有島武郎 或る女㊹

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1 布ちゃん 5468 B++ 5.7 95.7% 1107.8 6339 281 89 2024/04/09

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問題文

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(にじゅうふねのついたそのばん、たがわふさいはみまいのことばもわかれのことばものこさずに)

【二〇】 船の着いたその晩、田川夫妻は見舞いの言葉も別れの言葉も残さずに

(おおぜいのでむかえのひとにかこまれてどうどうといぎをととのえてじょうりくしてしまった。)

おおぜいの出迎えの人に囲まれて堂々と威儀を整えて上陸してしまった。

(そのよのひとびとのなかにはわざわざようこのへやをおとずれてきたものがすうにんはあった)

その余の人々の中にはわざわざ葉子の部屋を訪れて来たものが数人はあった

(けれども、ようこはいかにもしたしみをこめたわかれのことばをあたえはしたが、あとまで)

けれども、葉子はいかにも親しみをこめた別れの言葉を与えはしたが、あとまで

(こころにのこるひととてはひとりもいなかった。そのばんじむちょうがきて、せまっこい)

心に残る人とては一人もいなかった。その晩事務長が来て、狭っこい

(boudoirのようなせんしつでおそくまでしめじめとうちかたったあいだに、ようこは)

boudoirのような船室でおそくまでしめじめと打ち語った間に、葉子は

(ふとにどほどおかのことをおもっていた。あんなにじぶんをしたっていはしたがおかもじょうりく)

ふと二度ほど岡の事を思っていた。あんなに自分を慕っていはしたが岡も上陸

(してしまえば、せんかたなくぼすとんのほうにたびだつよういをするだろう。そして)

してしまえば、詮方なくボストンのほうに旅立つ用意をするだろう。そして

(やがてじぶんのこともいつとはなしにわすれてしまうだろう。それにしてもなんという)

やがて自分の事もいつとはなしに忘れてしまうだろう。それにしてもなんという

(じょうひんなうつくしいせいねんだったろう。こんなことをふとおもったのもしかしつかのまで、)

上品な美しい青年だったろう。こんな事をふと思ったのもしかし束の間で、

(そのついおくはこころのとをたたいたとおもうとはかなくもどこかにきえてしまった。)

その追憶は心の戸をたたいたと思うとはかなくもどこかに消えてしまった。

(いまはただきむらというじゃまなかんがえが、もやもやとむねのなかにたちまようばかりで、)

今はただ木村という邪魔な考えが、もやもやと胸の中に立ち迷うばかりで、

(そのおくにはじむちょうのうちかちがたいくらいちからが、まおうのようにこゆるぎも)

その奥には事務長の打ち勝ちがたい暗い力が、魔王のように小動(こゆる)ぎも

(せずうずくまっているのみだった。にやくのめまぐるしいさわぎがふつかつづいたあとの)

せずうずくまっているのみだった。荷役の目まぐるしい騒ぎが二日続いたあとの

(えじままるは、なきわめくいぞくにとりかこまれたうつろなしがいのように、がらんと)

絵島丸は、泣きわめく遺族に取り囲まれたうつろな死骸のように、がらんと

(しずまりかえって、そうぞうしいさんばしのざっとうのあいだにさびしくよこたわって)

静まり返って、騒々しい桟橋の雑鬧(ざっとう)の間にさびしく横たわって

(いる。すいふが、わぎりにしたやしのみでよごれたかんぱんをたんちょうにごしごしごしごし)

いる。水夫が、輪切りにした椰子の実でよごれた甲板を単調にごしごしごしごし

(とこするおとが、ときというものをゆるゆるすりへらすやすりのようにひがな)

とこする音が、時というものをゆるゆるすり減らすやすりのように日がな

(ひねもすきこえていた。ようこははやくはやくここをきりあげてにほんにかえりたいという)

日ねもす聞こえていた。葉子は早く早くここを切り上げて日本に帰りたいという

(こどもじみたかんがえのほかには、おかしいほどそのほかのきょうみをうしなってしまって、)

子供じみた考えのほかには、おかしいほどそのほかの興味を失ってしまって、

など

(たきょうのふうけいにいちべつをあたえることもいとわしく、じぶんのへやのなかにこもりきって、)

他郷の風景に一瞥を与える事もいとわしく、自分の部屋の中にこもりきって、

(ひたすらはっせんのひをまちわびた。もっともきむらがまいにちべいこくというにおいをはなをつく)

