緋のエチュード　１

(そのため、おびただしいかずのふしょうへいといっしょに)

そのため、おびただしい数の負傷兵と一緒に

(ぺしゃわーるのきちびょういんへごそうされた。)

ペシャワールの基地病院へ後送された。

(わたしはりょうようのすえ、びょうとうをあるきまわり、)

私は療養の末、病棟を歩き回り、

(ヴぇらんだでにっこうよくができるほどまでかいふくしたのだが、)

ヴェランダで日光浴が出来るほどまで回復したのだが、

(そんなときいんどりょうののろいことちょうちふすにかかり、)

そんなときインド領の呪いこと腸チフスにかかり、

(びょうしょうにふしてしまった。すうかげつかん、わがいのちはとうげをさまよった。)

病床に伏してしまった。数ヶ月間、我が命は峠をさまよった。

(いしきをとりもどしびょうじょうがうわむいたときには、わたしはすっかりやつれおとろえ、)

意識を取り戻し病状が上向いたときには、私はすっかりやつれ衰え、

(ついにはいきょくからいっこくもはやくほんごくへきかんさせよ、とのしんだんがくだった。)

ついには医局から一刻も早く本国へ帰還させよ、との診断が下った。

(さっそくそのままぐんたいゆそうせんおろんてぃーずごうにのせられ、)

早速そのまま軍隊輸送船オロンティーズ号に乗せられ、

(いっかげつごぽーつますさんばしにじょうりくしたのだが、わたしのけんこうはみるかげもなく、)

一ヶ月後ポーツマス桟橋に上陸したのだが、私の健康は見る影もなく、

(そこくせいふからむこうきゅうかげつのせいようきょかをいただくというありさまだった。)

祖国政府から向こう九ヶ月の静養許可をいただくという有様だった。

(いんぐらんどにはしんるいちきがひとりとしておらず、)

イングランドには親類知己がひとりとしておらず、

(くうきのようにきままであり、)

空気のように気ままであり、

(いちにちじゅういちしりんぐろくぺんすのしきゅうがくのゆるすかぎりはかってにすごせた。)

一日一一シリング六ペンスの支給額の許す限りは勝手に過ごせた。

(このようなじょうきょうかでは、ぜんていこくにおけるだきけんたいのはきだめ、)

このような状況下では、全帝国における惰気倦怠の掃き溜め、

(このろんどんにわたしがいつくのはとうぜんのことだった。)

このロンドンに私が居着くのは当然のことだった。

(しばらくすとらんどのぷらいヴぇーとほてるにねとまりし、)

しばらくストランドのプライヴェート・ホテルに寝泊まりし、

(むみかんそうなせいかつをおくり、きんせんをゆみずのごとくつかっていた。)

無味乾燥な生活を送り、金銭を湯水の如く使っていた。

(するとわたしのざいげんはそこをつきはじめ、)

すると私の財源は底を尽き始め、

(そこでにしゃたくいつをせまられているげんじょうにようやくきがついたのである。)

そこで二者択一を迫られている現状にようやく気が付いたのである。

(このだいとしをさりいなかへひきはらうか、)

この大都市を去り田舎へ引き払うか、

(もしくはいまのせいかつをこんていからあらためるか。わたしはこうしゃをえらび、)

もしくは今の生活を根底から改めるか。私は後者を選び、

(まずほてるをさることをこころにきめ、)

まずホテルを去ることを心に決め、

(しゃれっけをいくぶんおとしてもよいから、そのぶんやすい、)

洒落っけを幾分落としてもよいから、その分安い、

(そんなへやをさがしはじめた。)

そんな部屋を捜し始めた。

(こういうけつろんにいきついたそのひ、)

こういう結論に行き着いたその日、

(くらいてぃりおんさかばのまえにつったっていると、だれかにかたをたたかれた。)

クライティリオン酒場の前に突っ立っていると、誰かに肩を叩かれた。

(ふりかえってみると、なんとばーつでわたしのしゅじゅつじょしゅだった)

振り返ってみると、なんとバーツで私の手術助手だった

(すたんふぉーどせいねんがそこにいたのである。)

スタンフォード青年がそこにいたのである。

(このだいとかいろんどんでしったかおをみて、)

この大都会ロンドンで知った顔を見て、

(わたしのさみしさもあらわれるようだった。)

私のさみしさもあらわれるようだった。

(せきじつ、すたんふぉーどとそれほどしたしいわけではなかったが、)

昔日、スタンフォードとそれほど親しいわけではなかったが、

(わたしがこころのこもったあいさつをすると、)

私が心のこもった挨拶をすると、

(すたんふぉーどもうれしそうなかおをみせてくれた。)

スタンフォードもうれしそうな顔を見せてくれた。

(わたしはよろこびついでにほるぼーんでいっしょにちゅうしょくでもとろうとさそい、)

私は喜びついでにホルボーンで一緒に昼食でも摂ろうと誘い、

(ふたりしてはんそむがたばしゃでしゅっぱつした。)

ふたりしてハンソム型馬車で出発した。

(「わとそん、いまはなにをしているんだ？」)

「ワトソン、今は何をしているんだ？」

(とすたんふぉーどはおどろきをかくせずきいてきた。)

とスタンフォードは驚きを隠せず訊いてきた。

(ちょうどばしゃがろんどんのざっとうをかきわけはしっているときだった。)

