有島武郎 或る女60

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(「あなたったらまずいじゃありませんか、なんだってあんなまくにかおをおだし)

「あなたったらまずいじゃありませんか、なんだってあんな幕に顔をお出し

(なさるの」こうなじるようにいってようこがざにつくと、くらちはのみおわった)

なさるの」こうなじるようにいって葉子が座につくと、倉地は飲み終わった

(ちゃわんをねこいたのうえにとんとおとをたててふせながら、「あのおとこはおまえ、ばかにして)

茶わんを猫板の上にとんと音をたてて伏せながら、「あの男はお前、ばかにして

(かかっているが、はなしをきいているとみょうにねばりづよいところがあるぞ。ばかもあのくらい)

かかっているが、話を聞いていると妙に粘り強い所があるぞ。ばかもあのくらい

(まっすぐにばかだとゆだんのできないものなのだ。もすこしはなしをつづけていてみろ、)

まっすぐにばかだと油断のできないものなのだ。も少し話を続けていてみろ、

(おまえのやりくりではまにあわなくなるから。いったいなんでおまえはあんなおとこを)

お前のやり繰りでは間に合わなくなるから。いったいなんでお前はあんな男を

(かまいつけるひつようがあるんか、わからないじゃないか。きむらにでもみれんがあれば)

かまいつける必要があるんか、わからないじゃないか。木村にでも未練があれば

(しらないこと」こういってふてきにわらいながらおしつけるようにようこをみた。ようこは)

知らない事」こういって不敵に笑いながら押し付けるように葉子を見た。葉子は

(ぎくりとくぎをうたれたようにおもった。くらちをしっかりにぎるまではきむらをはなしては)

ぎくりと釘を打たれたように思った。倉地をしっかり握るまでは木村を離しては

(いけないとおもっているむねざんようをくらちにぐうぜんにいいあてられたようにおもった)

いけないと思っている胸算用を倉地に偶然にいい当てられたように思った

(からだ。しかしくらちはほんとうにようこをあんしんさせるためには、しなければ)

からだ。しかし倉地はほんとうに葉子を安心させるためには、しなければ

(ならないだいじなことがすくなくともひとつのこっている。それはくらちがようことおもてむきの)

ならない大事な事が少なくとも一つ残っている。それは倉地が葉子と表向きの

(けっこんのできるだけのしまつをしてみせることだ。てっとりばやくいえばそのつまをりえん)

結婚のできるだけの始末をして見せる事だ。手っ取り早くいえばその妻を離縁

(することだ。それまではどうしてもきむらをのがしてはならない。そればかりでは)

する事だ。それまではどうしても木村をのがしてはならない。そればかりでは

(ない、もししんぶんのきじなどがもんだいになって、くらちがじむちょうのいちをうしなうような)

ない、もし新聞の記事などが問題になって、倉地が事務長の位置を失うような

(ことにでもなれば、すこしきのどくだけれどもきむらをじぶんのくさりからときはなさずに)

事にでもなれば、少し気の毒だけれども木村を自分の鎖から解き放さずに

(おくのがなにかにつけてべんぎでもある。ようこはしかしまえのりゆうはおくびにも)

おくのが何かにつけて便宜でもある。葉子はしかし前の理由はおくびにも

(ださずにあとのりゆうをたくみにくらちにつげようとおもった。「きょうはあめになったで)

出さずにあとの理由を巧みに倉地に告げようと思った。「きょうは雨になったで

(でかけるのがたいぎだ。ひるにはゆどうふでもやってねてくれようか」そういって)

出かけるのが大儀だ。昼には湯豆腐でもやって寝てくれようか」そういって

(はやくもくらちがそこによこになろうとするのをようこはしいておきかえらした。)

早くも倉地がそこに横になろうとするのを葉子はしいて起き返らした。

など

(にじゅうろく「みととかでおざしきにでていたひとだそうですが、くらちさんに)

【二六】 「水戸とかでお座敷に出ていた人だそうですが、倉地さんに

(ひかされてからもうしちはちねんにもなりましょうか、それはおんとうないい)

落籍(ひか)されてからもう七八年にもなりましょうか、それは穏当ないい

(おくさんで、とてもしょうばいをしていたひとのようではありません。もっともみとの)

奥さんで、とても商売をしていた人のようではありません。もっとも水戸の

(しぞくのおむすめごででるがはやいかくらちさんのところにいらっしゃるようになったんだ)

士族のお娘御で出るが早いか倉地さんの所にいらっしゃるようになったんだ

(そうですからそのはずでもありますが、ちっともすれていらっしゃらないで)

