めまい)を感ずるほどに上気して、氷のような冷たいものでも

(ひしとだきしめたいきもちになった。で、ふらふらとせんめんだいのほうにいって、)

ひしと抱きしめたい気持ちになった。で、ふらふらと洗面台のほうに行って、

(ぴっちゃーのみずをなみなみととうきせいのせんめんばんにあけて、ずっぷりひたした)

ピッチャーの水をなみなみと陶器製の洗面盤にあけて、ずっぷりひたした

(てぬぐいをゆるくしぼって、ひやっとするのをかまわず、むねをあけて、それをちぶさと)

手ぬぐいをゆるく絞って、ひやっとするのを構わず、胸をあけて、それを乳房と

など

(ちぶさとのあいだにぐっとあてがってみた。つよいはげしいどうきがおさえているてのひらへ)

乳房との間にぐっとあてがってみた。強いはげしい動悸が押えている手のひらへ

(つきかえしてきた。ようこはそうしたままでまえのかがみにじぶんのかおをちかづけてみた。)

突き返して来た。葉子はそうしたままで前の鏡に自分の顔を近づけて見た。

(まだよるのけがうすぐらくさまよっているなかに、ほおをほてらしながらふかいこきゅうをして)

まだ夜の気が薄暗くさまよっている中に、頬をほてらしながら深い呼吸をして

(いるようこのかおが、じぶんにすらものすごいほどなまめかしくうつっていた。ようこは)

いる葉子の顔が、自分にすら物すごいほどなまめかしく映っていた。葉子は

(ものずきらしくじぶんのかおにわけのわからないびしょうをたたえてみた。それでもその)

物好きらしく自分の顔に訳のわからない微笑をたたえて見た。それでもその

(うちにようこのふしぎなこころのどよめきはしずまっていった。しずまっていくに)

うちに葉子の不思議な心のどよめきはしずまって行った。しずまって行くに

(つれ、ようこはいままでのひきつづきでまためいそうてきなきぶんにひきいれられていた。)

つれ、葉子は今までの引き続きでまた瞑想的な気分に引き入れられていた。

(しかしそのときはもうむそうかではなかった。ごくじっさいてきなするどいあたまがはりのように)

しかしその時はもう夢想家ではなかった。ごく実際的な鋭い頭が針のように

(ひかってとがっていた。ようこはぬれてぬぐいをせんめんばんにほうりなげておいて、)

光ってとがっていた。葉子はぬれ手ぬぐいを洗面盤にほうりなげておいて、

(しずかにながいすにこしをおろした。わらいごとではない。いったいじぶんはどうするつもり)

静かに長椅子に腰をおろした。笑い事ではない。いったい自分はどうするつもり

(でいるんだろう。そうようこはしゅっぱついらいのといをもういちどじぶんになげかけてみた。)

でいるんだろう。そう葉子は出発以来の問いをもう一度自分に投げかけてみた。

(ちいさいときからまわりのひとたちにはばかられるほどさいはじけて、おなじとしごろの)

小さい時からまわりの人たちにはばかられるほど才はじけて、同じ年ごろの

(おんなのことはいつでもひとちょうしちがったいきかたを、するでもなくしてこなければ)

女の子とはいつでも一調子違った行きかたを、するでもなくして来なければ

(ならなかったじぶんは、うまれるまえからうんめいにでものろわれているのだろうか。)

ならなかった自分は、生まれる前から運命にでも呪われているのだろうか。

(それかといってようこはなべてのおんなのじゅんじゅんにとおっていくみちをとおることはどうしても)

それかといって葉子はなべての女の順々に通って行く道を通る事はどうしても

(できなかった。とおってみようとしたことはいくどあったかわからない。こうさえ)

できなかった。通って見ようとした事は幾度あったかわからない。こうさえ

(いけばいいのだろうととおってきてみると、いつでもとんでもなくちがったみちを)

行けばいいのだろうと通って来て見ると、いつでも飛んでもなく違った道を

(あるいているじぶんをみいだしてしまっていた。そしてつまずいてはたおれた。)

歩いている自分を見いだしてしまっていた。そしてつまずいては倒れた。

(まわりのひとたちはてをとってようこをおこしてやるしかたもしらないようなかおをして)

まわりの人たちは手を取って葉子を起こしてやる仕方も知らないような顔をして

(ただばからしくあざわらっている。そんなふうにしかようこにはおもえなかった。)

ただばからしくあざわらっている。そんなふうにしか葉子には思えなかった。

(いくどものそんなにがいけいけんがようこをかたいじな、すこしもひとをたよろうとしないおんなに)

幾度ものそんな苦い経験が葉子を片意地な、少しも人をたよろうとしない女に

(してしまった。そしてようこはいわばほんのうのむかせるようにむいてどんどんあるく)

してしまった。そして葉子はいわば本能の向かせるように向いてどんどん歩く

(よりしかたがなかった。ようこはいまさらのようにじぶんのまわりをみまわしてみた。)

よりしかたがなかった。葉子は今さらのように自分のまわりを見回してみた。

(いつのまにかようこはいちばんちかしいはずのひとたちからもかけはなれて、たった)

