有島武郎 或る女106
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問題文
(さむいともあついともさらにかんじなくすごしてきたようこは、あめがえりあしに)
寒いとも暑いともさらに感じなく過ごして来た葉子は、雨が襟脚に
(おちたのではじめてさむいとおもった。かんとうにときどきおそってくるときならぬひえびで)
落ちたので初めて寒いと思った。関東に時々襲って来る時ならぬ冷え日で
(そのひもあったらしい。ようこはかるくみぶるいしながら、いちずにくらちの)
その日もあったらしい。葉子は軽く身ぶるいしながら、いちずに倉地の
(あとをおった。ややじゅうしごけんもさきにいたくらちはあしおとをききつけたとみえて)
あとを追った。やや十四五間も先にいた倉地は足音を聞きつけたと見えて
(たちどまってふりかえった。ようこがおいついたときには、かたはいいかげんぬれて、)
立ち止まって振り返った。葉子が追いついた時には、肩はいいかげんぬれて、
(あめのしずくがまえがみをつたってひたいにながれかかるまでになっていた。)
雨のしずくが前髪を伝って額に流れかかるまでになっていた。
(ようこはかすかなひかりにすかして、くらちがめいわくそうなかおつきでたっているのを)
葉子はかすかな光にすかして、倉地が迷惑そうな顔つきで立っているのを
(しった。ようこはわれにもなくくらちがかさをもつためにすいへいにまげたそのうでに)
知った。葉子はわれにもなく倉地が傘を持つために水平に曲げたその腕に
(すがりついた。)
すがり付いた。
(「さっきのおかねはおかえしします。ぎりずくでたにんからしていただくんでは)
「さっきのお金はお返しします。義理ずくで他人からしていただくんでは
(むねがつかえますから・・・」)
胸がつかえますから・・・」
(くらちのうでのところでようこのすがりついたてはぶるぶるとふるえた。)
倉地の腕の所で葉子のすがり付いた手はぶるぶると震えた。
(かさからはしたたりがことさらしげくおちて、ひとえをぬけてようこのはだに)
傘からはしたたりがことさら繁く落ちて、単衣をぬけて葉子の肌に
(にじみとおった。ようこは、ねつびょうかんじゃがつめたいものにふれたときのような)
にじみ通った。葉子は、熱病患者が冷たいものに触れた時のような
(ふかいなおかんをかんじた。)
不快な悪寒を感じた。
(「おまえのしんけいはまったくすこしどうかしとるぜ。おれのことをすこしはおもってみて)
「お前の神経は全く少しどうかしとるぜ。おれの事を少しは思ってみて
(くれてもよかろうが・・・うたがうにもひがむにもほどがあっていいはずだ。)
くれてもよかろうが・・・疑うにもひがむにもほどがあっていいはずだ。
(おれはこれまでにどんなふてくされをした。いえるならいってみろ」)
おれはこれまでにどんな不貞腐れをした。いえるならいってみろ」
(さすがにくらちもきにさえているらしくみえた。)
さすがに倉地も気にさえているらしく見えた。
(「いえないようにじょうずにふてくされをなさるのじゃ、いおうったっていえや)
「いえないように上手に不貞腐れをなさるのじゃ、いおうったっていえや
(しませんわね。なぜあなたははっきりようこにはあきた、もうようがないと)
しませんわね。なぜあなたははっきり葉子にはあきた、もう用がないと
(おいいになれないの。おとこらしくもない。さ、とってくださいましこれを」)
おいいになれないの。男らしくもない。さ、取ってくださいましこれを」
(ようこはしへいのたばをわなわなするてさきでくらちのむねのところにおしつけた。)
葉子は紙幣の束をわなわなする手先で倉地の胸の所に押しつけた。
(「そしてちゃんとおくさんをおよびもどしなさいまし。それでなにもかももとどおりに)
「そしてちゃんと奥さんをお呼び戻しなさいまし。それで何もかも元通りに
(なるんだから。はばかりながら・・・」)
なるんだから。はばかりながら・・・」
(「あいこは」とくちもとまでいいかけて、ようこはおそろしさにいきをひいてしまった。)
「愛子は」と口もとまでいいかけて、葉子は恐ろしさに息を引いてしまった。
(くらちのさいくんのことまでいったのはそのよるがはじめてだった。これほどろこつな)
倉地の細君の事までいったのはその夜が始めてだった。これほど露骨な
(しっとのことばは、おとこのこころをようこからとおざからすばかりだとしりぬいて)
嫉妬の言葉は、男の心を葉子から遠ざからすばかりだと知り抜いて
(つつしんでいたくせに、ようこはわれにもなく、がみがみといもうとのことまで)
