有島武郎 或る女59

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(「ぼくはこんなことをきかされてとほうにくれてしまいました。あなたはさっきから)

「僕はこんな事を聞かされて途方に暮れてしまいました。あなたはさっきから

(くらちというそのじむちょうのことをへいきでくちにしているが、こっちではそのひとがもんだいに)

倉地というその事務長の事を平気で口にしているが、こっちではその人が問題に

(なっているんです。きょうでもぼくはあなたにおあいするのがいいのかわるいのか)

なっているんです。きょうでも僕はあなたにお会いするのがいいのか悪いのか

(さんざんまよいました。しかしやくそくではあるし、あなたからきいたらもっとことがらも)

さんざん迷いました。しかし約束ではあるし、あなたから聞いたらもっと事柄も

(はっきりするかとおもって、おもいきってうかがうことにしたんです。・・・あっちに)

はっきりするかと思って、思いきって伺う事にしたんです。・・・あっちに

(たったひとりいていそがわさんからおそろしいてがみをうけとらなければならない)

たった一人いて五十川さんから恐ろしい手紙を受け取らなければならない

(きむらくんをぼくはこころからきのどくにおもうんです。もしあなたがごかいのなかにいるんなら)

木村君を僕は心から気の毒に思うんです。もしあなたが誤解の中にいるんなら

(きかせてください。ぼくはこんなじゅうだいなことをいっぽうぐちではんだんしたくはありません)

聞かせてください。僕はこんな重大な事を一方口で判断したくはありません

(から」とはなしをむすんでことうはかなしいようなひょうじょうをしてようこをみつめた。こしゃくなことを)

から」と話を結んで古藤は悲しいような表情をして葉子を見つめた。小癪な事を

(いうもんだとようこはこころのなかでおもったけれども、ゆびさきでもてあそびながら)

いうもんだと葉子は心の中で思ったけれども、指先でもてあそびながら

(すこしふりあおいだかおはそのままに、あわれむような、からかうようないろをかすかに)

少し振り仰いだ顔はそのままに、あわれむような、からかうような色をかすかに

(うかべて、「ええ、それはおききくださればどんなにでもおはなしはしましょう)

浮かべて、「ええ、それはお聞きくださればどんなにでもお話はしましょう

(とも。けれどもてんからわたしをしんじてくださらないんならどれほどくちをすっぱく)

とも。けれども天からわたしを信じて下さらないんならどれほど口をすっぱく

(しておはなしをしたってむだね」「おはなしをうかがってからしんじられるものならしんじようと)

してお話をしたってむだね」「お話を伺ってから信じられるものなら信じようと

(しているのですぼくは」「それはあなたがたのなさるがくもんならそれでよう)

しているのです僕は」「それはあなた方のなさる学問ならそれでよう

(ござんしょうよ。けれどもにんじょうずくのことはそんなものじゃありませんわ。きむらに)

ござんしょうよ。けれども人情ずくの事はそんなものじゃありませんわ。木村に

(たいしてやましいことはいたしませんといったってあなたがわたしをしんじていて)

対してやましい事はいたしませんといったってあなたがわたしを信じていて

(くださらなければ、それまでのものですし、くらちさんとはおともだちというだけです)

下さらなければ、それまでのものですし、倉地さんとはお友だちというだけです

(とちかったところが、あなたがうたがっていらっしゃればなんのやくにもたちはしません)

と誓った所が、あなたが疑っていらっしゃれば何の役にも立ちはしません

(からね。・・・そうしたもんじゃなくって?」「それじゃいそがわさんのことば)

からね。・・・そうしたもんじゃなくって?」「それじゃ五十川さんの言葉

など

(だけでぼくにあなたをはんだんしろとおっしゃるんですか」「そうね。・・・それでも)

だけで僕にあなたを判断しろとおっしゃるんですか」「そうね。・・・それでも

(ようございましょうよ。とにかくそれはわたしがごそうだんをうけることがらじゃ)

ようございましょうよ。とにかくそれはわたしが御相談を受ける事柄じゃ

(ありませんわ」そういってるようこのかおは、ことばににあわずどこまでもやさしく)

ありませんわ」そういってる葉子の顔は、言葉に似合わずどこまでも優しく

(したしげだった。ことうはさすがにさかしく、こうもつれてきたことばをどこまでも)