いつのまにか葉子はいちばん近しいはずの人たちからもかけ離れて、たった

(ひとりでがけのきわにたっていた。そこでただひとつようこをがけのうえにつないでいる)

一人で崕のきわに立っていた。そこでただ一つ葉子を崕の上につないでいる

(つなにはきむらとのこんやくということがあるだけだ。そこにふみとどまればよし、)

綱には木村との婚約という事があるだけだ。そこに踏みとどまればよし、

(さもなければ、よのなかとのえんはたちどころにきれてしまうのだ。よのなかにいき)

さもなければ、世の中との縁はたちどころに切れてしまうのだ。世の中に活き

(ながらよのなかとのえんがきれてしまうのだ。きむらとのこんやくでよのなかはようこにたいして)

ながら世の中との縁が切れてしまうのだ。木村との婚約で世の中は葉子に対して

(さいごのわぼくをしめそうとしているのだ。ようこにとって、このさいごのきかいをもやぶり)

最後の和睦を示そうとしているのだ。葉子に取って、この最後の機会をも破り

(すてようというのはさすがによういではなかった。きむらというくびかせを)

捨てようというのはさすがに容易ではなかった。木村という首桎(くびかせ)を

(うけないではせいかつのほしょうがたえはてなければならないのだから。ようこのかいちゅうには)

受けないでは生活の保障が絶え果てなければならないのだから。葉子の懐中には

(ひゃくごじゅうどるのべいかがあるばかりだった。さだこのよういくひだけでも、べいこくにあしを)

百五十ドルの米貨があるばかりだった。定子の養育費だけでも、米国に足を

(おろすやいなや、すぐにきむらにたよらなければならないのはめのまえにわかって)

おろすや否や、すぐに木村にたよらなければならないのは目の前にわかって

(いた。ごづめとなってくれるしんるいのひとりもないのはもちろんのこと、ややとも)

いた。後詰めとなってくれる親類の一人もないのはもちろんの事、ややとも

(すればしんせつごかしにないものまでせびりとろうとするてあいがおおいのだ。)

すれば親切ごかしに無いものまでせびり取ろうとする手合いが多いのだ。

(たまたまようこのしまいのないじつをしってきのどくだとおもっても、ようこではというように)

たまたま葉子の姉妹の内実を知って気の毒だと思っても、葉子ではというように

(てだしをひかえるものばかりだった。きむらーーようこにはぎりにもあいもこいもおこり)

手出しを控えるものばかりだった。木村ーー葉子には義理にも愛も恋も起こり

(えないきむらばかりが、ようこにたいするただひとりのせんしなのだ。あわれなきむらは)

得ない木村ばかりが、葉子に対するただ一人の戦士なのだ。あわれな木村は

(ようこのちゃーむにおちいったばかりで、さつきけのひとびとからいやおうなしにこの)

葉子の蠱惑(チャーム)に陥ったばかりで、早月家の人々から否応なしにこの

(おもいにをせおわされてしまっているのだ。どうしてやろう。)

重い荷を背負わされてしまっているのだ。どうしてやろう。

(ようこはおもいあまったそのばのがれから、たんすのうえにこうろくからうけとったままなげ)

葉子は思い余ったその場のがれから、箪笥の上に興録から受け取ったまま投げ

(すてておいたことうのてがみをとりあげて、しろいせいようふうとうのいったんをうつくしいゆびのつめで)

捨てて置いた古藤の手紙を取り上げて、白い西洋封筒の一端を美しい指の爪で

(たんねんにほそくやぶりとって、てすじはりっぱながらまだどこかたどたどしいしゅせきでぺんで)

丹念に細く破り取って、手筋は立派ながらまだどこかたどたどしい手跡でペンで

(はしりがきしたもんくをよみくだしてみた。)

走り書きした文句を読み下して見た。

(「あなたはおさんどんになるということをそうぞうしてみることができますか。ぼくは)

「あなたはおさんどんになるという事を想像してみる事ができますか。僕は

(あなたをみるときはいつでもそうおもってふしぎなこころもちになってしまいます。)

あなたを見る時はいつでもそう思って不思議な心持ちになってしまいます。

(いったいよのなかにはひとをつかって、ひとからつかわれるということをまったくしないでいいと)

いったい世の中には人を使って、人から使われるという事を全くしないでいいと

(いうひとがあるものでしょうか。そんなことができうるものでしょうか。ぼくはそれを)

いう人があるものでしょうか。そんな事ができうるものでしょうか。僕はそれを

(あなたにかんがえていただきたいのです。あなたはきたいなかんじをあたえるひとです。)

あなたに考えていただきたいのです。あなたは奇態な感じを与える人です。

(あなたのなさることはどんなきけんなことでもきけんらしくみえません。いきづまった)

あなたのなさる事はどんな危険な事でも危険らしく見えません。行きづまった

(すえにはこうというかくごがちゃんとできているようにおもわれるからでしょうか。)

末にはこうという覚悟がちゃんとできているように思われるからでしょうか。

(ぼくがあなたにはじめておめにかかったのは、このなつあなたがきむらくんといっしょにやわたに)

