紫式部 源氏物語 葵 3 與謝野晶子訳
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問題文
(「このおくるまはほかのとはちがう。のけられてよいようなものじゃない」)
「このお車はほかのとは違う。除けられてよいようなものじゃない」
(といってそのくるまのものはてをふれさせない。そうほうにわかいじゅうしゃがあって、)
と言ってその車の者は手を触れさせない。双方に若い従者があって、
(まつりのさけによってきのたったときにすることははなはだしくてあらいのである。)
祭りの酒に酔って気の立った時にすることははなはだしく手荒いのである。
(うまにのっただいじんけのろうかじゅうなどが、 「そんなにするものじゃない」)
馬に乗った大臣家の老家従などが、 「そんなにするものじゃない」
(ととめているが、いきおいたったぼうりょくをとめることはふかのうである。さいぐうのははぎみの)
と止めているが、勢い立った暴力を止めることは不可能である。斎宮の母君の
(みやすどころがものおもいのなぐさめになろうかと、これはしのびできていたものみぐるまであった。)
御息所が物思いの慰めになろうかと、これは微行で来ていた物見車であった。
(そしらぬかおをしていてもさだいじんけのものはみなそれをこころではしっていた。)
素知らぬ顔をしていても左大臣家の者は皆それを心では知っていた。
(「それくらいのことでいばらせないぞ、たいしょうさんのひきがあるとおもうのかい」)
「それくらいのことでいばらせないぞ、大将さんの引きがあると思うのかい」
(などというのを、とものなかにはげんじのめしつかいもまじっているのであるから、)
などと言うのを、供の中には源氏の召使も混じっているのであるから、
(こうぎをすれば、いっそうめんどうになることをおそれて、だれもしらないかおを)
抗議をすれば、いっそう面倒になることを恐れて、だれも知らない顔を
(つくっているのである。とうとうまえへだいじんけのくるまをたてならべられて、みやすどころのくるまは)
作っているのである。とうとう前へ大臣家の車を立て並べられて、御息所の車は
(あおいふじんのにょうぼうがのったいくだいかのくるまのおくへおしこまれて、)
葵夫人の女房が乗った幾台かの車の奥へ押し込まれて、
(なにもみえないことになった。それをざんねんにおもうよりも、こんなしのびすがたの)
何も見えないことになった。それを残念に思うよりも、こんな忍び姿の
(じしんのだれであるかをみあらわしてののしられていることが)
自身のだれであるかを見現わしてののしられていることが
(くちおしくてならなかった。くるまのながえをすえるだいなどもあしはみなおられてしまって、)
口惜しくてならなかった。車の轅を据える台なども脚は皆折られてしまって、
(ほかのくるまのどうへさきをひきかけてようやくちゅうしんをたもたせてあるのであるから、)
ほかの車の胴へ先を引き掛けてようやく中心を保たせてあるのであるから、
(ていさいのわるさもはなはだしい。どうしてこんなところへでかけてきたのかと)
体裁の悪さもはなはだしい。どうしてこんな所へ出かけて来たのかと
(みやすどころはおもうのであるがいまさらしかたもないのである。けんぶつするのをやめて)
御息所は思うのであるが今さらしかたもないのである。見物するのをやめて
(かえろうとしたが、ほかのくるまをよけてでていくことはこんなんでできそうもない。)
帰ろうとしたが、他の車を避けて出て行くことは困難でできそうもない。
(そのうちに、 「みえてきた」)
そのうちに、 「見えて来た」
(というこえがした。ぎょうれつをいうのである。それをきくと、さすがにうらめしいひとの)
という声がした。行列をいうのである。それを聞くと、さすがに恨めしい人の
(すがたがまたれるというのもこいするひとのよわさではなかろうか。)
姿が待たれるというのも恋する人の弱さではなかろうか。
(げんじはみやすどころのきていることなどはすこしもきがつかないのであるから、)
源氏は御息所の来ていることなどは少しも気がつかないのであるから、
(ふりかえってみるはずもない。きのどくなみやすどころである。)
振り返ってみるはずもない。気の毒な御息所である。
(まえからひょうばんのあったとおりに、ふうりゅうをつくしたものみぐるまにたくさんのおんなの)
前から評判のあったとおりに、風流を尽くした物見車にたくさんの女の
(のりこんでいるなかには、そしらぬかおはつくりながらもげんじのこうきしんを)
乗り込んでいる中には、素知らぬ顔は作りながらも源氏の好奇心を
(ひくものもあった。ほほえみをみせていくあたりにはこいびとたちのくるまがあったことと)
惹くものもあった。微笑を見せて行くあたりには恋人たちの車があったことと
(おもわれる。さだいじんけのくるまはひとめでしれて、ここはげんじもきわめて)
思われる。左大臣家の車は一目で知れて、ここは源氏もきわめて
(まじめなかおをしてとおったのである。ぎょうれつのなかのげんじのじゅうしゃがこのいちだんのくるまには)
まじめな顔をして通ったのである。行列の中の源氏の従者がこの一団の車には
(けいいをひょうしてとおった。ぶじょくされていることをまたこれによっても)
敬意を表して通った。侮辱されていることをまたこれによっても
(みやすどころはいたましいほどかんじた。 )
御息所はいたましいほど感じた。
(かげをのみみたらしがわのつれなさにみのうきほどぞいとどしらるる )