ひたすら発船の日を待ちわびた。もっとも木村が毎日米国という香いを鼻をつく

(ばかりみのまわりにただよわせて、ようこをおとずれてくるので、ようこはうっかりねどこを)

ばかり身の回りに漂わせて、葉子を訪れて来るので、葉子はうっかり寝床を

(はなれることもできなかった。きむらはくるたびごとにぜひべいこくのいしゃにけんこうしんだんを)

離れる事もできなかった。木村は来るたびごとにぜひ米国の医者に健康診断を

(たのんで、だいじなければおもいきってけんえきかんのけんえきをうけて、ともかくもじょうりくする)

頼んで、大事なければ思いきって検疫官の検疫を受けて、ともかくも上陸する

(ようにとすすめてみたが、ようこはどこまでもいやをいいとおすので、ふたりのあいだには)

ようにと勧めてみたが、葉子はどこまでもいやをいいとおすので、二人の間には

(ときどききけんなちんもくがつづくこともめずらしくなかった。ようこはしかし、いつでもてぎわよく)

時々危険な沈黙が続く事も珍しくなかった。葉子はしかし、いつでも手ぎわよく

(そのばあいばあいをあやつって、それからあまいかんごをひきだすだけの)

その場合場合をあやつって、それから甘い歓語を引き出すだけの

(うぃっとをもちあわしていたので、このいっかげつほどみしらぬひとのあいだに)

機才(ウィット)を持ち合わしていたので、この一か月ほど見知らぬ人の間に

(たちまじって、びんぼうのくつじょくをぞんぶんになめつくしたきむらは、みるみるおんじゅうなようこの)

立ちまじって、貧乏の屈辱を存分になめ尽くした木村は、見る見る温柔な葉子の

(ことばやひょうじょうによいしれるのだった。かりふぉるにやからくるみずみずしいぶどうや)

言葉や表情に酔いしれるのだった。カリフォルニヤから来る水々しい葡萄や

(ばななをきようなきょうぎのこかごにもったり、うつくしいはなたばを)

バナナを器用な経木(きょうぎ)の小籃(こかご)に盛ったり、美しい花束を

(たずさえたりして、ようこのあさげしょうがしまったかとおもうころにはきむらがかかさずたずねて)

携えたりして、葉子の朝化粧がしまったかと思うころには木村が欠かさず尋ねて

(きた。そしてまいにちくどくどとこうろくにようこのようだいをききただした。こうろくは)

来た。そして毎日くどくどと興録に葉子の容態を聞きただした。興録は

(いいかげんなことをいっていちにちのばしにのばしているのでたまらなくなって)

いいかげんな事をいって一日延ばしに延ばしているのでたまらなくなって

(きむらがじむちょうにそうだんすると、じむちょうはこうろくよりもさらにようりょうをえないうけごたえを)

木村が事務長に相談すると、事務長は興録よりもさらに要領を得ない受け答えを

(した。しかたなしにきむらはとほうにくれて、またようこにかえってきてなきつくように)

した。しかたなしに木村は途方に暮れて、また葉子に帰って来て泣きつくように

(じょうりくをせまるのであった。そのまいにちのいきさつをよるになるとようこはじむちょうとはなし)

上陸を迫るのであった。その毎日のいきさつを夜になると葉子は事務長と話し

(あってわらいのたねにした。ようこはなんということなしに、きむらをこまらしてみたい、)

あって笑いの種にした。葉子はなんという事なしに、木村を困らしてみたい、

(いじめてみたいというようなふしぎなざんこくなこころを、きむらにたいしてかんずるように)

いじめてみたいというような不思議な残酷な心を、木村に対して感ずるように

(なっていった。じむちょうときむらとをめのまえにおいて、なにもしらないきむらを、)

なって行った。事務長と木村とを目の前に置いて、何も知らない木村を、

(じむちょうがいちりゅうのきびきびしたあくらつなてでおもうさまほんろうしてみせるのをながめて)

事務長が一流のきびきびした悪辣な手で思うさま翻弄してみせるのをながめて

(たのしむのがいっしゅのこしつのようになった。そしてようこはきむらをとおして)

楽しむのが一種の痼疾(こしつ)のようになった。そして葉子は木村を通して

(じぶんのかこのすべてにちのしたたるふくしゅうをあえてしようとするのだった。そんな)

