紫式部 源氏物語 須磨 8 與謝野晶子訳

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(もうあさになるころげんじはにじょうのいんへかえった。げんじはとうぐうへもおいとまごいの)

もう朝になるころ源氏は二条の院へ帰った。源氏は東宮へもお暇乞いの

(ごあいさつをした。ちゅうぐうはおうみょうぶをごじしんのかわりにみやのおそばへつけて)

御挨拶をした。中宮は王命婦を御自身の代わりに宮のおそばへつけて

(おありになるので、そのへやのほうへてがみをもたせてやったのである。)

おありになるので、その部屋のほうへ手紙を持たせてやったのである。

(いよいよきょうきょうをたちます。もういちどうかがってみやにはいがんをえませぬことが、)

いよいよ今日京を立ちます。もう一度伺って宮に拝顔を得ませぬことが、

(なんのかなしみよりもおおきいかなしみにわたくしはおもわれます。なにごともきょうちゅうを)

何の悲しみよりも大きい悲しみに私は思われます。何事も胸中を

(ごすいさつくだすって、よろしきようにみやへもうしあげてください。 )

御推察くだすって、よろしきように宮へ申し上げてください。

(いつかまたはるのみやこのはなをみんときうしなえるやまがつにして )

いつかまた春の都の花を見ん時うしなへる山がつにして

(このてがみは、さくらのはなのだいぶぶんはちったえだへつけてあった。)

この手紙は、桜の花の大部分は散った枝へつけてあった。

(みょうぶはげんじのきょうのしゅったつをもうしあげて、このてがみをとうぐうにおめにかけると、)

命婦は源氏の今日の出立を申し上げて、この手紙を東宮にお目にかけると、

(ごようねんではあるがまじめになってよんでおいでになった。)

御幼年ではあるがまじめになって読んでおいでになった。

(「おへんじはどうかきましたらよろしゅうございましょう」)

「お返事はどう書きましたらよろしゅうございましょう」

(「しばらくあわないでもわたくしはくるしいのであるから、とおくへいってしまったら、)

「しばらく逢わないでも私は苦しいのであるから、遠くへ行ってしまったら、

(どんなにくるしくなるだろうとおもうとおかき」 とみやはおおせられる。)

どんなに苦しくなるだろうと思うとお書き」 と宮は仰せられる。

(なんというごようちさだろうとおもってみょうぶはいたましくみやをながめていた。)

なんという御幼稚さだろうと思って命婦はいたましく宮をながめていた。

(くるしいこいにむちゅうになっていたむかしのげんじ、そのあるひのばあい、あるよるのばあいを)

苦しい恋に夢中になっていた昔の源氏、そのある日の場合、ある夜の場合を

(みょうぶはおもいだして、そのれんあいがなかったならおふたりにあのながいくろうはさせないで)

命婦は思い出して、その恋愛がなかったならお二人にあの長い苦労はさせないで

(よかったのであろうとおもうと、じしんにせきにんがあるようにおもわれてくるしかった。)

よかったのであろうと思うと、自身に責任があるように思われて苦しかった。

(へんじは、なんとももうしようがございません。みやさまへはもうしあげました。)

返事は、何とも申しようがございません。宮様へは申し上げました。

(おこころぼそそうなごようすをはいけんいたしますとわたくしもひじょうにかなしゅうございます。)

お心細そうな御様子を拝見いたしますと私も非常に悲しゅうございます。

(とかいたあとは、かなしみにとりみだしてよくわからぬところがあった。 )

と書いたあとは、悲しみに取り乱してよくわからぬ所があった。

など

(さきてとくちるはうけれどゆくはるははなのみやこをたちかえりみよ )

咲きてとく散るは憂けれど行く春は花の都を立ちかへり見よ

(またごうんのひらけることがきっとございましょう。 ともかいてだしたが、)

また御運の開けることがきっとございましょう。 とも書いて出したが、

(そのあとでほかのにょうぼうたちといっしょにかなしいはなしをしつづけて、とうぐうのごてんは)

そのあとで他の女房たちといっしょに悲しい話をし続けて、東宮の御殿は

(しのびなきのこえにみちていた。いちにちでもげんじをみたものはみなふこうなたびにたつことを)

忍び泣きの声に満ちていた。一日でも源氏を見た者は皆不幸な旅に立つことを

(かなしんでおしまぬひともないのである。ましてつねにげんじのでいりしていたところでは、)

悲しんで惜しまぬ人もないのである。まして常に源氏の出入りしていた所では、

(げんじのほうへはしられていないおさめ、みかわやうどなどのかきゅうのにょうぼうまでも)

源氏のほうへは知られていない長女、御厠人などの下級の女房までも

(げんじのじあいをうけていて、たとえみじかいきかんであくむはおわるとしても、)

源氏の慈愛を受けていて、たとえ短い期間で悪夢は終わるとしても、

(そのあいだはげんじをみることのできないのをなげいていた。せけんもだれひとりこんどの)

その間は源氏を見ることのできないのを歎いていた。世間もだれ一人今度の

(とうきょくしゃのしょちをしとうとみとめるものはないのであった。ななさいからよるもひるもちちみかどの)

当局者の処置を至当と認める者はないのであった。七歳から夜も昼も父帝の

(おそばにいて、げんじのことばはことごとくとおり、げんじのすいせんは)

おそばにいて、源氏の言葉はことごとく通り、源氏の推薦は

(むだになることもなかった。かんりはだれもげんじのおんをこうむらないものは)

むだになることもなかった。官吏はだれも源氏の恩をこうむらないものは

(ないのである。げんじにたいしてかんしゃのねんのないものはないのである。)

ないのである。源氏に対して感謝の念のない者はないのである。

(たいかんのなかにもべんかんのなかにもそんなひとはおおかった。それいかはむすうである。)

大官の中にも弁官の中にもそんな人は多かった。それ以下は無数である。

(みながみなおんをわすれているのではないが、ほうふくにしゅだんをえらばないおそろしいせいふを)

皆が皆恩を忘れているのではないが、報復に手段を選ばない恐ろしい政府を

(はばかって、げんざいのげんじにこういをひょうじしにくるひとはないのである。)

はばかって、現在の源氏に好意を表示しに来る人はないのである。

(しゃかいぜんたいがげんじをおしみ、かげではせいふをそしるもの、うらむものはあっても、)

社会全体が源氏を惜しみ、陰では政府をそしる者、恨む者はあっても、

(じこをぎせいにしてまで、げんじにどうじょうしても、それがげんじのために)

自己を犠牲にしてまで、源氏に同情しても、それが源氏のために

(なにほどのことにもならぬとおもうのであろうが、うらんだりすることは)

何ほどのことにもならぬと思うのであろうが、恨んだりすることは

(しんしらしくないことであるとおもいながらも、げんじのこころには)

紳士らしくないことであると思いながらも、源氏の心には

(ついうらめしくなるひとたちもさすがにおおくて、)

つい恨めしくなる人たちもさすがに多くて、

(じんせいはいやなものであるとなににつけてもおもわれた。)

人生はいやなものであると何につけても思われた。

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