影をのみみたらし川のつれなさに身のうきほどぞいとど知らるる
(こんなことをおもって、なみだのこぼれるのを、どうしゃするひとびとにみられることを)
こんなことを思って、涙のこぼれるのを、同車する人々に見られることを
(みやすどころははじながらも、またつねよりもいっそうきれいだったげんじの)
御息所は恥じながらも、また常よりもいっそうきれいだった源氏の
(ばじょうのすがたをみなかったならとおもわれるこころがあった。ぎょうれつにさんかしたひとびとはみな)
馬上の姿を見なかったならと思われる心があった。行列に参加した人々は皆
(ぶんそうおうにうつくしいよそおいでみをかざっているなかでもこうかんはこうかんらしいひかりをおっていると)
分相応に美しい装いで身を飾っている中でも高官は高官らしい光を負っていると
(みえたが、げんじにくらべるとだれもみばえがなかったようである。)
見えたが、源氏に比べるとだれも見栄えがなかったようである。
(たいしょうのりんじのずいしんを、てんじょうにもつとめるこのえのじょうがするようなことは)
大将の臨時の随身を、殿上にも勤める近衛の尉がするようなことは
(れいのすくないことで、なにかのはれのぎょうこうなどばかりにゆるされることであったが、)
例の少ないことで、何かの晴れの行幸などばかりに許されることであったが、
(きょうはくろうどをかねたうこんえのじょうがげんじにしたがっていた。そのほかのずいしんも)
今日は蔵人を兼ねた右近衛の尉が源氏に従っていた。そのほかの随身も
(かおすがたともによいものばかりがえらばれてあって、げんじがよのなかで)
顔姿ともによい者ばかりが選ばれてあって、源氏が世の中で
(おもんぜられていることは、こんなときにもよくみえた。このひとには)
重んぜられていることは、こんな時にもよく見えた。この人には
(なびかぬくさきもないこのよであった。つぼしょうぞくといってあたまのかみのうえから)
なびかぬ草木もないこの世であった。壺装束といって頭の髪の上から
(うわぎをつけた、そうとうなみぶんのおんなたちやあまさんなども、ぐんしゅうのなかに)
上着をつけた、相当な身分の女たちや尼さんなども、群衆の中に
(たおれかかるようになってけんぶつしていた。へいぜいこんなばあいにあまなどをみると、)
倒れかかるようになって見物していた。平生こんな場合に尼などを見ると、
(よすてびとがどうしてあんなことをするかとみにくくおもわれるのであるが、)
世捨て人がどうしてあんなことをするかと醜く思われるのであるが、
(きょうだけはどうりである。ひかるげんじをみようとするのだからとどうじょうをひいた。)
今日だけは道理である。光源氏を見ようとするのだからと同情を引いた。
(きもののせなかをかみでふくらませた、いやしいおんなとか、ろうどうしゃかいきゅうのものまでもみな)
着物の背中を髪でふくらませた、卑しい女とか、労働者階級の者までも皆
(てをひたいにあててげんじをあおいでみて、じしんがわらえばどんなおかしいかおになるかも)
手を額に当てて源氏を仰いで見て、自身が笑えばどんなおかしい顔になるかも
(しらずによろこんでいた。またげんじのちゅういをひくはずもないちょっとしたちほうかんの)
知らずに喜んでいた。また源氏の注意を惹くはずもないちょっとした地方官の
(むすめなども、せいいっぱいによそおったくるまにのって、きどったふうで)
娘なども、せいいっぱいに装った車に乗って、気どったふうで
(けんぶつしているとか、こんないろいろなものでいちじょうのおおじはうずまっていた。)
見物しているとか、こんないろいろな物で一条の大路はうずまっていた。
(げんじのじょうじんであるひとたちは、こいびとのすばらしさをがんぜんにみて、いまさら)
源氏の情人である人たちは、恋人のすばらしさを眼前に見て、今さら
(じしんのかちにはんせいをしいられたきがした。だれもそうであった。)
自身の価値に反省をしいられた気がした。だれもそうであった。
(しきぶきょうのみやはさじきでけんぶつしておいでになった。まぶしいきがするほど)
式部卿の宮は桟敷で見物しておいでになった。まぶしい気がするほど
(きれいになっていくひとである。あのびにかみがこころをひかれそうなきがすると)
きれいになっていく人である。あの美に神が心を惹かれそうな気がすると
(みやはふあんをさえおかんじになった。みやのあさがおのひめぎみはよほどいぜんからきょうまでも)
宮は不安をさえお感じになった。宮の朝顔の姫君はよほど以前から今日までも
(わすれずにあいをもとめてくるげんじにはふつうのだんせいにみられないせいじつさが)
忘れずに愛を求めてくる源氏には普通の男性に見られない誠実さが
(あるのであるから、それほどのこころざしをもったひとはしょうしょうけってんがあっても)
あるのであるから、それほどの志を持った人は少々欠点があっても
(こういがもたれるのに、ましてこれほどのびぼうのぬしであったかとおもうと)
好意が持たれるのに、ましてこれほどの美貌の主であったかと思うと
(いっしゅのかんげきをおぼえた。けれどもそれはけっこんをしてもよい、)
一種の感激を覚えた。けれどもそれは結婚をしてもよい、
(あいにむくいようとまでするこころのうごきではなかった。)
愛に報いようとまでする心の動きではなかった。
(みやのわかいにょうぼうたちはききぐるしいまでにげんじをほめた。)
宮の若い女房たちは聞き苦しいまでに源氏をほめた。