紫式部 源氏物語 明石 12 與謝野晶子訳
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問題文
(あかしではまたあきのうらかぜのはげしくふくきせつになって、げんじもしみじみ)
明石ではまた秋の浦風の烈しく吹く季節になって、源氏もしみじみ
(ひとりずみのさびしさをかんじるようであった。にゅうどうへむすめのことをおりおりいいだす)
独棲みの寂しさを感じるようであった。入道へ娘のことをおりおり言い出す
(げんじであった。 「めだたぬようにしてこちらのやしきへよこさせてはどうですか」)
源氏であった。 「目だたぬようにしてこちらの邸へよこさせてはどうですか」
(こんなふうにいっていて、じぶんからむすめのすまいへかよっていくことなどは)
こんなふうに言っていて、自分から娘の住居へ通って行くことなどは
(あるまじいことのようにおもっていた。おんなにはまたそうしたことのできない)
あるまじいことのように思っていた。女にはまたそうしたことのできない
(じそんしんがあった。いなかのなみなみのいえのむすめは、かりにきてすんでいるきょうのひとが)
自尊心があった。田舎の並み並みの家の娘は、仮に来て住んでいる京の人が
(ゆうわくすれば、そのままけいそつにじょうじんにもなってしまうのであるが、じしんのじんかくが)
誘惑すれば、そのまま軽率に情人にもなってしまうのであるが、自身の人格が
(そんちょうされてかかったことではないのであるから、そのあとでいっしょう)
尊重されてかかったことではないのであるから、そのあとで一生
(ものおもいをするおんなになるようなことはいやである。ふつりあいのけっこんを)
物思いをする女になるようなことはいやである。不つりあいの結婚を
(ありがたいことのようにおもって、なりたたせようとしんぱいしているおやたちも、)
ありがたいことのように思って、成り立たせようと心配している親たちも、
(じぶんがむすめでいるあいだはいろいろなくうそうもつくれていいわけなのであるが、)
自分が娘でいる間はいろいろな空想も作れていいわけなのであるが、
(そうなったときからおやたちはべつなつらいくるしみをするにちがいない。げんじがあかしに)
そうなった時から親たちは別なつらい苦しみをするに違いない。源氏が明石に
(たいりゅうしているあいだだけ、じぶんはてがみをかきかわすおんなとしてゆるされるということが)
滞留している間だけ、自分は手紙を書きかわす女として許されるということが
(ほんとうのこうふくである。ながいあいだうわさだけをきいていて、いつのひにそうしたかたを)
ほんとうの幸福である。長い間噂だけを聞いていて、いつの日にそうした方を
(すきみすることができるだろうと、はるかなことにおもっていたかたがおもいがけなく)
隙見することができるだろうと、はるかなことに思っていた方が思いがけなく
(このとちへおいでになって、すきみではあったがおかおをみることができたし、)
この土地へおいでになって、隙見ではあったがお顔を見ることができたし、
(ゆうめいなきんのねをきくこともかない、にちじょうのごようすもくわしくきくことが)
有名な琴の音を聞くこともかない、日常の御様子も詳しく聞くことが
(できている、そのうえじぶんへおこころをおかたりになるようなてがみもくる。)
できている、その上自分へお心をお語りになるような手紙も来る。
(もうこれいじょうをじぶんはのぞみたくない。こんないなかにうまれたむすめにこれだけの)
もうこれ以上を自分は望みたくない。こんな田舎に生まれた娘にこれだけの
(さいわいのあったのはたしかにかほうのあったじぶんとおもわなければならないと)
幸いのあったのは確かに果報のあった自分と思わなければならないと
(おもっているのであって、げんじのじょうじんになるゆめなどはみていないのである。)
思っているのであって、源氏の情人になる夢などは見ていないのである。
(おやたちはながいあいだいのったことのじじつになろうとするときになったことをしりながら、)
親たちは長い間祈ったことの事実になろうとする時になったことを知りながら、
(けっこんをさせてげんじのあいのえられなかったときはどうだろうと、ひさんなけっかも)
結婚をさせて源氏の愛の得られなかった時はどうだろうと、悲惨な結果も
(そうぞうされて、どんなりっぱなかたであっても、そのときはうらめしいことであろうし、)
想像されて、どんなりっぱな方であっても、その時は恨めしいことであろうし、
(かなしいことであろう、めにみることもないほとけとかかみとかいうものにばかり)