親しげだった。古藤はさすがにさかしく、こうもつれて来た言葉をどこまでも

(おおうとせずにだまってしまった。そして「なにごともあからさまにしてしまうほうが)

追おうとせずに黙ってしまった。そして「何事も明らさまにしてしまうほうが

(ほんとうはいいのだがな」といいたげなめつきで、かくべつしいたげようとするでもなく、)

本当はいいのだがな」といいたげな目つきで、格別虐げようとするでもなく、

(ようこがはなのさきでくんだりほどいたりするてさきをみいった。そうしたままでやや)

葉子が鼻の先で組んだりほどいたりする手先を見入った。そうしたままでやや

(しばらくのときがすぎた。じゅういちじちかいこのへんのまちなみはいちばんしずかだった。)

しばらくの時が過ぎた。十一時近いこのへんの町並みはいちばん静かだった。

(ようこはふとあまどいをつたうあまだれのおとをきいた。にほんにかえってからはじめてそらは)

葉子はふと雨樋を伝う雨だれの音を聞いた。日本に帰ってから始めて空は

(しぐれていたのだ。へやのなかはさかんなてつびんのゆげでそうさむくはないけれども、)

しぐれていたのだ。部屋の中は盛んな鉄瓶の湯気でそう寒くはないけれども、

(こがいはうすらさむいひよりになっているらしかった。ようこはぎこちないふたりのあいだの)

戸外は薄ら寒い日和になっているらしかった。葉子はぎこちない二人の間の

(ちんもくをやぶりたいばかりに、ひょっとくびをもたげてこしまどのほうをみやりながら、)

沈黙を破りたいばかりに、ひょっと首をもたげて腰窓のほうを見やりながら、

(「おやいつのまにかあめになりましたのね」といってみた。ことうはそれには)

「おやいつのまにか雨になりましたのね」といってみた。古藤はそれには

(こたえもせずに、ごぶがりのじぞうあたまをうなだれてふかぶかとためいきをした。「ぼくは)

答えもせずに、五分刈りの地蔵頭をうなだれて深々と溜め息をした。「僕は

(あなたをしんじきることができればどれほどさいわいだかしれないとおもうんです。)

あなたを信じきる事が出来ればどれほど幸いだか知れないと思うんです。

(いそがわさんなぞよりぼくはあなたとはなしているほうがずっときもちがいいんです。)

五十川さんなぞより僕はあなたと話しているほうがずっと気持ちがいいんです。

(それはあなたがおなじとしごろで、ーーたいへんうつくしいというためばかりじゃないと)

それはあなたが同じ年ごろで、ーーたいへん美しいというためばかりじゃないと

((そのときことうはおぼこらしくかおをあからめていた)おもっています。いそがわさん)

(その時古藤はおぼこらしく顔を赤らめていた)思っています。五十川さん

(なぞはなんでもものをひがめでみるからぼくはいやなんです。けれども)

なぞはなんでも物を僻目(ひがめ)で見るから僕はいやなんです。けれども

(あなたは・・・どうしてあなたはそんなきしょうでいながらもっとだいたんにものを)

あなたは・・・どうしてあなたはそんな気象でいながらもっと大胆に物を

(うちあけてくださらないんです。ぼくはなんといってもあなたをしんずることが)

打ち明けて下さらないんです。僕はなんといってもあなたを信ずる事が

(できません。こんなれいたんなことをいうのをゆるしてください。しかしこれにはあなた)

できません。こんな冷淡な事をいうのを許して下さい。しかしこれにはあなた

(にもせめがあるとぼくはおもいますよ。・・・しかたがないぼくはきむらくんにきょう)

にも責めがあると僕は思いますよ。・・・しかたがない僕は木村君にきょう

(あなたとあったこのままをいってやります。ぼくにはどうはんだんのしようも)

あなたと会ったこのままをいってやります。僕にはどう判断のしようも

(ありませんもの・・・しかしおねがいしますがねえ。きむらくんがあなたから)

ありませんもの・・・しかしお願いしますがねえ。木村君があなたから

(はなれなければならないものなら、いっこくでもはやくそれをしるようにしてやって)