そうですからそのはずでもありますが、ちっともすれていらっしゃらないで

(いて、きもおつきにはなるし、しとやかでもあり、・・・」)

いて、気もおつきにはなるし、しとやかでもあり、・・・」

(あるばんそうかくかんのおかみがはなしにきてよもやまのうわさのついでにくらちのつまのようすを)

ある晩双鶴館の女将が話に来て四方山のうわさのついでに倉地の妻の様子を

(かたったそのことばは、はっきりとようこのこころにやきついていた。ようこはそれが)

語ったその言葉は、はっきりと葉子の心に焼きついていた。葉子はそれが

(すぐれたひとであるときかされればきかされるほどねたましさをますのだった。じぶんの)

優れた人であると聞かされれば聞かされるほど妬ましさを増すのだった。自分の

(めのまえにはおおきなしょうがいぶつがまっくらにたちふさがっているのをかんじた。けんおのじょうに)

目の前には大きな障害物がまっ暗に立ちふさがっているのを感じた。嫌悪の情に

(かきむしられてぜんごのこともかんがえずにわかれてしまったのではあったけれども、)

かきむしられて前後の事も考えずに別れてしまったのではあったけれども、

(かりにもこいらしいものをかんじたきべにたいしてようこがいだくふしぎなじょうちょ、)

仮にも恋らしいものを感じた木部に対して葉子がいだく不思議な情緒、

(ーーふだんはなにごともなかったようにわすれはててはいるものの、おもいもよらない)

ーーふだんは何事もなかったように忘れ果ててはいるものの、思いも寄らない

(きっかけにふとむねをひきしめてまきおこってくるふしぎなじょうちょ、ーーいっしゅの)

きっかけにふと胸を引き締めて巻き起こって来る不思議な情緒、ーー一種の

(ぜつぼうてきなのすたるじあーーそれをようこはくらちにもくらちのつまにもよせてかんがえて)

絶望的なノスタルジアーーそれを葉子は倉地にも倉地の妻にも寄せて考えて

(みることのできるふこうをもっていた。またじぶんのうんだこどもにたいするしゅうちゃく。それを)

みる事のできる不幸を持っていた。また自分の生んだ子供に対する執着。それを

(おとこもおんなもおなじていどにきびしくかんずるものかどうかはしらない。しかしながら)

男も女も同じ程度にきびしく感ずるものかどうかは知らない。しかしながら

(ようこじしんのじっかんからいうと、なんといってもたとえようもなくそのあいちゃくは)

葉子自身の実感からいうと、なんといってもたとえようもなくその愛着は

(ふかかった。ようこはさだこをみるとしらぬまにきべにたいしてこいにひとしいようなつよい)

深かった。葉子は定子を見ると知らぬ間に木部に対して恋に等しいような強い

(かんじょうをうごかしているのにきがつくことがしばしばだった。きべとのあいちゃくのけっか)

感情を動かしているのに気がつく事がしばしばだった。木部との愛着の結果

(さだこがうまれるようになったのではなく、さだこというものがこのよにうまれでる)

定子が生まれるようになったのではなく、定子というものがこの世に生まれ出る

(ために、きべとようことはあいちゃくのきずなにつながれたのだとさえかんがえられもした。)

ために、木部と葉子とは愛着のきずなにつながれたのだとさえ考えられもした。

(ようこはまたじぶんのちちがどれほどようこをできあいしてくれたかをもおもってみた。ようこの)

葉子はまた自分の父がどれほど葉子を溺愛してくれたかをも思ってみた。葉子の

(けいけんからいうと、りょうしんともいなくなってしまったいま、したわしさなつかしさをよけい)

経験からいうと、両親ともいなくなってしまった今、慕わしさなつかしさを余計

(かんじさせるものは、かくべつこれといってじょうあいのしるしをみせはしなかった)

感じさせるものは、格別これといって 情愛の徴(しるし)を見せはしなかった

(が、しじゅうやわらかいめいろでじぶんたちをみまもってくれていたちちのほうだった。)

が、始終軟らかい目色で自分たちを見守ってくれていた父のほうだった。

(それからおもうとおとこというものもじぶんのうませたこどもにたいしてはおんなにゆずらぬしゅうちゃくを)

それから思うと男というものも自分の生ませた子供に対しては女に譲らぬ執着を

(もちうるものにそういない。こんなかこのあまいかいそうまでがいまはようこのこころをむちうつ)

持ちうるものに相違ない。こんな過去の甘い回想までが今は葉子の心をむちうつ

(しもととなった。しかもくらちのつまとことはこのとうきょうにちゃんと)

笞(しもと)となった。しかも倉地の妻と子とはこの東京にちゃんと

(すんでいる。くらちはまいにちのようにそのひとたちにあっているにそういないのだ。)