僕があなたに始めてお目にかかったのは、この夏あなたが木村君と一緒に八幡に

(ひしょをしておられたときですから、あなたについてぼくは、なんにもしらないと)

避暑をしておられた時ですから、あなたについて僕は、なんにも知らないと

(いっていいくらいです。ぼくはだいいちいっぱんてきにおんなというものについてなんにもしり)

いっていいくらいです。僕は第一一般的に女というものについてなんにも知り

(ません。しかしすこしでもあなたをしっただけのこころもちからいうと、おんなのひとという)

ません。しかし少しでもあなたを知っただけの心持からいうと、女の人という

(ものはぼくにとってはふしぎななぞです。あなたはどこまでいったらいきづまると)

ものは僕に取っては不思議な謎です。あなたはどこまで行ったら行きづまると

(おもっているんです。あなたはすでにきむらくんでいきづまっているひとなんだとぼくには)

思っているんです。あなたはすでに木村君で行きづまっている人なんだと僕には

(おもわれるのです。けっこんをしょうだくしたいじょうはそのおっとにいきづまるのがおんなのひとの)

思われるのです。結婚を承諾した以上はその良人に行きづまるのが女の人の

(とうぜんなみちではないでしょうか。きむらくんでいきづまってください。きむらくんに)

当然な道ではないでしょうか。木村君で行きづまってください。木村君に

(あなたをぜんぶあたえてください。きむらくんのしんゆうとしてこれがぼくのねがいです。ぜんたい)

あなたを全部与えてください。木村君の親友としてこれが僕の願いです。全体

(おなじねんれいでありながら、あなたからはぼくなどはこどもにみえるのでしょうから、)

同じ年齢でありながら、あなたからは僕などは子供に見えるのでしょうから、

(ぼくのいうことなどはとんじゃくなさらないかとおもいますが、こどもにも)

僕のいう事などは頓着(とんじゃく)なさらないかと思いますが、子供にも

(ひとつのちょっかくはあります。そしてこどもはきっぱりしたもののすがたがみたいのです。)

一つの直覚はあります。そして子供はきっぱりした物の姿が見たいのです。

(あなたがきむらくんのつまになるとやくそくしたいじょうは、ぼくのいうことにもけんいがあるはず)

あなたが木村君の妻になると約束した以上は、僕のいう事にも権威があるはず

(だとおもいます。ぼくはそうはいいながらいちめんにはあなたがうらやましいようにも、)

だと思います。僕はそうはいいながら一面にはあなたがうらやましいようにも、

(にくいようにも、かわいそうなようにもおもいます。ぼくはこころのそこにおこるこんな)

憎いようにも、かわいそうなようにも思います。僕は心の底に起こるこんな

(はたらきをもしいておしつぶしてりくついっぽうにかたまろうとはおもいません。それほどぼくは)

働きをもしいて押しつぶして理屈一方に固まろうとは思いません。それほど僕は

(どうがくしゃではないつもりです。それだからといって、いまのままのあなたでは、ぼくは)

道学者ではないつもりです。それだからといって、今のままのあなたでは、僕は

(あなたをけいしんするきはおこりません。きむらくんのつまとしてあなたをけいしんしたいから、)

あなたを敬親する気は起りません。木村君の妻としてあなたを敬親したいから、

(ぼくはあえてこんなことをかきました。そういうときがくるようにしてほしいのです。)

僕はあえてこんな事を書きました。そういう時が来るようにしてほしいのです。

(きむらくんのことをーーあなたをねつあいしてあなたのみにきぼうをかけているきむらくんのことを)

木村君の事をーーあなたを熱愛してあなたのみに希望をかけている木村君の事を

(かんがえるとぼくはこれだけのことをかかずにはいられなくなります。)

考えると僕はこれだけの事を書かずにはいられなくなります。

(ことうぎいちきむらようこさま」)

古藤義一  木村葉子様」

(それはようこにとってはほんとうのこどもっぽいことばとしかひびかなかった。しかし)

それは葉子に取ってはほんとうの子供っぽい言葉としか響かなかった。しかし

(ことうはみょうにようこにはにがてだった。いまもことうのてがみをよんでみると、ばかばかしい)

古藤は妙に葉子には苦手だった。今も古藤の手紙を読んでみると、ばかばかしい

(ことがいわれているとはおもいながらも、いちばんだいじなきゅうしょをぐうぜんのように)

事がいわれているとは思いながらも、いちばん大事な急所を偶然のように

(しっかりとらえているようにもかんじられた。ほんとうにこんなことをしていると、)

しっかり捕えているようにも感じられた。ほんとうにこんな事をしていると、

(こどもとみくびっていることうにもあわれまれるはめになりそうなきがして)

子供と見くびっている古藤にもあわれまれるはめになりそうな気がして

(ならなかった。ようこはなんということなくゆううつになってことうのてがみをまきおさめも)

ならなかった。葉子はなんという事なく悒鬱になって古藤の手紙を巻きおさめも

(せずひざのうえにおいたままめをすえて、じっとかんがえるともなくかんがえた。)

せず膝の上に置いたまま目をすえて、じっと考えるともなく考えた。

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