離れなければならないものなら、一刻でも早くそれを知るようにしてやって

(ください。ぼくはきむらくんのこころもちをおもうとくるしくなります」「でもきむらは、)

ください。僕は木村君の心持ちを思うと苦しくなります」「でも木村は、

(あなたにきたおてがみによるとわたしをしんじきってくれているのではないん)

あなたに来たお手紙によるとわたしを信じきってくれているのではないん

(ですか」そうようこにいわれて、ことうはまたかえすことばもなくだまってしまった。)

ですか」そう葉子にいわれて、古藤はまた返す言葉もなく黙ってしまった。

(ようこはみるみるひじょうにこうふんしてきたようだった。おさえているようこのきもちが)

葉子は見る見る非常に興奮して来たようだった。抑えている葉子の気持ちが

(おさえきれなくなってはげしくはたらきだしてくると、それはいつでもそくそくとして)

抑えきれなくなって激しく働き出して来ると、それはいつでも惻々として

(ひとにせまりひとをあっした。かおいろひとつかえないでもとのままにしたしみをこめてあいてを)

人に迫り人を圧した。顔色一つ変えないで元のままに親しみを込めて相手を

(みやりながら、むねのおくそこのこころもちをつたえてくるそのこえは、ふしぎなちからをでんきの)

見やりながら、胸の奥底の心持ちを伝えて来るその声は、不思議な力を電気の

(ようにかんじてふるえていた。「それでけっこう。いそがわのおばさんははじめからいやだ)

ように感じて震えていた。「それで結構。五十川のおばさんは始めからいやだ

(いやだというわたしをむりにきむらにそわせようとしておきながら、いまになって)

いやだというわたしを無理に木村に添わせようとして置きながら、今になって

(わたしのくちからひとことのべんかいもきかずに、きむらにりえんをすすめようというひとなんです)

私の口から一言の弁解も聞かずに、木村に離縁を勧めようという人なんです

(から、そりゃわたしうらみもします。はらもたてます。ええ、わたしはそんなことを)

から、そりゃわたし恨みもします。腹も立てます。ええ、わたしはそんな事を

(されてだまってひっこんでいるようなおんなじゃないつもりですわ。けれどもあなたは)

されて黙って引っ込んでいるような女じゃないつもりですわ。けれどもあなたは

(しょてからわたしにうたがいをおもちになって、きむらにもいろいろごちゅうこく)

初手(しょて)からわたしに疑いをお持ちになって、木村にもいろいろ御忠告

(なさったかたですもの、きむらにどんなことをいっておやりになろうともわたしには)

なさった方ですもの、木村にどんな事をいっておやりになろうともわたしには

(ねっからふふくはありませんことよ。・・・けれどもね、あなたがきむらのいちばん)

根っから不服はありませんことよ。・・・けれどもね、あなたが木村のいちばん

(たいせつなしんゆうでいらっしゃるとおもえばこそ、わたしはひといちばいあなたをたよりにして)

大切な親友でいらっしゃると思えばこそ、わたしは人一倍あなたを頼りにして

(きょうもわざわざこんなところまでごめいわくをねがったりして、・・・でもおかしいもの)

きょうもわざわざこんな所まで御迷惑を願ったりして、・・・でもおかしいもの

(ね、きむらはあなたもしんじわたしもしんじ、わたしはきむらもしんじあなたもしんじ、)

ね、木村はあなたも信じわたしも信じ、わたしは木村も信じあなたも信じ、

(あなたはきむらはしんずるけれどもわたしをうたがって・・・そ、まあまって・・・)

あなたは木村は信ずるけれどもわたしを疑って・・・そ、まあ待って・・・

(うたがってはいらっしゃりません。そうです。けれどもしんずることができないで)

疑ってはいらっしゃりません。そうです。けれども信ずる事ができないで

(いらっしゃるんですわね・・・こうなるとわたしはくらちさんにでもおすがりして)

いらっしゃるんですわね・・・こうなるとわたしは倉地さんにでもおすがりして

(そうだんあいてになっていただくほかしようがありません。いくらわたしむすめのときから)

相談相手になっていただくほかしようがありません。いくらわたし娘の時から

(まわりからせめられどおしにせめられていても、いまだにおんなでひとつでふたりの)

