森鴎外 大塩平八郎その5

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(「よしみえいたろうというのはおまえか」)

「吉見英太郎というのはお前か」

(「はい。」れいりらしいめをみはって、ぞんがい、きおくれたようすもなくほりをあおぎみた。)

「はい。」怜悧らしい目を見張って、存外、気遅れた様子もなく堀を仰ぎ視た。

(「ちちくろうえもんはびょうきでねてをるのじゃな。」)

「父九郎右衛門は病気で寝てをるのじゃな。」

(「かぜのあとでじびょうのせんつうと)

「風邪の後で持病の疝痛

(ぢしつがおこりまして、)

痔疾が起こりまして、

(とほがかないませぬ。」)

徒歩が叶いませぬ。」

(「かきつけにはおまえはうちへかえられぬとかいてあったが、どうしてかえれた」)

「書き付けにはお前はウチへ帰られぬと書いてあったが、どうして帰れた」

(「ちちはかえれぬかもしれぬが、おおごとになるまでににげてこられるなら、)

「父は帰れぬかも知れぬが、大事になる迄に逃げてこられるなら、

(にげてこいともうしつけておりました。)

逃げて来いと申し付けておりました。

(そうもうしたのはじゅうさんにちにみまいにまいったときのことでございます。)

そう申したのは十三日に見舞に参った時の事でございます。

(それからいっしょにじゅくにいるかわいやそじろうとそうだんいたしまして、)

それから一緒に塾にいる河合八十次郎と相談いたしまして、

(さくばんよつどきにぬけてかえりました。)

昨晩四つ時に抜けて帰りました。

(せんせいのところにはおきゃくがおおぜいありまして、こんざついたしておましたので、)

先生の所にはお客が大勢ありまして、混雑いたしておましたので、

(にげてこられたのでございます。それから。」)

逃げてこられたのでございます。それから。」

(えいたろうはなにかいいかけてくちをつぐんだ。)

英太郎は何か言いかけて口を噤んだ。

(ほりはしばらくまっていたが、えいたろうはだまったままである。)

堀はしばらく待っていたが、英太郎は黙ったままである。

(「それからどういたした」と、ほりがとうた。)

「それからどういたした」と、堀が問うた。

(「それからちちがもうしました。)

「それから父が申しました。

(ひがしのぶぎょうしょにはせたとこいずみとがとうばんででておりますから、)

東の奉行所には瀬田と小泉とが当番で出ておりますから、

(それをもうしあげいともうしました。」)

それを申し上げいと申しました。」

など

(「そうか。」ひがしくみよりき・せたせいのすけ、どう・こいずみえんじろうのふたりが)

「そうか。」東組与力・瀬田済之助、同・小泉淵次郎《えんじろう》の二人が

(れんばんにくわわっているということは、ひらやまのこうじょうにもあったのである。)

連判に加わっていると云うことは、平山の口上にもあったのである。

(ほりはやそじろうのほうにむいた。「おまえがかわいやそじろうか」)

堀は八十次郎の方に向いた。「お前が河合八十次郎か」

(「はい。」ほほのまるいえいたろうとちがって、これはおもながなしょうねんであるが、)

「はい。」頬の丸い英太郎と違って、これは面長な少年であるが、

(おなじようにりはつそうで、きおくれするけはいはない。)

同じように利発そうで、気後れする気配は無い。

(「おまえのちちはどういたしたのじゃ。」)

「お前の父はどういたしたのじゃ。」

(「ははがもうしました。せんげつのにじゅうろくにちのばんであったそうでございます。)

「母が申しました。先月の二十六日の晩であったそうでございます。

(ちちはせんせいのところからかえって、ひばしでちょうちゃくされてざんねんだともうしたそうでございます。)

父は先生の所から帰って、火箸で打擲されて残念だと申したそうでございます。

(あくるあさ、ちちはおとうとのきんのすけをつれて、てんまんぐうへまいるといってでましたが、)

あくる朝、父は弟の謹之助を連れて、天満宮へ参ると云って出ましたが、

(それっきりどちらへまいったか、かえりません。」)

それっきりどちらへ参ったか、帰りません。」

(「そうか。もうよろしい。」)

「そうか。もう宜しい。」

(こういってほりはなかいずみをかえりみた。)

こう云って堀は中泉を顧みた。

(「いかがとりはからいましょう」と、なかいずみがしゅじんのきしょくをうかがった。)

「いかが取り計らいましょう」と、中泉が主人の気色を伺った。

(「ばんにんをつけてとめおけ。」こういっておいて、ほりはざをたった。)

「番人を附けて留め置け。」こう云って置いて、堀は座を立った。

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