悲しいことであろう、目に見ることもない仏とか神とかいうものにばかり
(しんらいしていたが、それはげんじのこころもちもむすめのうんめいもかんがえにいれずに)
信頼していたが、それは源氏の心持ちも娘の運命も考えに入れずに
(していたことであったなどと、いまになってにのあしがふまれ、)
していたことであったなどと、今になって二の足が踏まれ、
(それについてするはんもんもはなはだしかった。げんじは、)
それについてする煩悶もはなはだしかった。源氏は、
(「このあきのきせつのうちにおじょうさんのおんがくをきかせてほしいものです。)
「この秋の季節のうちにお嬢さんの音楽を聞かせてほしいものです。
(まえからきたいしていたのですから」 などとよくにゅうどうにいっていた。)
前から期待していたのですから」 などとよく入道に言っていた。
(にゅうどうはそっとこんいんのきちじつをこよみでしらべさせて、まだこころのきまらないように)
入道はそっと婚姻の吉日を暦で調べさせて、まだ心の決まらないように
(いっているつまをむしして、でしにもいわずにじしんでいろいろとしたくをしていた。)
言っている妻を無視して、弟子にも言わずに自身でいろいろと仕度をしていた。
(そうしてむすめのいるいえのせつびをうつくしくととのえた。じゅうさんにちのつきがはなやかに)
そうして娘のいる家の設備を美しく整えた。十三日の月がはなやかに
(のぼったころに、ただ「あたらよの」(つきとはなとをおなじくばこころしられん)
上ったころに、ただ「あたら夜の」(月と花とを同じくば心知られん
(ひとにみせばや)とだけかいたむかえのてがみをはまのやかたのげんじのところへもたせてやった。)
人に見せばや)とだけ書いた迎えの手紙を浜の館の源氏の所へ持たせてやった。
(ふうりゅうがりなおとこであるとおもいながらげんじはのうしをきれいにきかえて、)
風流がりな男であると思いながら源氏は直衣をきれいに着かえて、
(よがふけてからでかけた。よいくるまもよういされてあったが、めだたせぬために)
夜がふけてから出かけた。よい車も用意されてあったが、目だたせぬために
(うまでいくのである。これみつなどばかりのひとりふたりのともをつれただけである。)
馬で行くのである。惟光などばかりの一人二人の供をつれただけである。
(やまてのいえはややとおくはなれていた。とちゅうのいりえのつきよのけしきがうつくしい。)
山手の家はやや遠く離れていた。途中の入り江の月夜の景色が美しい。
(むらさきのにょおうがげんじのこころにこいしかった。このうまにのったままで)
紫の女王が源氏の心に恋しかった。この馬に乗ったままで
(きょうへいってしまいたいきがした。 )
京へ行ってしまいたい気がした。
(あきのよのつきげのこまよわがこうるくもいにかけれときのまもみん )
秋の夜の月毛の駒よ我が恋ふる雲井に駈けれ時の間も見ん
(とひとりごとがでた。やまてのいえはりんせんのびがはまのやしきにまさっていた。)
と独言が出た。山手の家は林泉の美が浜の邸にまさっていた。
(はまのやかたははでにつくり、これはゆうすいであることをおもにしてあった。)
浜の館は派手に作り、これは幽邃であることを主にしてあった。
(おんなのいるところとしてはきわめてさびしい。こんなところにいてはじんせいのことがみな)
女のいる所としてはきわめて寂しい。こんな所にいては人生のことが皆
(みにしむことにおもえるであろうとげんじはこいびとにどうじょうした。さんまいどうがちかくて、)
身にしむことに思えるであろうと源氏は恋人に同情した。三昧堂が近くて、
(そこでならすかねのねがまつかぜにひびきあってかなしい。いわにはえたまつのかたちが)
そこで鳴らす鐘の音が松風に響き合って悲しい。岩にはえた松の形が
(みなよかった。うえこみのなかにはあらゆるあきのむしがあつまってないているのである。)
皆よかった。植え込みの中にはあらゆる秋の虫が集まって鳴いているのである。
(げんじはていないをしばらくあちらこちらとあるいてみた。むすめのすまいになっているたてものは)
源氏は邸内をしばらくあちらこちらと歩いてみた。娘の住居になっている建物は
(ことによくつくられてあった。つきのさしこんだつまどがすこしばかりひらかれてある。)
ことによく作られてあった。月のさし込んだ妻戸が少しばかり開かれてある。
(そこのえんへあがって、げんじはむすめへものをいいかけた。これほどにはせっきんして)
そこの縁へ上がって、源氏は娘へものを言いかけた。これほどには接近して