慎んでいたくせに、葉子はわれにもなく、がみがみと妹の事まで
(いってのけようとするじぶんにあきれてしまった。)
いってのけようとする自分にあきれてしまった。
(ようこがそこまではしりでてきたのは、わかれるまえにもういちどくらちのつよいうでで)
葉子がそこまで走り出て来たのは、別れる前にもう一度倉地の強い腕で
(そのあたたかくひろいむねにいだかれたいためだったのだ。くらちにあくたれぐちをきいた)
その暖かく広い胸に抱かれたいためだったのだ。倉地に悪たれ口をきいた
(しゅんかんでもようこのねがいはそこにあった。それにもかかわらずくちのうえではまったく)
瞬間でも葉子の願いはそこにあった。それにもかかわらず口の上では全く
(はんたいに、くらちをじぶんからどんどんはなれさすようなことをいってのけているのだ。)
反対に、倉地を自分からどんどん離れさすような事をいってのけているのだ。
(ようこのことばがつのるにつれて、くらちはひとめをはばかるようにあたりを)
葉子の言葉が募るにつれて、倉地は人目をはばかるようにあたりを
(みまわした。たがいたがいにころしあいたいほどのしゅうちゃくをかんじながら、それを)
見回した。互い互いに殺し合いたいほどの執着を感じながら、それを
(いいあらわすこともしんずることもできず、ようもないさいぎとふまんとにさえぎられて、)
言い現わす事も信ずる事も出来ず、要もない猜疑と不満とにさえぎられて、
(みるみるろぼうのひとのようにとおざかっていかねばならぬ、)
見る見る路傍の人のように遠ざかって行かねばならぬ、
(ーーそのおそろしいうんめいをようこはことさらつうせつにかんじた。)
ーーその恐ろしい運命を葉子はことさら痛切に感じた。
(くらちがあたりをみまわしたーーそれだけのきょどうが、きをみはからって)
倉地があたりを見回したーーそれだけの挙動が、機を見計らって
(いきなりそこをにげだそうとするもののようにもおもいなされた。)
いきなりそこを逃げ出そうとするもののようにも思いなされた。
(ようこはくらちにたいするぞうおのこころをせつないまでにつのらしながら、)
葉子は倉地に対する憎悪の心を切ないまでに募らしながら、
(ますますあいてのうでにかたくよりそった。)
ますます相手の腕に堅く寄り添った。
(しばらくのちんもくのあと、くらちはいきなりこうもりをそこに)
しばらくの沈黙の後、倉地はいきなり洋傘(こうもり)をそこに
(かなぐりすてて、ようこのあたまをみぎうででまきすくめようとした。ようこは)
かなぐり捨てて、葉子の頭を右腕で巻きすくめようとした。葉子は
(ほんのうてきにはげしくそれにさからった。そしてしへいのたばをぬかるみのなかに)
本能的に激しくそれにさからった。そして紙幣の束をぬかるみの中に
(たたきつけた。そしてふたりはやじゅうのようにあらそった。)
たたきつけた。そして二人は野獣のように争った。
(「かってにせい・・・ばかっ」)
「勝手にせい・・・ばかっ」
(やがてそうはげしくいいすてるとおもうと、くらちはうでのちからをきゅうにゆるめて、)
やがてそう激しくいい捨てると思うと、倉地は腕の力を急にゆるめて、
(こうもりをひろいあげるなり、あとをもむかずにみなみもんのほうにむいてずんずんと)
洋傘を拾い上げるなり、あとをも向かずに南門のほうに向いてずんずんと
(あるきだした。ふんぬとしっととこうふんしきったようこはやっきになってそのあとを)
歩き出した。憤怒と嫉妬と興奮しきった葉子は躍起になってそのあとを
(おおうとしたが、あしはしびれたようにうごかなかった。ただだんだんとおざかって)
追おうとしたが、足はしびれたように動かなかった。ただだんだん遠ざかって
(いくうしろすがたにたいして、あついなみだがとめどなくながれおちるばかりだった。)
行く後ろ姿に対して、熱い涙がとめどなく流れ落ちるばかりだった。
(しめやかなおとをたててあめはふりつづけていた。かくりびょうしつのあるかぎりのまどには)
しめやかな音を立てて雨は降り続けていた。隔離病室のある限りの窓には
(かんかんとひがともって、しろいかーてんがひいてあった。いんうつなびょうしつに)
かんかんと灯がともって、白いカーテンが引いてあった。陰鬱な病室に
(そうあかあかとひのともっているのはかえってあたりをものすさまじくしてみせた。)
そう赤々と灯のともっているのはかえってあたりを物すさまじくして見せた。
(ようこはしへいのたばをひろいあげるほか、すべのないのをしって、しおしおとそれを)
葉子は紙幣の束を拾い上げるほか、術のないのを知って、しおしおとそれを