自分の過去のすべてに血のしたたる復讐をあえてしようとするのだった。そんな

(ばあいに、ようこはよくどこかでうろおぼえにしたくれおぱとらのそうわを)

場合に、葉子はよくどこかでうろ覚えにしたクレオパトラの插話(そうわ)を

(おもいだしていた。くれおぱとらがじぶんのうんめいのきゅうはくしたのをしってじさつをおもい)

思い出していた。クレオパトラが自分の運命の窮迫したのを知って自殺を思い

(たったとき、いくにんもどれいをめのまえにひきださして、それをどくじゃのえじきにして、)

立った時、幾人も奴隷を目の前に引き出さして、それを毒蛇の餌食にして、

(そのいくにんものむこのひとびとがもだえながらぜつめいするのを、まゆもうごかさずに)

その幾人もの無辜(むこ)の人々がもだえながら絶命するのを、眉も動かさずに

(みていたというそうわをおもいだしていた。ようこにはかこのすべてのじゅそがきむらの)

見ていたという插話を思い出していた。葉子には過去のすべての呪詛が木村の

(いっしんにあつまっているようにもおもいなされた。ははのしいたげ、いそがわじょしの)

一身に集まっているようにも思いなされた。母の虐げ、五十川女史の

(じゅっすう、きんしんのあっぱく、しゃかいのかんし、おんなにたいするおとこのきゆ、)

術数(じゅっすう)、近親の圧迫、社会の環視、女に対する男の覬覦(きゆ)、

(おんなのこうごうなどというようこのてきをきむらのいっしんにおっかぶせて、それに)

女の苟合(こうごう)などという葉子の敵を木村の一身におっかぶせて、それに

(おんなのこころがたくらみだすざんぎゃくなしうちのあらんかぎりをそそぎかけようとするので)

女の心が企み出す残虐な仕打ちのあらん限りをそそぎかけようとするので

(あった。「あなたはうしのこくまいりのわらにんぎょうよ」こんなことをどうかしたひょうしにめんと)

あった。「あなたは丑の刻参りの藁人形よ」こんな事をどうかした拍子に面と

(むかってきむらにいって、きむらがけげんなかおでそのいみをくみかねているのを)

向かって木村にいって、木村が怪訝な顔でその意味をくみかねているのを

(みると、ようこはじぶんにもわけのわからないなみだをめにいっぱいためながら)

見ると、葉子は自分にもわけのわからない涙を目にいっぱいためながら

(ひすてりかるにわらいだすようなこともあった。きむらをはらいすてることによって、)

ヒステリカルに笑い出すような事もあった。木村を払い捨てる事によって、

(へびがからをぬけでるとおなじに、じぶんのすべてのかこをほうむってしまうことができる)

蛇が殻を抜け出ると同じに、自分のすべての過去を葬ってしまうことができる

(ようにもおもいなしてみた。ようこはまたじむちょうに、どれほどきむらがじぶんのおもうまま)

ようにも思いなしてみた。葉子はまた事務長に、どれほど木村が自分の思うまま

(になっているかをみせつけようとするゆうわくもかんじていた。じむちょうのめのまえでは)

になっているかを見せつけようとする誘惑も感じていた。事務長の目の前では

(ずいぶんらんぼうなことをきむらにいったりさせたりした。ときにはじむちょうのほうが)

ずいぶん乱暴な事を木村にいったりさせたりした。時には事務長のほうが

(みかねてふたりのあいだをなだめにかかることさえあるくらいだった。あるとききむらの)

見兼ねて二人の間をなだめにかかる事さえあるくらいだった。ある時木村の

(きているようこのへやにじむちょうがきあわせたことがあった。ようこはまくらもとのいすに)

来ている葉子の部屋に事務長が来合わせた事があった。葉子は枕もとの椅子に

(きむらをこしかけさせて、とうきょうをたったときのようすをくわしくはなしてきかせているところ)

木村を腰かけさせて、東京を発った時の様子をくわしく話して聞かせている所

(だったが、じむちょうをみるといきなりようすをかえて、さもさもきむらをうとんじたふう)

だったが、事務長を見るといきなり様子をかえて、さもさも木村を疎んじたふう

(で、「あなたはむこうにいらしってちょうだい」ときむらをむこうのそふぁにいく)

