魯迅 阿Q正伝その8
(補正)改行部分を打ちやすくしました。よろしければどうぞ
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(だい3しょう ぞくゆうしょうきりゃく)
第3章 続優勝記略
(それはそうと、あきゅうはいつもかっていたが、なまえがうれだしたのは、)
それはそうと、阿Qはいつも勝っていたが、名前が売れ出したのは、
(ちょうだんなの、ごちょうちゃくをうけてからのことだ。)
趙太爺の、ご打擲を受けてからのことだ。
(かれは200もんのわいろをむらやくにんにわたしてしまうと、)
彼は200文のワイロを村役人に渡してしまうと、
(ぷんぷんはらをたててねころんだ。あとでおもいついた。)
ぷんぷん腹を立てて寝転んだ。あとで思いついた。
(「いまのせかいははなしにならん。せがれがおやじをうつ」)
「今の世界は話にならん。倅が親爺を打つ」
(そこでふとちょうだんなのいふうをおもいだし、)
そこでふと趙太爺の威風を想い出し、
(それがげんざいじぶんのせがれだとおもうとわれながらうれしくなった。)
それが現在自分の倅だと思うと我ながら嬉しくなった。
(かれがきゅうにおきあがって)
彼が急に起き上って
(「わかごけのはかまいり」)
「若後家の墓参り」
(といううたをうたいながらさかやへいった。)
という歌を歌いながら酒屋へ行った。
(このときこそかれはちょうだんなよりもいちだんうわてのじんぶつになりすましていたのだ。)
この時こそ彼は趙太爺よりも一段うわ手の人物に成り済ましていたのだ。
(へんてこなことだがそれからというものは、)
ヘンテコなことだがそれからというものは、
(はたしてみんながことのほか、かれをそんけいするようになった。)
果してみんなが殊の外、彼を尊敬するようになった。
(これはあきゅうとしてはじぶんがちょうだんなのちちおやに)
これは阿Qとしては自分が趙太爺の父親に
(なりすましているのだからとうぜんのことであるが、)
なりすましているのだから当然のことであるが、
(ほんとうのところはそうでなかった。)
本当のところはそうでなかった。
(みしょうのしきたりでは、)
未荘のしきたりでは、
(あしちがあはちをうつようなことがあっても、)
阿七が阿八を打つような事があっても、
(あるいはりしがちょうさんをうっても、)
あるいは李四が張三を打っても、
など
(そんなことははなからもんだいにならない。)
そんなことはハナから問題にならない。
(ぜひともあるなのしれたひと、)
ぜひともある名の知れた人、
(たとえばちょうだんなのようなひととこうしょうがあってこそ、)
たとえば趙太爺のような人と交渉があってこそ、
(はじめてかれらのくちのはにかかるのだ。)
初めて彼等の口の端に掛るのだ。
(いっぺんくちのはにかかれば、うってもひょうばんになるし、)
一遍口の端に掛れば、打っても評判になるし、
(うたれてもそのおかげさまでひょうばんになるのだ。)
打たれてもそのお蔭様で評判になるのだ。
(あきゅうのおもいちがいなどもちろんどうでもいいのだ。)
阿Qの思い違いなどもちろんどうでもいいのだ。
(そのわけは?つまりちょうだんなにまちがいのあるはずはなく、)
そのわけは?つまり趙太爺に間違いのあるはずはなく、
(あきゅうにまちがいがあるのに、なぜみんなはことのほかかれをそんけいするようになったか?)
阿Qに間違いがあるのに、なぜみんなは殊の外彼を尊敬するようになったか?
(これはべらぼうなはなしだが、よくかんがえてみると、)
これはべら棒な話だが、よく考えてみると、
(あきゅうはちょうだんなのほんけだといってうたれたのだから、)
阿Qは趙太爺の本家だと言って打たれたのだから、
(ひょっとしてそれがほんとうだったら、)
ひょっとしてそれが本当だったら、
(かれをそんけいするのはしごくおんとうなはなしで、まったくそれにこしたことはない。)
彼を尊敬するのは至極穏当な話で、全くそれに越したことはない。
(でなければまたそのようないみがあるかもしれない。)
でなければまたそのような意味があるかもしれない。
(せいびょうのなかのおそなえもののように、)
聖廟の中のお供物のように、
(あきゅうはちょようとどうようのちくしょうであるが、)
阿Qは豬羊と同様の畜生であるが、
(いったんせいじんのおてがつくと、がくしゃせんせい、なかなかそれをそまつにしない。)
いったん聖人のお手がつくと、学者先生、なかなかそれを粗末にしない。
(あきゅうはそれからというものはずいぶんながいこといばっていた。)
阿Qはそれからというものはずいぶん長いこと威張っていた。