卍 3

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谷崎潤一郎 「卍」

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問題文

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(「ああ、かおのことですか、かおはわたし、じぶんのりそうにかなうように)

「ああ、顔のことですか、顔はわたし、自分の理想にかなうように

(かいてみたのんです」いいますと、「ではあんたのりそういうのは)

画いてみたのんです」いいますと、「ではあんたの理想いうのは

(だれのことですか」と、えらいひつこいですねん。そいからわたし、「これは)

誰のことですか」と、えらいひつこいですねん。そいからわたし、「これは

(りそうやのんですから、べつにだれちゅうじつざいのにんげんえがいたわけではあれしません。)

理想やのんですから、別に誰ちゅう実在の人間描いた訳ではあれしません。

(かんのんさんのかおにふさわしいようになるだけきよらかなかんじもたしたのんですが、)

観音さんの顔にふさわしいようになるだけ清らかな感じ持たしたのんですが、

(そいではいきませんですやろか。かおまでもでるににささんと)

そいではいきませんですやろか。顔までモデルに似ささんと

(わるいのんですやろか」いいましてん。すると、「あんたはたいそう)

悪いのんですやろか」いいましてん。すると、「あんたはたいそう

(むずかしいりくついいなさる。しかしりそうどおりのもんがおもいのままに)

むずかしい理窟いいなさる。しかし理想通りのもんが思いのままに

(かけるようやったら、このがっこいええならいにくるにはおよばん。りそうどおりに)

画けるようやったら、此の学校い絵エ習いに来るには及ばん。理想通りに

(かかれないからこそもでるについてしゃせいするのんではありませんか。じぶんかっての)

画かれないからこそモデルについて写生するのんではありませんか。自分勝手の

(ええかくくらいならもでるつこうひつようあれしません。ましてこのかんのんさんが)

絵エ画くくらいならモデル使う必要あれしません。ましてこの観音さんが

(もでるいがいのあるじつざいのにんげんににてるとしたら、あんたのりそういうもんも)

モデル以外の或る実在の人間に似てるとしたら、あんたの理想いうもんも

(はなはだふまじめにおもえますね」いわれるのんで、「わたしちょっともふまじめと)

甚だ不真面目に思えますね」いわれるのんで、「わたしちょっとも不真面目と

(ちがいます。かりにこのかおだれぞににてても、そのひとのかおかんのんさんのかんじだすのに)

ちがいます。仮にこの顔誰ぞに似てても、その人の顔観音さんの感じ出すのに

(てきしてましたら、それうつしてもげいじゅつてきにやましいことないおもいます」いいますと、)

適してましたら、それ写しても芸術的に疚しいことない思います」いいますと、

(「いや、それがいかんのんです。まだあんたはいちにんまえのげいじゅつかではありません。)

「いや、それがいかんのんです。まだあんたは一人前の芸術家ではありません。

(あんたがそのひとのかおきよらかであるとかんじられても、ばんにんがそうかんじるかどうか、)

あんたがその人の顔清らかであると感じられても、万人がそう感じるかどうか、

(それがもんだいです。そういうことからとかくごかいがおこるのんです」いう)

それが問題です。そういうことからとかく誤解が起るのんです」いう

(わけですねん。「へえごかいて、どんなごかいおこりますかしらん?ぜんたい)

訳ですねん。「へえ誤解て、どんな誤解起りますかしらん? ぜんたい

(にてるにてるいうて、だれににてるのんですか、どうぞいうてください」いうて)

似てる似てるいうて、誰に似てるのんですか、どうぞいうて下さい」いうて

など

(やりましたら、ちょっとどぎまぎして、「あんたはごうじょうなひとですねえ」)

やりましたら、ちょっとどぎまぎして、「あんたは強情な人ですねえ」

(いわれて、そんなりこうちょうせんせいはだまってしまいはりました。わたしそのときは)

いわれて、そんなり校長先生は黙ってしまいはりました。わたしその時は

(こうちょうさんやりこめてやったのんで、けんかにかったようなきいして、えらい)

