山川方夫 箱の中のあなた2
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問題文
(「まだですか」と、おとこがいった。)
「まだですか」と、男がいった。
(「・・・・・・え。いま・・・・・・」と、かのじょはこたえた。)
「……え。いま……」と、彼女は答えた。
(そのとき、あるぜつぼうのようなけついが、すばやくかのじょのなかをはしった。)
そのとき、ある絶望のような決意が、すばやく彼女のなかを走った。
(かのじょは、じぶんが、もはやどうしても)
彼女は、自分が、もはやどうしても
(それをさけられなくなっているのをかくにんしたのだった。)
それを避けられなくなっているのを確認したのだった。
(しずかなふうけいのなかに、しゃったーが、とつぜん、)
しずかな風景のなかに、シャッターが、突然、
(しんだことりがみずにおちたようなおとをたてた。)
死んだ小鳥が水に落ちたような音を立てた。
(「ありがとう。そうだ、ひとつこんどはあなたをうつさせてください」)
「ありがとう。そうだ、ひとつ今度はあなたをうつさせて下さい」
(おとこは、きゅうにはしゃぐようなこえをだした。)
男は、急にはしゃぐような声をだした。
(「どうですか。ぜひ、このうつくしいけしきといっしょに」)
「どうですか。ぜひ、この美しい景色といっしょに」
(「あの、・・・・・・」せいいっぱいのどりょくでかのじょはいった。)
「あの、……」せいいっぱいの努力で彼女はいった。
(「あの、こんなところ、そんなにいいけしきではありませんわ」)
「あの、こんなところ、そんなにいい景色ではありませんわ」
(「ほう?」おとこは、ろこつにきょうみをしめすかおになった。)
「ほう?」男は、露骨に興味をしめす顔になった。
(「もっといいけしきがあるというんですか」)
「もっといい景色があるというんですか」
(「このさきにいくと、うみがみくだせるこうえんがあります。・・・・・・)
「この先に行くと、海が見下せる公園があります。……
(あの、もうまちはずれなんですけど、そこのほうが」)
あの、もう町はずれなんですけど、そこのほうが」
(「へえ、そいつはしらなかった。そうですか。)
「へえ、そいつは知らなかった。そうですか。
(じゃ、つれていってください」)
じゃ、つれて行って下さい」
(こうえんといっても、はるになるとさくらやうめが)
公園といっても、春になると桜や梅が
(いっせいにはなをひらくというだけの、)
いっせいに花をひらくというだけの、
(そのほかにはなにもないこうちだった。ただ、)
その他にはなにもない高地だった。ただ、
(ゆうぐれのあわいぎんかいしょくのもやもやのなかにしずんでいくまちとうみが、)
夕暮れの淡い銀灰色の靄もやのなかに沈んで行く町と海が、
(よりひろくみわたせるだけのことで。)
より広く見渡せるだけのことで。
(だが、そこにはいつもひとかげがなかった。)
だが、そこにはいつも人かげがなかった。
(かのじょは、せをかたくしてさきにたった。)
彼女は、背を硬くして先に立った。
(ふるいじんじゃのうらをまわり、ちかみちはきゅうなけいしゃだった。)
古い神社の裏をまわり、近道は急な傾斜だった。
(おおきなじゃりがくつのうらですべって、)
大きな砂利が靴の裏ですべって、
(やっとりょうがわのくさむらがつきかけるあたりまできたとき、)
やっと両側の叢が尽きかけるあたりまできたとき、
(なれないおとこは、やはりすこしあえぎはじめていた。)
慣れない男は、やはり少し喘ぎはじめていた。
(「ああ、はやいなあなた、ちょっとまってくださいよ」)
「ああ、早いなあなた、ちょっと待って下さいよ」
(そのこえをきき、かのじょがたちどまったちょくごだった。)
その声をきき、彼女が立ち止った直後だった。
(おとこのてがかのじょのかたをつかみ、あおむけにかのじょをくさむらのなかにおしたおした。)
男の手が彼女の肩をつかみ、仰向けに彼女を叢のなかに押し倒した。
(「いや!わたし、そういうこときらいなんです!いやなんです!」)
「いや!私、そういうこときらいなんです!いやなんです!」
(しぼりだすようなさけびごえとともに、かのじょはおとこをつきとばした。)
絞りだすような叫び声とともに、彼女は男をつきとばした。
(だが、おとこはひるみをみせなかった。)
だが、男はひるみをみせなかった。
(おとこのかおがしやいっぱいにせまって、)
男の顔が視野いっぱいに迫って、
(かのじょはきちがいのようにそのかおにむけてていこうした。)
彼女はきちがいのようにその顔に向けて抵抗した。
(かのじょにあったものは、ただひっしな、もうれつな、ひとつのけんおだった。)
彼女にあったものは、ただ必死な、猛烈な、一つの嫌悪だった。
(きづいたとき、かのじょはみぎてにしっかりとおおきないしをにぎりしめて、)
気づいたとき、彼女は右手にしっかりと大きな石を握りしめて、
(ぜいぜいとこきゅうをきらしていた。)
ぜいぜいと呼吸をきらしていた。
(おとこはあしもとにたおれていた。)
男は足もとに倒れていた。
(こめかみからちのすじをしたたらせて、おとこのめはぽかんとくうをみていた。)
こめかみから血の筋を滴らせて、男の目はぽかんと空を見ていた。
(おとこはうごかなかった。)
男は動かなかった。
(まだむねがはずんでいた。でも、もうきょうふかんはなかった。)
まだ胸がはずんでいた。でも、もう恐怖感はなかった。
(かのじょは、やっぱり、わたしはいざとなるとりせいてきなおんななのだ、)
彼女は、やっぱり、私はいざとなると理性的な女なのだ、
(りせいてきでしかないのだ、とおもった。これはしようがないのだ。)
理性的でしかないのだ、と思った。これはしようがないのだ。
(かのじょは、おとこのぽけっとからおちたたばこのはこをもどし、)
彼女は、男のポケットから落ちたタバコの箱を戻し、
(ぬげたくつをはかせ、ずるずるとひきずってがけのせんたんにおくと、)
脱げた靴をはかせ、ずるずると引きずって崖の尖端に置くと、
(そこまでのきせきやふたりのあらそいのあとをちゅういぶかくけした。)
そこまでの軌跡や二人の争いの跡を注意ぶかく消した。
(それから、かめらをそっとじぶんのはんどばっぐにしまって)
それから、カメラをそっと自分のハンドバッグにしまって
(みづくろいをなおした。)
身づくろいを直した。
(そして、そっとよこたわったおとこのせなかをおしてやった。)
そして、そっと横たわった男の背中を押してやった。
(おとこはつきでたいわかどにぶつかりながらおちていって、やがて、)
男は突き出た岩角にぶつかりながら落ちて行って、やがて、
(かすかににぶいみずのおとがひびいた。)
かすかに鈍い水の音がひびいた。