住んでいる。倉地は毎日のようにその人たちにあっているに相違ないのだ。

(おもうおとこをどこからどこまでじぶんのものにして、じぶんのものにしたというしょうこを)

思う男をどこからどこまで自分のものにして、自分のものにしたという証拠を

(にぎるまでは、こころがせめてせめてせめぬかれるようなれんあいのざんぎゃくなちからにようこは)

握るまでは、心が責めて責めて責めぬかれるような恋愛の残虐な力に葉子は

(ひるとなくよるとなくうちのめされた。ふねのなかでのなにごともうちまかせきったような)

昼となく夜となく打ちのめされた。船の中での何事も打ち任せきったような

(こころやすいきぶんはひとごとのように、とおいむかしのことのようにかなしく)

心やすい気分は他人(ひと)事のように、遠い昔の事のように悲しく

(おもいやられるばかりだった。どうしてこれほどまでにじぶんというものの)

思いやられるばかりだった。どうしてこれほどまでに自分というものの

(おちつきどころをみうしなってしまったのだろう。そうおもうもとから、こうしてはいっこくも)

落ちつき所を見失ってしまったのだろう。そう思うもとから、こうしては一刻も

(いられない。はやくはやくすることだけをしてしまわなければ、とりかえしがつかなく)

いられない。早く早くする事だけをしてしまわなければ、取り返しがつかなく

(なる。どこからどうてをつければいいのだ。てきをたおさなければ、てきはじぶんをたおす)

なる。どこからどう手をつければいいのだ。敵を斃さなければ、敵は自分を斃す

(のだ。なんのちゅうちょ。なんのしあん。くらちがさったひとたちにみれんをのこすようならば)

のだ。なんの躊躇。なんの思案。倉地が去った人たちに未練を残すようならば

(じぶんのこいはいしやかわらとどうようだ。じぶんのこころでなにもかもかこはいっさいやきつくして)

自分の恋は石や瓦と同様だ。自分の心で何もかも過去はいっさい焼き尽くして

(みせる。きべもない、さだこもない。ましてきむらもない。みんなすてる、みんな)

見せる。木部もない、定子もない。まして木村もない。みんな捨てる、みんな

(わすれる。そのかわりくらちにもかこというかこをすっかりわすれさせずにおく)

忘れる。その代わり倉地にも過去という過去をすっかり忘れさせずにおく

(ものか。それほどのこわくのちからとじょうねつのほのおとがじぶんにあるかないかみているが)

ものか。それほどの蠱惑の力と情熱の炎とが自分にあるかないか見ているが

(いい。そうしたらいちずのねついがみをこがすようにもえたった。ようこは)

いい。そうしたらいちずの熱意が身をこがすように燃え立った。葉子は

(しんぶんきしゃのらいしゅうをおそれてやどにとじこもったまま、ひばちのまえにすわって、くらちの)

新聞記者の来襲を恐れて宿にとじこもったまま、火鉢の前にすわって、倉地の

(ふざいのときはこんなもうそうにみもこころもかきむしられていた。だんだんつのって)

不在の時はこんな妄想に身も心もかきむしられていた。だんだん募って

(くるようなこしのいたみ、かたのこり。そんなものさえようこのこころをますます)

来るような腰の痛み、肩の凝り。そんなものさえ葉子の心をますます

(いらだたせた。ことにくらちのかえりのおそいばんなどは、ようこはざにもいたたまれ)

いらだたせた。ことに倉地の帰りのおそい晩などは、葉子は座にも居たたまれ

(なかった。くらちのいまになっているじゅうじょうのまにいって、そこにくらちのおもかげを)

なかった。倉地の居間になっている十畳の間に行って、そこに倉地の面影を

(すこしでもしのぼうとした。ふねのなかでのくらちとのたのしいおもいではすこしもうかんで)

少しでも忍ぼうとした。船の中での倉地との楽しい思い出は少しも浮かんで

(こずに、どんなかまえともそうぞうはできないが、とにかくくらちのすまいの)

来ずに、どんな構えとも想像はできないが、とにかく倉地の住居(すまい)の

(あるへやに、さんにんのむすめたちにとりまかれて、うつくしいつまにしずかれてさかずきをほして)

ある部屋に、三人の娘たちに取り巻かれて、美しい妻にしずかれて杯を干して

(いるくらちばかりがそうぞうにうかんだ。そこにぬぎすててあるくらちのふだんぎは)

いる倉地ばかりが想像に浮かんだ。そこに脱ぎ捨ててある倉地のふだん着は

(ますますようこのそうぞうをほしいままにさせた。いつでもようこのじょうねつをひっつかんで)