(ひろいあげた。さだよのにゅういんりょうはなんといってもそれでしはらうよりしようが)
拾い上げた。貞世の入院料はなんといってもそれで支払うよりしようが
(なかったから。いいようのないくやしなみだがさらにわきかえった。)
なかったから。いいようのないくやし涙がさらにわき返った。
(よんじゅうさんそのよるおそくまでおかはほんとうにまめやかにさだよのびょうしつに)
【四三】 その夜おそくまで岡はほんとうに 忠実(まめ)やかに貞世の病室に
(つきそってせわをしてくれた。くちすくなにしとやかによくきをつけて、)
付き添って世話をしてくれた。口少なにしとやかによく気をつけて、
(さだよのほっすることをあらかじめしりぬいているようなおかのかんごぶりは、)
貞世の欲する事をあらかじめ知り抜いているような岡の看護ぶりは、
(とおりいっぺんなかんごふのはたらきぶりとはまるでくらべものにならなかった。)
通り一ぺんな看護婦の働きぶりとはまるでくらべものにならなかった。
(ようこはかんごふをはやくねかしてしまって、おかとふたりだけでよるのふけるまで)
葉子は看護婦を早く寝かしてしまって、岡と二人だけで夜のふけるまで
(ひょうのうをとりかえたり、ねつをはかったりした。)
氷嚢を取りかえたり、熱を計ったりした。
(こうねつのためにさだよのいしきはだんだんふめいりょうになってきていた。たいいんしていえに)
高熱のために貞世の意識はだんだん不明瞭になって来ていた。退院して家に
(かえりたいとせがんでしようのないときは、そっとむきをかえてねかしてから、)
帰りたいとせがんでしようのない時は、そっと向きを変えて臥かしてから、
(「さあもうおうちですよ」というと、うれしそうにえがおをもらしたりした。)
「さあもうお家ですよ」というと、うれしそうに笑顔をもらしたりした。
(それをみなければならぬようこはたまらなかった。どうかしたひょうしに、ようこは)
それを見なければならぬ葉子はたまらなかった。どうかした拍子に、葉子は
(とびあがりそうにこころがせめられた。これでさだよがしんでしまったなら、)
飛び上がりそうに心が責められた。これで貞世が死んでしまったなら、
(どうしていきながらえていられよう。さだよをこんなくるしみにおとしいれたものは)
どうして生き永らえていられよう。貞世をこんな苦しみに陥れたものは
(みんなじぶんだ。じぶんがまえどおりにさだよにやさしくさえしていたら、こんなしびょうは)
みんな自分だ。自分が前どおりに貞世に優しくさえしていたら、こんな死病は
(ゆめにもさだよをおそってきはしなかったのだ。ひとのこころのむくいはおそろしい・・・)
夢にも貞世を襲って来はしなかったのだ。人の心の報いは恐ろしい・・・
(そうおもってくるとようこはだれにわびようもないくのうにいきづまった。)
そう思って来ると葉子はだれにわびようもない苦悩に息づまった。
(みどりいろのふろしきでつつんだでんとうのしたに、ひょうのうをいくつもあたまとふくぶとに)
緑色の風呂敷で包んだ電燈の下に、氷嚢を幾つも頭と腹部とに
(あてがわれたさだよは、いまにもたえいるかとあやぶまれるようなあらいいきづかいで)
あてがわれた貞世は、今にも絶え入るかと危ぶまれるような荒い息づかいで
(ゆめうつつのあいだをさまようらしく、ききとれないうわごとをときどきくちばしりながら、)
夢現の間をさまようらしく、聞き取れない譫言を時々口走りながら、
(ねむっていた。おかはへやのすみのほうにつつましくつったったまま、)
眠っていた。岡は部屋のすみのほうにつつましく突っ立ったまま、
(みどりいろをすかしてくるでんとうのひかりでことさらあおじろいかおいろをして、じっと)
緑色をすかして来る電燈の光でことさら青白い顔色をして、じっと
(さだよをみまもっていた。ようこはしんだいにちかくいすをよせて、さだよのかおを)
貞世を見守っていた。葉子は寝台に近く椅子を寄せて、貞世の顔を
(のぞきこむようにしながら、さだよのためになにかしつづけていなければ、)
のぞき込むようにしながら、貞世のために何かし続けていなければ、
(さだよのびょうきがますますおもるというめいしんのようなこころづかいから、)
貞世の病気がますます重(おも)るという迷信のような心づかいから、
(ようもないのにたえずひょうのうのいちをとりかえてやったりなどしていた。)
要もないのに絶えず氷嚢の位置を取りかえてやったりなどしていた。
(そしてみじかいよるはだんだんにふけていった。)
そして短い夜はだんだんにふけて行った。