有島武郎 或る女56
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問題文
(これほどまでにじぶんのかえりをまちわびてもい、よろこんでもくれるのかとおもうと、)
これほどまでに自分の帰りを待ちわびてもい、喜んでもくれるのかと思うと、
(こつにくのあいちゃくからも、いもうとだけはすくなくともじぶんのしょうあくのなかにあるとのまんぞくからも、)
骨肉の愛着からも、妹だけは少なくとも自分の掌握の中にあるとの満足からも、
(ようこはこのうえなくうれしかった。しかしひばちからはるかはなれたむこうがわに、)
葉子はこの上なくうれしかった。しかし火鉢からはるか離れた向こう側に、
(うやうやしくいずまいをただして、あいこがひそひそとなきながら、きそくただしく)
うやうやしく居ずまいを正して、愛子がひそひそと泣きながら、規則正しく
(おじぎをするのをみるとようこはすぐしゃくにさわった。どうしてじぶんはこのいもうとに)
おじぎをするのを見ると葉子はすぐ癪にさわった。どうして自分はこの妹に
(たいしてやさしくすることができないのだろうとはおもいつつも、ようこはあいこのしょさを)
対して優しくする事ができないのだろうとは思いつつも、葉子は愛子の所作を
(みるといちいちきにさわらないではいられないのだ。ようこのめはいじわるくけんを)
見ると一々気にさわらないではいられないのだ。葉子の目は意地わるく剣を
(もってひややかにこがらでかたぶとりなあいこをはげしくみすえた。「あいたてから)
持って冷ややかに小柄で堅肥りな愛子を激しく見すえた。「会いたてから
(つけつけいうのもなんだけれども、なんですねえそのおじぎのしかたは、)
つけつけいうのもなんだけれども、なんですねえそのおじぎのしかたは、
(たにんぎょうぎらしい。もっとうちとけてくれたっていいじゃないの」というとあいこは)
他人行儀らしい。もっと打ち解けてくれたっていいじゃないの」というと愛子は
(とうわくしたようにだまったままめをあげてようこをみた。そのめはしかしおそれても)
当惑したように黙ったまま目を上げて葉子を見た。その目はしかし恐れても
(うらんでもいるらしくはなかった。こひつじのような、まつげのながい、かたちのいいおおきな)
恨んでもいるらしくはなかった。小羊のような、まつげの長い、形のいい大きな
(めが、なみだにうつくしくぬれてゆうづきのようにぽっかりとならんでいた。かなしいめつきの)
目が、涙に美しくぬれて夕月のようにぽっかりとならんでいた。悲しい目つきの
(ようだけれども、かなしいというのでもない。たこんなめだ。たじょうなめでさえある)
ようだけれども、悲しいというのでもない。多恨な目だ。多情な目でさえある
(かもしれない。そうひにくなひひょうからしくようこはあいこのめをみてふかいにおもった。)
かもしれない。そう皮肉な批評家らしく葉子は愛子の目を見て不快に思った。
(だいたすうのおとこはあんなめでみられると、このうえなくしてきなれいてきないちべつをうけとった)
大多数の男はあんな目で見られると、この上なく詩的な霊的な一瞥を受け取った
(ようにもおもうのだろう。そんなことさえすばやくかんがえのなかにつけくわえた。)
ようにも思うのだろう。そんな事さえ素早く考えの中につけ加えた。
(さだよがひろいおびをしてきているのに、あいこがすこしふるびたはかまをはいているのさえ)
貞世が広い帯をして来ているのに、愛子が少し古びた袴をはいているのさえ
(さげすまれた。「そんなことはどうでもようござんすわ。さ、おゆうはんにしましょう)
さげすまれた。「そんな事はどうでもようござんすわ。さ、お夕飯にしましょう
(ね」ようこはやがてじぶんのもうねんをかきはらうようにこういって、じょちゅうをよんだ。)
ね」葉子はやがて自分の妄念をかき払うようにこういって、女中を呼んだ。
(さだよはぺっとらしくすっかりはしゃぎきっていた。ふたりがことうに)
貞世は寵児(ペット)らしくすっかりはしゃぎきっていた。二人が古藤に
(つれられてはじめてたじまのじゅくにいったときのようすから、たじませんせいがひじょうにふたりを)
つれられて始めて田島の塾に行った時の様子から、田島先生が非常に二人を
(かわいがってくれることから、へやのこと、しょくもつのこと、さすがにおんなのこらしく)