ますます葉子の想像をほしいままにさせた。いつでも葉子の情熱を引っつかんで

(ゆすぶりたてるようなくらちとくゆうのはだのにおい、ほうじゅんなさけや、たばこからにおいでる)

ゆすぶり立てるような倉地特有の膚の香い、芳醇な酒や、煙草からにおい出る

(ようなそのにおいをようこはいるいをかきよせて、それにかおをうずめながら、まひして)

ようなその香いを葉子は衣類をかき寄せて、それに顔を埋めながら、麻痺して

(いくようなきもちでかぎにかいだ。そのにおいのいちばんおくに、ちゅうねんのおとこにとくゆうな)

行くような気持ちでかぎにかいだ。その香いのいちばん奥に、中年の男に特有な

(ふけのようなふかいなにおい、たにんののであったならようこはひとたまりもなくはなを)

ふけのような不快な香い、他人ののであったなら葉子はひとたまりもなく鼻を

(おおうようなふかいなにおいをかぎつけると、ようこはにくたいてきにもいっしゅのとうすいをかんじて)

おおうような不快な香いをかぎつけると、葉子は肉体的にも一種の陶酔を感じて

(くるのだった。そのくらちがつまやむすめたちにとりまかれてたのしくいっせきをすごして)

来るのだった。その倉地が妻や娘たちに取り巻かれて楽しく一夕を過ごして

(いる。そうおもうとありあわせるものをとってぶちこわすか、つかんで)

いる。そう思うとあり合わせるものを取って 打(ぶ)ちこわすか、つかんで

(ひきさきたいようなしょうどうがわけもなくこうじてくるのだった。)

引き裂きたいような衝動がわけもなく嵩じて来るのだった。

(それでもくらちがかえってくると、それはよるおそくなってからであってもようこはただ)

それでも倉地が帰って来ると、それは夜おそくなってからであっても葉子はただ

(こどものようにこうふくだった。それまでのふあんやしょうそうはどこかにいってしまって、)

子供のように幸福だった。それまでの不安や焦燥はどこかに行ってしまって、

(あくむからこうふくなせかいにめざめたようにこうふくだった。ようこはすぐはしっていって)

悪夢から幸福な世界に目ざめたように幸福だった。葉子はすぐ走って行って

(くらちのむねにたわいなくだかれた。くらちもようこをじぶんのむねにひきしめた。ようこは)

倉地の胸にたわいなく抱かれた。倉地も葉子を自分の胸に引き締めた。葉子は

(ひろいあついむねにだかれながら、たんちょうなやどやのせいかつのいちにちじゅうにおこったささいな)

広い厚い胸に抱かれながら、単調な宿屋の生活の一日中に起こった些細な

(ことまでを、そのひょうじょうゆたかな、すずのようなすずしいこえで、じぶんをたのしませている)

事までを、その表情ゆたかな、鈴のような涼しい声で、自分を楽しませている

(もののごとくかたった。くらちはくらちでそのこえによいしれてみえた。ふたりのこうふくは)

もののごとく語った。倉地は倉地でその声に酔いしれて見えた。二人の幸福は

(どこにぜっちょうがあるのかわからなかった。ふたりだけでせかいはかんぜんだった。ようこの)

どこに絶頂があるのかわからなかった。二人だけで世界は完全だった。葉子の

(することはひとつひとつくらちのこころがするようにみえた。くらちのこうありたいとおもうことは)

する事は一つ一つ倉地の心がするように見えた。倉地のこうありたいと思う事は

(ようこがあらかじめそうあらせていた。くらちのしたいとおもうことは、ようこがちゃんと)

葉子があらかじめそうあらせていた。倉地のしたいと思う事は、葉子がちゃんと

(しとげていた。ちゃわんのおきばしょまで、きもののしまいどころまで、くらちはじぶんのてで)

し遂げていた。茶碗の置き場所まで、着物のしまい所まで、倉地は自分の手で

(したとおりをようこがしているのをみいだしているようだった。「しかしくらちは)

したとおりを葉子がしているのを見いだしているようだった。「しかし倉地は

(つまやむすめたちをどうするのだろう」こんなことをそんなこうふくのさいちゅうにもようこは)

妻や娘たちをどうするのだろう」こんな事をそんな幸福の最中にも葉子は

(かんがえないこともなかった。しかしくらちのかおをみると、そんなことはおもうもはずかしい)

考えない事もなかった。しかし倉地の顔を見ると、そんな事は思うも恥ずかしい

(ようなささいなことにおもわれた。)

ような些細な事に思われた。

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