『虻のおれい』夢野久作1
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問題文
(ちえこさんはことしろくさいになる、かわいいおじょうさんでした。)
チエ子さんは今年六歳になる、可愛いお嬢さんでした。
(あるひ、うらのおにわでひとりおとなしくあそんでいますと、)
ある日、裏のお庭で一人おとなしく遊んでいますと、
(「ぶるぶるぶるぶる」とへんなうたのようなこえがきこえました。)
「ブルブルブルブル」と変な歌のような声が聞こえました。
(なんだろうとそこいらをみまわしますと、そこのしろいかべによせかけてあった)
なんだろうとそこいらを見回しますと、そこの白い壁によせかけてあった
(さいだーのびんにいっぴきのあぶがおちこんで、ぶるんぶるんとくるいまわりながら、)
サイダーのビンに一匹のアブが落ち込んで、ブルンブルンと狂い回りながら、
(「どうぞたすけてください、どうぞたすけてください」といっています。)
「どうぞ助けて下さい、どうぞ助けて下さい」と言っています。
(ちえこさんはすぐにはしっていってそのびんをとりあげて、)
チエ子さんはすぐに走って行ってそのビンを取り上げて、
(くちのところからのぞきながら、「あぶさんあぶさん、どうしたの」)
口のところからのぞきながら、「アブさんアブさん、どうしたの」
(といいました。あぶはくるいまわってびんのがらすのあっちこっちへ)
と言いました。アブは狂い回ってビンのガラスのアッチコッチへ
(ぶつかりながら、「どうしてかおちこみましたところから)
ぶつかりながら、「どうしてか落ち込みましたところから
(でていかれなくなりました。たすけてください、たすけてください」)
出ていかれなくなりました。助けて下さい、助けて下さい」
(とないてくるいまわります。ちえこさんはわらいだしました。)
と泣いて狂い回ります。チエ子さんは笑い出しました。
(「あぶさん、おまえはばかだねえ。うえのほうにあながあるじゃないか。)
「アブさん、お前はバカだねえ。上の方に穴があるじゃないか。
(そう、あたしのこえがきこえるでしょう。そのほうへくればにげられるよ。)
そう、あたしの声が聞こえるでしょう。その方へくれば逃げられるよ。
(よこのほうへいってもだめだよ。がらすがあるから」といいましたが、)
横の方へ行ってもダメだよ。ガラスがあるから」と言いましたが、
(あぶはもうむちゅうになって、「どこですか、どこですか」と)
アブはもう夢中になって、「どこですか、どこですか」と
(くるいまわるばかりです。ちえこさんはあぶがかわいそうになりました。)
狂い回るばかりです。チエ子さんはアブが可哀想になりました。
(どうにかしてたすけてやりたいとおもって、)
どうにかして助けてやりたいと思って、
(そこいらにおちていたぼうきれをひろって、うえからつっこんで)
そこいらに落ちていた棒切れを拾って、上から突っ込んで
(うえのほうへおいやろうとしましたが、あぶはどうしてもうえのほうへきません。)
上の方へ追いやろうとしましたが、アブはどうしても上の方へきません。
(うっかりするとぼうにさわってころされそうになります。)
うっかりすると棒に触って殺されそうになります。
(ちえこさんはこまってしまいました。)
チエ子さんは困ってしまいました。
(どうやってたすけてやろうかといろいろかんがえました。うえからいきをふきこんだり、)
どうやって助けてやろうかと色々考えました。上から息を吹きこんだり、
(びんをさかさまにしてふったりしましたが、あぶはなかなかくちのほうへきません。)
ビンを逆さまにして振ったりしましたが、アブはなかなか口の方へきません。
(やっぱりよこのほうへよこのほうへと、とんではぶつかり、ぶつかってはとんで、)
やっぱり横の方へ横の方へと、飛んではぶつかり、ぶつかっては飛んで、
(しぬほどくるしんでいます。ちえこさんはまたかんがえました。)
死ぬ程苦しんでいます。チエ子さんはまた考えました。
(どうにかしてたすけたいといっしょうけんめいにかんがえましたが、とうとうひとつ、)
どうにかして助けたいと一生懸命に考えましたが、とうとう一つ、
(うまいことをかんがえだしまして、びんをてにもったままだいどころのほうへ)
うまいことを考え出しまして、ビンを手に持ったまま台所の方へ
(はしっていきました。ちえこさんはだいどころにいって、)
走って行きました。チエ子さんは台所に行って、
(さいだーをのむときのむぎわらとこっぷをひとつおかあさまから)
サイダーを飲む時の麦わらとコップを一つお母さまから
(かしていただきました。そのこっぷにみずをいれてむぎわらですいとって、)
貸していただきました。そのコップに水を入れて麦わらで吸い取って、
(あぶがじっとしているときにすこしずつびんのなかにいきをふきこんでやりますと、)
アブがジッとしている時に少しずつビンの中に息を吹き込んでやりますと、
(あぶはみずがこわいのでだんだんうえのほうへやってきました。)
アブは水が怖いので段々上の方へやってきました。
(ちえこさんはよろこんでもうひといきみずをふいてみますと、)
チエ子さんは喜んでもう一息水を吹いてみますと、
(どうしたものかあぶはまたあわてだしてぶるぶるととぶひょうしに)
どうしたものかアブはまた慌てだしてブルブルと飛ぶ拍子に
(みずのなかへおちこんでしまいました。ちえこさんはあわててびんを)
水の中へ落ち込んでしまいました。チエ子さんは慌ててビンを
(さかさまにしますと、みずといっしょにあぶもながれでて、)
逆さまにしますと、水と一緒にアブも流れ出て、
(びしょびしょにぬれたはねをひきずりながらくるしそうにじべたのうえを)
ビショビショに濡れた羽根を引きずりながら苦しそうに地べたの上を
(はいだしましたが、やがてみずのないところへきてはねをぶるぶると)
這い出しましたが、やがて水のないところへ来て羽根をブルブルと
(ふるわしたとおもうと、「ありがとうございます、ちえこさん。)
震わしたと思うと、「ありがとうございます、チエ子さん。
(このおれいはいつかきっといたします」)
このお礼はいつかきっといたします」
(といううちにぶーんととんでいきました。)
と言ううちにブーンと飛んで行きました。
(「おかあさん、おかあさん。ちえこはあぶをたすけました。)
「お母さん、お母さん。チエ子はアブを助けました。
(さいだーのびんのなかにおちていたのをみずをいれてそとにだしてやりました」)
サイダーのビンの中に落ちていたのを水を入れて外に出してやりました」
(とちえこさんはおおよろこびをしながらおかあさんにおはなししました。)
とチエ子さんは大喜びをしながらお母さんにお話ししました。
(「そう、ちえこさんはおりこうね。けれどもあぶはさしますから、)
「そう、チエ子さんはお利口ね。けれどもアブは刺しますから、
(これからは、いじらないようになさい」といわれました。)
これからは、いじらないようになさい」と言われました。
(「いいえ、おかあさん。あのあぶは、ちえこにありがとうって)
「いいえ、お母さん。あのアブは、チエ子にありがとうって
(おれいをいってにげていきましたのよ。ですからもうあたしはささないのよ」)
お礼を言って逃げて行きましたのよ。ですからもうあたしは刺さないのよ」
(とまじめになっていいました。おかあさんはこれをおききになって)
と真面目になって言いました。お母さんはこれをお聞きになって
(たいそうおわらいになりました。ちえこさんはあぶとおはなししたことを)
大層お笑いになりました。チエ子さんはアブとお話ししたことを
(いつまでもほんとうにしておりました。)
いつまでも本当にしておりました。