(あおうとはおもわなかったむすめであるから、よそよそしくしかこたえない。)
逢おうとは思わなかった娘であるから、よそよそしくしか答えない。
(きぞくらしくきどるおんなである。もっとすぐれたみぶんのおんなでもこんにちまでこのおんなに)
貴族らしく気どる女である。もっとすぐれた身分の女でも今日までこの女に
(いいおくってあるほどのねつじょうをみせれば、みなこういをひょうするものであると)
言い送ってあるほどの熱情を見せれば、皆好意を表するものであると
(かこのけいけんからおしえられている。このおんなはげんざいのじぶんをあなどって)
過去の経験から教えられている。この女は現在の自分を侮って
(みているのではないかなどと、しょうりょのなかには、こんなこともげんじはおもわれた。)
見ているのではないかなどと、焦慮の中には、こんなことも源氏は思われた。
(ちからでかつことははじめからのほんいでもない、おんなのこころをうごかすことができずに)
力で勝つことは初めからの本意でもない、女の心を動かすことができずに
(かえるのはみぐるしいともおもうげんじがおいおいにねっしてくることばなどは、)
帰るのは見苦しいとも思う源氏が追い追いに熱してくる言葉などは、
(あかしのうらでされることがすこしばしょちがいでもったいなくおもわれるものであった。)
明石の浦でされることが少し場所違いでもったいなく思われるものであった。
(きちょうのひもがうごいてふれたときに、じゅうさんげんのきんのおがなった。それによって)
几帳の紐が動いて触れた時に、十三絃の琴の緒が鳴った。それによって
(さっきまできんなどをひいていたわかいおんなのうつくしいしつないのせいかつぶりがそうぞうされて、)
さっきまで琴などを弾いていた若い女の美しい室内の生活ぶりが想像されて、
(げんじはますますねっしていく。 「いまおとがすこししたようですね。)
源氏はますます熱していく。 「今音が少ししたようですね。
(きんだけでもわたくしにきかせてくださいませんか」 ともげんじはいった。)
琴だけでも私に聞かせてくださいませんか」 とも源氏は言った。
(むつごとをかたりあわせんひともがなうきよのゆめもなかばさむやと)
むつ言を語りあはせん人もがなうき世の夢もなかば覚むやと
(あけぬよにやがてまどえるこころにはいずれをゆめとわきてかたらん)
明けぬ夜にやがてまどへる心には何れを夢と分きて語らん
(まえのはげんじのうたで、あとのはおんなのこたえたものである。ほのかにいうようすは)
前のは源氏の歌で、あとのは女の答えたものである。ほのかに言う様子は
(いせのみやすどころにそっくりにたひとであった。げんじがそこへはいってこようなどとは)
伊勢の御息所にそっくり似た人であった。源氏がそこへはいって来ようなどとは
(むすめのよきしなかったことであったから、それがとつぜんなことでもあって、)
娘の予期しなかったことであったから、それが突然なことでもあって、
(むすめはたってちかいひとつのへやへはいってしまった。そしてどうしたのか、)
娘は立って近い一つの部屋へはいってしまった。そしてどうしたのか、
(とはまたあけられないようにしてしまった。げんじはしいてはいろうとするきにも)
戸はまたあけられないようにしてしまった。源氏はしいてはいろうとする気にも
(なっていなかった。しかしげんじがちゅうちょしたのはほんのいっしゅんかんのことで、)
なっていなかった。しかし源氏が躊躇したのはほんの一瞬間のことで、
(けっきょくはいくところまでいってしまったわけである。おんなはややせがたかくて、)
結局は行く所まで行ってしまったわけである。女はやや背が高くて、
(けだかいようすのうけとれるひとであった。げんじじしんのうちにたいしたしょうどうも)
気高い様子の受け取れる人であった。源氏自身の内にたいした衝動も
(うけていないでこうなったことも、ぜんしょうのいんねんであろうとおもうと、)
受けていないでこうなったことも、前生の因縁であろうと思うと、
(そのことであいがわいてくるようにおもわれた。げんじからみてちかまさりのしたこいと)
そのことで愛が湧いてくるように思われた。源氏から見て近まさりのした恋と
(いってよいのである。へいぜいはくるしくばかりおもわれるあきのながよも)
言ってよいのである。平生は苦しくばかり思われる秋の長夜も
(すぐあけていくきがした。ひとにしらせたくないとおもうこころから、)
すぐ明けていく気がした。人に知らせたくないと思う心から、
(せいいのあるやくそくをしたげんじはあさにならぬうちにかえった。)
誠意のある約束をした源氏は朝にならぬうちに帰った。