周囲(まわり)から責められ通しに責められていても、今だに女手一つで二人の

(いもうとまでせおってたつことはできませんからね。・・・」ことうはにじゅうにおっていた)

妹まで背負って立つ事はできませんからね。・・・」古藤は二重に折っていた

(ようなこしをたてて、すこしせきこんで、「それはあなたにふにあいなことばだとぼくは)

ような腰を立てて、少しせき込んで、「それはあなたに不似合いな言葉だと僕は

(おもいますよ。もしくらちというひとのためにあなたがごかいをうけているの)

思いますよ。もし倉地という人のためにあなたが誤解を受けているの

(なら・・・」そういってまだことばをきらないうちに、もうとうによこはまに)

なら・・・」そういってまだ言葉を切らないうちに、もうとうに横浜に

(いったとおもわれていたくらちが、わふくのままでとつぜんろくじょうのまにはいってきた。)

行ったと思われていた倉地が、和服のままで突然六畳の間にはいって来た。

(これはようこにもいがいだったので、ようこはするどくくらちにめくばせしたが、くらちは)

これは葉子にも意外だったので、葉子は鋭く倉地に目くばせしたが、倉地は

(むとんじゃくだった。そしてことうのいるのなどはどがいしした)

無頓着(むとんじゃく)だった。そして古藤のいるのなどは度外視した

(ぼうじゃくぶじんさで、ひばちのむこうざにどっかとあぐらをかいた。)

傍若無人さで、火鉢の向こう座にどっかとあぐらをかいた。

(ことうはくらちをひとめみるとすぐくらちとさとったらしかった。いつものくせでことうはすぐ)

古藤は倉地を一目見るとすぐ倉地と悟ったらしかった。いつもの癖で古藤はすぐ

(きょくどにかたくなった。ちゅうだんされたはなしのつづきをもちだしもしないで、だまったまますこし)

極度に固くなった。中断された話の続きを持ち出しもしないで、黙ったまま少し

(ふしめになってひかえていた。くらちはことうからかおのみえないのをいいことに、)

伏し目になってひかえていた。倉地は古藤から顔の見えないのをいい事に、

(はやくことうをかえしてしまえというようなかおつきをようこにしてみせた。ようこはわけは)

早く古藤を返してしまえというような顔つきを葉子にして見せた。葉子はわけは

(わからないままにそのちゅういにしたがおうとした。で、ことうのだまってしまったのを)

分からないままにその注意に従おうとした。で、古藤の黙ってしまったのを

(いいことに、くらちとことうとをひきあわせることもせずにじぶんもだまったまましずかに)

いい事に、倉地と古藤とを引き合わせる事もせずに自分も黙ったまま静かに

(てつびんのゆをどびんにうつして、ちゃをふたりにすすめてじぶんもゆうゆうとのんだりしていた。)

鉄瓶の湯を土瓶に移して、茶を二人に勧めて自分も悠々と飲んだりしていた。

(とつぜんことうはいずまいをなおして、「もうぼくはかえります。おはなしはちゅうとですけれども)

突然古藤は居ずまいをなおして、「もう僕は帰ります。お話は中途ですけれども

(なんだかぼくはきょうはこれでおいとまがしたくなりました。あとはひつようが)

なんだか僕はきょうはこれでおいとまがしたくなりました。あとは必要が

(あったらてがみをかきます」そういってようこにだけあいさつしてざをたった。ようこは)

あったら手紙を書きます」そういって葉子にだけ挨拶して座を立った。葉子は

(れいのげいしゃのようなすがたのままでことうをげんかんまでおくりだした。「しつれいしましてね、)

例の芸者のような姿のままで古藤を玄関まで送り出した。「失礼しましてね、

(ほんとうにきょうは。もういちどでようございますからぜひおあいになって)

ほんとうにきょうは。もう一度でようございますからぜひお会いになって

(くださいましな。いっしょうのおねがいですから、ね」とみみうちするようにささやいたが)

下さいましな。一生のお願いですから、ね」と耳打ちするようにささやいたが

(ことうはなんともこたえず、あめのふりだしたのにかさもかりずにでていった。)

古藤はなんとも答えず、雨の降り出したのに傘も借りずに出て行った。

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