かわいがってくれる事から、部屋の事、食物の事、さすがに女の子らしく
(こまかいことまでじぶんひとりのきょうにじょうじてかたりつづけた。あいこもことばすくなに)
細かい事まで自分一人の興に乗じて談(かた)り続けた。愛子も言葉少なに
(ようりょうをえたくちをきいた。「ことうさんがときどききてくださるの?」ときいてみると、)
要領を得た口をきいた。「古藤さんが時々来てくださるの?」と聞いてみると、
(さだよはふへいらしく、「いいえ、ちっとも」「ではおてがみは?」「きてよ、ねえ)
貞世は不平らしく、「いいえ、ちっとも」「ではお手紙は?」「来てよ、ねえ
(あいねえさま。ふたりのところにおなじくらいずつきますわ」と、あいこはひかえめらしく)
愛ねえさま。二人の所に同じくらいずつ来ますわ」と、愛子は控え目らしく
(ほほえみながらうわめごしにさだよをみて、「さあちゃんのほうによけいくる)
ほほえみながら上目越しに貞世を見て、 「貞(さあ)ちゃんのほうに余計来る
(くせに」となんでもないことであらそったりした。あいこはあねにむかって、「じゅくにいれて)
くせに」となんでもない事で争ったりした。愛子は姉に向かって、「塾に入れて
(くださるとことうさんがわたしたちに、もうこれいじょうわたしのしてあげることはないとおもう)
くださると古藤さんが私たちに、もうこれ以上私のして上げる事はないと思う
(から、ようがなければきません。そのかわりようがあったらいつでもそういって)
から、用がなければ来ません。その代わり用があったらいつでもそういって
(およこしなさいとおっしゃったきりいらっしゃいませんのよ。そうしてこちら)
およこしなさいとおっしゃったきりいらっしゃいませんのよ。そうしてこちら
(でもことうさんにおねがいするようなようはなんにもないんですもの」といった。)
でも古藤さんにお願いするような用はなんにもないんですもの」といった。
(ようこはそれをきいてほほえみながらことうがふたりをじゅくにつれていったときのようすを)
葉子はそれを聞いてほほえみながら古藤が二人を塾につれて行った時の様子を
(そうぞうしてみた。れいのようにどこのげんかんばんかとおもわれるふうていをして、)
想像してみた。例のようにどこの玄関番かと思われる風体をして、
(かみをかるときのほかすらないあごひげをいちにぶほどものばして、がんじょうなようぼうや)
髪を刈る時のほか剃(す)らない顎ひげを一二分ほども延ばして、頑丈な容貌や
(たいかくにふにあいなはにかんだくちつきで、たじまという、おとこのようなおんながくしゃとはなしを)
体格に不似合いなはにかんだ口つきで、田島という、男のような女学者と話を
(しているようすがみえるようだった。しばらくそんなひょうめんてきなうわさばなしなどにときを)
している様子が見えるようだった。しばらくそんな表面的なうわさ話などに時を
(すごしていたが、いつまでもそうはしていられないことをようこはしっていた。)
過ごしていたが、いつまでもそうはしていられない事を葉子は知っていた。
(このとしのちがったふたりのいもうとに、どっちにもたんねんの)
この年齢(とし)の違った二人の妹に、どっちにも堪念(たんねん)の
(いくようにいまのじぶんのたちばをはなしてきかせて、わるいけっかをそのおさないこころにのこさない)
行くように今の自分の立場を話して聞かせて、悪い結果をその幼い心に残さない
(ようにしむけるのはさすがによういなことではなかった。ようこはせんこくからしきりに)
ようにしむけるのはさすがに容易な事ではなかった。葉子は先刻からしきりに
(それをあんじていたのだ。「これでもめしあがれ」しょくじがすんでからようこは)
それを案じていたのだ。「これでも召し上がれ」食事が済んでから葉子は
(べいこくからもってきたきゃんでぃーをふたりのまえにおいて、じぶんはたばこをすった。)
米国から持って来たキャンディーを二人の前に置いて、自分は煙草を吸った。
(さだよはめをまるくしてあねのすることをみやっていた。「ねえさまそんなものすって)
貞世は目を丸くして姉のする事を見やっていた。「ねえさまそんなもの吸って
(いいの?」とえしゃくなくたずねた。あいこもふしぎそうなかおをしていた。「ええこんな)
いいの?」と会釈なく尋ねた。愛子も不思議そうな顔をしていた。「ええこんな