ちょうど馬車がロンドンの雑踏をかき分け走っているときだった。

(「はりがねみたいにやせて、はだのいろもくるみみたいじゃないか。」)

「針金みたいに痩せて、肌の色も胡桃みたいじゃないか。」

(わたしはわがぼうけんだんをてみじかにきかせようとしたが、)

私は我が冒険談を手短に聞かせようとしたが、

(はなしはほるぼーんのなかまでもつれこんだ。)

話はホルボーンのなかまでもつれ込んだ。

(ふこうばなしがおわると、すたんふぉーどはどうじょうまじりにいった。)

不幸話が終わると、スタンフォードは同情混じりに言った。

(「とんださいなんだったね。いまはどうしてるんだい？」)

「とんだ災難だったね。今はどうしてるんだい？」

(「げしゅくをさがしていてな、なんとかよいへやを)

「下宿を捜していてな、何とか良い部屋を

(てごろなやちんでかりられんかとくしんしているのだが。」)

手頃な家賃で借りられんかと苦心しているのだが。」

(するとはなしあいては、「きぐうだな。)

すると話し相手は、「奇遇だな。

(そんなことばをきいたのはきょう、きみでふたりめだ。」)

そんな言葉を聞いたのは今日、君で二人目だ。」

(「ならわたしのまえにだれか？」とわたし。)

「なら私の前に誰か？」と私。

(「びょういんのかがくじっけんしつでけんきゅうをしているやつでさ。)

「病院の化学実験室で研究をしているやつでさ。

(けさなげいていたんでわけをきいてみると、)

今朝嘆いていたんで訳を聞いてみると、

(よいへやがあるんだけどふところぐあいにみあわなくて、)

良い部屋があるんだけど懐具合に見合わなくて、

(かといってやちんをせっぱんするにんげんもみつからないとか。」)

かといって家賃を折半する人間も見つからないとか。」

(「なんと！へやとやちんをわけあうなら、わたしなどうってつけのおとこではないか。)

「何と！　部屋と家賃を分け合うなら、私など打ってつけの男ではないか。

(わたしもひとりよりはぱーとなーがいたほうがいい。」)

私も独りよりはパートナーがいた方がいい。」

(すたんふぉーどせいねんはわいんぐらすごしにおどろきのめをみせた。)

スタンフォード青年はワイングラス越しに驚きの目を見せた。

(「しゃーろっくほーむずをしらないんだったね。)

「シャーロック・ホームズを知らないんだったね。

(きっといっしょにせいかつするなんてまっぴらだ、っていうよ？」)

きっと一緒に生活するなんてまっぴらだ、って言うよ？」

(「かれとわたしではきがあいそうにないのか？」)

「彼と私では気が合いそうにないのか？」

(「いやいや、きがあわないとかそういうことじゃない。)

「いやいや、気が合わないとかそういうことじゃない。

(ちょっとかわったはっそうをするやつでね　かがくのほうにめがないんだ。)

ちょっと変わった発想をするやつでね　科学の方に目がないんだ。

(なかなかいいやつだとはおもうんだけど。」)

なかなかいいやつだとは思うんだけど。」

(「いがくせいかね？」)

「医学生かね？」

(「いいや・・・・・・それがせんこうがなにかもさっぱり。かいぼうがくにあかるいし、)

「いいや……それが専攻が何かもさっぱり。解剖学に明るいし、

(いちりゅうのかがくしゃともおもえる。でもみるかぎり、)

一流の化学者とも思える。でも見る限り、

(たいけいてきないがくのべんきょうをしたようすはなさそうで。)

体系的な医学の勉強をした様子はなさそうで。

(かれのけんきゅうはまさにきまぐれきばつ、それでいてとびぬけたちしきのほうこで、)

彼の研究はまさに気まぐれ奇抜、それでいて飛び抜けた知識の宝庫で、

(きょうじゅたちもびっくりだよ。」)

教授たちもびっくりだよ。」

(「ほんにんになにをしているのかといたださなかったのかね？」)

「本人に何をしているのか問いたださなかったのかね？」

(「いやきいたことにはなかなかこたえてくれなくて。)

「いや聞いたことにはなかなか答えてくれなくて。

(ほんにんのきがむけば、いくらでもはなしてくれるんだけど。」)

本人の気が向けば、いくらでも話してくれるんだけど。」

(「ぜひともあいたいね。」とわたし。)

「ぜひとも会いたいね。」と私。

(「だれかとどうきょするなら、けんきゅうねっしんでものしずかなおとこがいい。)

「誰かと同居するなら、研究熱心で物静かな男がいい。

(まだぜんかいしたわけじゃないから、せかせかしたり、)

まだ全快したわけじゃないから、せかせかしたり、

(はらはらしたりするのはきつくてな。)

はらはらしたりするのはきつくてな。

(どちらもあふがにすたんでいっしょうぶんたいけんしてきたからもうけっこうだ。)

どちらもアフガニスタンで一生分体験してきたからもう結構だ。

(どうすれば、そのきみのしりあいとやらにあえるのかね？」)

どうすれば、その君の知り合いとやらに会えるのかね？」

(「きっとじっけんしつにいるよ。」とあいてはこたえる。)

「きっと実験室にいるよ。」と相手は答える。

(「なんしゅうかんもかおをださないこともあるけど、)

「何週間も顔を出さないこともあるけど、

(あさゆうずっとけんきゅうのためにつめこんでいることもあってね。)

朝夕ずっと研究のために詰め込んでいることもあってね。