で、「あなたは向こうにいらしってちょうだい」と木村を向こうのソファに行く

(ようにめでさしずして、じむちょうをそのあとにすわらせた。「さ、あなたこちらへ」)

ように目でさしずして、事務長をその跡にすわらせた。「さ、あなたこちらへ」

(といってあおむけにねたままうわめをつかってみやりながら、「いいおてんきのよう)

といって仰向けに寝たまま上目をつかって見やりながら、「いいお天気のよう

(ですことね。・・・あのときどきごーっとかみなりのようなおとのするのはなに?・・・わたし)

ですことね。・・・あの時々ごーっと雷のような音のするのは何?・・・わたし

(うるさい」「とろですよ」「そう・・・おきゃくさまがたんとおありですってね」)

うるさい」「トロですよ」「そう・・・お客様がたんとおありですってね」

(「さあすこしはしっとるものがあるもんだで」「ゆうべもそのうつくしいおきゃくが)

「さあ少しは知っとるものがあるもんだで」「ゆうべもその美しいお客が

(いらしったの?とうとうおはなしにおみえにならなかったのね」きむらをまえにおき)

いらしったの? とうとうお話にお見えにならなかったのね」木村を前に置き

(ながら、このむぼうとさえみえることばをえんりょえしゃくもなくいいだすのには、さすがの)

ながら、この無謀とさえ見える言葉を遠慮会釈もなくいい出すのには、さすがの

(じむちょうもぎょっとしたらしく、へんじもろくろくしないできむらのほうにむいて、)

事務長もぎょっとしたらしく、返事もろくろくしないで木村のほうに向いて、

(「どうですまっきんれーは。おどろいたことがもちあがりおったもんですね」とわだいを)

「どうですマッキンレーは。驚いた事が持ち上がりおったもんですね」と話題を

(てんじようとした。このふねのこうかいちゅうしやとるにちかくなったあるひ、とうじのだいとうりょう)

転じようとした。この船の航海中シヤトルに近くなったある日、当時の大統領

(まっきんれーはきょうとのたんじゅうにたおれたので、このじけんはべいこくでのうわさの)

マッキンレーは凶徒の短銃に斃(たお)れたので、この事件は米国でのうわさの

(ちゅうしんになっているのだった。きむらはそのとうじのもようをくわしくしんぶんしやひとの)

中心になっているのだった。木村はその当時の模様をくわしく新聞紙や人の

(うわさでしりあわせていたので、のりきになってそのはなしにみをいれようとする)

うわさで知り合わせていたので、乗り気になってその話に身を入れようとする

(のを、ようこはにべもなくさえぎって、「なんですねあなたは、きふじんのはなしのこしを)

のを、葉子はにべもなくさえぎって、「なんですねあなたは、貴夫人の話の腰を

(おったりして、そんなごまかしくらいではだまされてはいませんよ。くらちさん、)

折ったりして、そんなごまかしくらいではだまされてはいませんよ。倉地さん、

(どんなうつくしいかたです。あめりかきっすいのひとってどんななんでしょうね。わたし、)

どんな美しい方です。アメリカ生粋の人ってどんななんでしょうね。わたし、

(みたい。あわしてくださいましなこんどきたら。ここにつれてきてくださるん)

見たい。あわしてくださいましな今度来たら。ここに連れて来てくださるん

(ですよ。ほかのものなんぞなんにもみたくはないけれど、こればかりはぜひ)

ですよ。ほかのものなんぞなんにも見たくはないけれど、こればかりはぜひ

(みとうござんすわ。そこにいくとね、きむらなんぞはそりゃあやぼなもんです)

見とうござんすわ。そこに行くとね、木村なんぞはそりゃあやぼなもんです

(ことよ」といって、きむらのいるほうをはるかにしためでみやりながら、「きむらさん)

ことよ」といって、木村のいるほうをはるかに下目で見やりながら、「木村さん

(どう?こっちにいらしってからちっとはおんなのおともだちがおできになって?)

どう? こっちにいらしってからちっとは女のお友だちがおできになって?

(ladyfriendというのが?」「それができんでたまるか」とじむちょうは)

Lady Friendというのが?」「それができんでたまるか」と事務長は

(きむらのないこうをみぬいてうらがきするようにおおきなこえでいった。)

木村の内行を見抜いて裏書きするように大きな声でいった。

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