(わるいくせがついてしまったの。けれどもねえさんにはあなたがたのかんがえてもみられ)
悪い癖がついてしまったの。けれどもねえさんにはあなた方の考えてもみられ
(ないようなしんぱいなことやこまることがあるものだから、ついうさばらしにこんなことも)
ないような心配な事や困る事があるものだから、つい憂さ晴らしにこんな事も
(おぼえてしまったの。こんやはあなたがたにわかるようにねえさんがはなしてあげてみる)
覚えてしまったの。今夜はあなた方にわかるようにねえさんが話して上げてみる
(から、よくきいてちょうだいよ」くらちのむねにだかれながら、よいしれたように)
から、よく聞いてちょうだいよ」倉地の胸に抱かれながら、酔いしれたように
(そのがんじょうな、ひにやけた、だんせいてきなかおをみやるようこの、おとめというよりももっと)
その頑丈な、日に焼けた、男性的な顔を見やる葉子の、乙女というよりももっと
(こどもらしいようすは、ふたりのいもうとをまえにおいてきちんといずまいをただしたようこの)
子供らしい様子は、二人の妹を前に置いてきちんと居ずまいを正した葉子の
(どこにもみいだされなかった。そのすがたはさんじゅうぜんごの、じゅうぶんふんべつのある、しっかり)
どこにも見いだされなかった。その姿は三十前後の、充分分別のある、しっかり
(したひとりのじょせいをおもわせた。さだよもそういうときのあねにたいするてごころをこころえていて、)
した一人の女性を思わせた。貞世もそういう時の姉に対する手心を心得ていて、
(ようこからはなれてまじめにすわりなおした。こんなときうっかりそのいげんをおかすような)
葉子から離れてまじめにすわり直した。こんな時うっかりその威厳を冒すような
(ことでもすると、さだよにでもだれにでもようこはすこしのようしゃもしなかった。しかし)
事でもすると、貞世にでもだれにでも葉子は少しの容赦もしなかった。しかし
(みたところはいかにもいんぎんにくちをひらいた。「わたしがきむらさんのところにおよめに)
見た所はいかにも慇懃に口を開いた。「わたしが木村さんの所にお嫁に
(いくようになったのはよくしってますね。べいこくにでかけるようになったのも)
行くようになったのはよく知ってますね。米国に出かけるようになったのも
(そのためだったのだけれどもね、もともときむらさんはわたしのようにいちどさきに)
そのためだったのだけれどもね、もともと木村さんは私のように一度先に
(およめいりしたひとをもらうようなかたではなかったんだしするから、ほんとうはわたし)
お嫁入りした人をもらうような方ではなかったんだしするから、ほんとうは私
(どうしてもこころはすすまなかったんですよ。でもやくそくだからちゃんとまもっていくには)
どうしても心は進まなかったんですよ。でも約束だからちゃんと守って行くには
(いったの。けれどもねむこうについてみるとわたしのからだのぐあいがどうも)
行ったの。けれどもね先方(むこう)に着いてみると私のからだの具合がどうも
(よくなくってじょうりくはとてもできなかったからしかたなしにまたおなじふねで)
よくなくって上陸はとてもできなかったからしかたなしにまた同じ船で
(かえるようになったの。きむらさんはどこまでもわたしをおよめにしてくださるつもり)
帰るようになったの。木村さんはどこまでも私をお嫁にしてくださるつもり
(だから、わたしもそのきではいるのだけれども、びょうきではしかたがないでしょう。)
だから、私もその気ではいるのだけれども、病気ではしかたがないでしょう。
(それにはずかしいことをうちあけるようだけれども、きむらさんにもわたしにもありあまる)
それに恥ずかしい事を打ち明けるようだけれども、木村さんにも私にも有り余る
(ようなおかねがないものだから、いきもかえりもそのふねのじむちょうというたいせつなやくめの)
ようなお金がないものだから、行きも帰りもその船の事務長という大切な役目の
(かたにおせわにならなければならなかったのよ。そのかたがごしんせつにもわたしをここまで)
方にお世話にならなければならなかったのよ。その方が御親切にも私をここまで
(つれてかえってくださったばかりで、もういちどあなたがたにもあうことができたん)
連れて帰ってくださったばかりで、もう一度あなた方にも会う事ができたん
(だから、わたしはそのくらちというかたーーくらはおくらのくらで、ちはちきゅうのちとかくの。)
だから、私はその倉地という方ーー倉はお倉の倉で、地は地球の地と書くの。
(さんきちというおなまえはさあちゃんにもわかるでしょうーーそのくらちさんには)
三吉というお名前は貞(さあ)ちゃんにもわかるでしょうーーその倉地さんには
(ほんとうにおれいのもうしようもないくらいなんですよ。あいさんなんかはそのかたの)
ほんとうにお礼の申しようもないくらいなんですよ。愛さんなんかはその方の
(ことでおばさんなんぞからいろいろなことをきかされて、ねえさんをうたがっていや)
事でおばさんなんぞからいろいろな事を聞かされて、ねえさんを疑っていや
(しないかとおもうけれども、それにはまたそれでめんどうなわけのあることなの)
しないかと思うけれども、それにはまたそれでめんどうなわけのある事なの
(だから、ゆめにもひとのいうことなんぞをそのままうけとってもらっちゃこまりますよ。)
だから、夢にも人のいう事なんぞをそのまま受け取ってもらっちゃ困りますよ。
(ねえさんをしんじておくれ、ね、よござんすか。わたしはおよめなんぞにいかないでも)
ねえさんを信じておくれ、ね、よござんすか。私はお嫁なんぞに行かないでも
(いい、あなたがたとこうしているほどうれしいことはないとおもいますよ。きむらさんの)
いい、あなた方とこうしているほどうれしい事はないと思いますよ。木村さんの
(ほうにおかねでもできて、わたしのびょうきがなおりさえすればけっこんするようになるかも)
ほうにお金でもできて、私の病気がなおりさえすれば結婚するようになるかも
(しれないけれども、それはいつのことともわからないし、それまではわたしはこうした)
しれないけれども、それはいつの事ともわからないし、それまでは私はこうした
(ままで、あなたがたといっしょにどこかにおうちをもってたのしくくらしましょうね。)
ままで、あなた方と一緒にどこかにお家を持って楽しく暮しましょうね。
(いいだろうさあちゃん。もうきしゅくなんぞにいなくってもようござんすよ」)
いいだろう貞(さあ)ちゃん。もう寄宿なんぞにいなくってもようござんすよ」
(「おねえさまわたしきしゅくではよるになるとほんとうはないてばかりいたのよ。)
「おねえさま私寄宿では夜になるとほんとうは泣いてばかりいたのよ。
(あいねえさんはよくおねになってもわたしはちいさいからかなしかったんですもの」)
愛ねえさんはよくお寝になっても私は小さいから悲しかったんですもの」
(そうさだよははくじょうするようにいった。さっきまではいかにもたのしそうにいっていた)
そう貞世は白状するようにいった。さっきまではいかにも楽しそうにいっていた
(そのかれんなおなじくちびるから、こんなあわれなこくはくをきくとようこはひとしお)
その可憐な同じ口びるから、こんな哀れな告白を聞くと葉子は一入(ひとしお)
(しんみりしたこころもちになった。「わたしだってもよ。さあちゃんはよいのくちだけ)
しんみりした心持ちになった。「私だってもよ。貞(さあ)ちゃんは宵の口だけ
(くすくすないてもあとにはよくねていたわ。ねえさま、わたしはいままで)
くすくす泣いてもあとにはよく寝ていたわ。ねえ様、私は今まで
(さあちゃんにもいわないでいましたけれども・・・みんながきこえ)
貞(さあ)ちゃんにもいわないでいましたけれども・・・みんなが聞こえ
(よがしにねえさまのことをかれこれいいますのに、たまにわるいとおもって)
よがしにねえ様の事をかれこれいいますのに、たまに悪いと思って
(さあちゃんとおばさんのところにいったりなんぞすると、それはほんとうに)
貞(さあ)ちゃんと叔母さんの所に行ったりなんぞすると、それはほんとうに
(ひどい・・・ひどいことをおっしゃるので、どっちにいってもくやしゅうござい)
ひどい・・・ひどい事をおっしゃるので、どっちに行ってもくやしゅうござい
(ましたわ。ことうさんだってこのごろはおてがみさえくださらないし・・・)
ましたわ。古藤さんだってこのごろはお手紙さえくださらないし・・・
(たじませんせいだけはわたしたちふたりをかわいそうがってくださいましたけれども・・・」)
田島先生だけは私たち二人をかわいそうがってくださいましたけれども・・・」
(ようこのおもいはむねのなかでにえかえるようだった。)
葉子の思いは胸の中で煮え返るようだった。