校長さんやり込めてやったのんで、喧嘩に勝ったような気イして、えらい

(つうかいでしてんわ。けどおおぜいのせいとたちのまえでぎろんしたもんですよって、)

痛快でしてんわ。けど大勢の生徒たちの前で議論したもんですよって、

(えらいひょうばんになってしもて、まものうけったいなうわさひろまるように)

えらい評判になってしもて、間ものうけったいな噂ひろまるように

(なりましてん。つまりわたしがみつこさんにたいしてどうせいあいささげてる、)

なりましてん。つまりわたしが光子さんに対して同性愛捧げてる、

(みつこさんとわたしとがあやしいいいますねん。ーーそれがまえにもいいましたように、)

光子さんと私とが怪しいいいますねん。ーーそれが前にもいいましたように、

(まだそのじぶんはみつこさんとものいうたこともなかったほどでしたさかい、)

まだその時分は光子さんと物いうたこともなかったほどでしたさかい、

(でたらめもでたらめ、ひどいうそやのんです。もっともわたしは、うすうすみんなが)

出鱈目も出鱈目、ひどいうそやのんです。尤もわたしは、うすうすみんなが

(かげぐちいうていることぐらいかんづいてましたもんの、それがそないに)

蔭口いうていることぐらい感づいてましたもんの、それがそないに

(さわがれてようとはゆめにもしりませなんだ。なんせみいにおぼえないことや)

騒がれてようとは夢にも知りませなんだ。何せ身イに覚えないことや

(のんですから、なにいわれてもへいきなもんで、まあ、せけんのひというたらたいがい)

のんですから、何いわれても平気なもんで、まあ、世間の人いうたらたいがい

(ええかげんなことをいいさわらすもんや。つきおうてもいえへんひとどうしあやしいや)

ええ加減なことをいい触らすもんや。附き合うてもいえへん人同士怪しいや

(なんて、なんぼつくりごとにしたかてようまあそんなうそばっかりいえたもんや)

なんて、なんぼ作りごとにしたかてようまあそんなうそばっかりいえたもんや

(おもて、あんまりばかばかしいてはらもたてしませなんだ。ただしんぱいに)

思て、あんまり馬鹿々々しいて腹も立てしませなんだ。ただ心配に

(なりましたのんは、わたしはそいでかめしませんけど、みつこさんのほうは)

なりましたのんは、わたしはそいでかめしませんけど、光子さんの方は

(どうおもてなさるやら、さぞかしえらいかかりあいになってめいわくしてはるに)

どう思てなさるやら、さぞかしえらい係り合いになって迷惑してはるに

(ちがいないおもいましたら、そいからはこう、がっこのいきかえりなぞにであうこと)

違いない思いましたら、そいからはこう、学校の往き復りなぞに出遭うこと

(ありましても、なんやきいさして、まえみたいにかおしげしげとみまもること)

ありましても、何や気イさして、前みたいに顔しげしげと見守ること

(できしませなんだ。そうかいうて、おもいきりようこっちからはなしかけて、)

出来しませなんだ。そうかいうて、思い切りようこっちから話しかけて、

(あやまるいうようなことも、ーーそれがかいってけったいなことに)

あやまるいうようなことも、ーーそれがかいってけったいなことに

(なりますし、なおさらめいわくしなさるかもわかれしませんのんで、そないするわけにも)

なりますし、なおさら迷惑しなさるかも分れしませんのんで、そないする訳にも

(いけしません。そんでわたしみつこさんにであいますと、できるだけあやまる)

いけしません。そんでわたし光子さんに出遇いますと、出来るだけあやまる

(こころもちそとにあらわすようにして、ちいそうになって、したむいて、こそこそ)

心持外に現わすようにして、小そうになって、下向いて、こそこそ

(にげるようにそばとおりぬけましたが、そないしながらも、さきさまおこってはれへん)

逃げるように傍通り抜けましたが、そないしながらも、先様怒ってはれへん

(やろか、どんなめつきしてはるか、やっぱりきがかりやもんですから、)

やろか、どんな眼つきしてはるか、やっぱり気がかりやもんですから、

(すれちがうひょうしにそうっとかおいろうかごうたりしました。ところがみつこさんの)

擦れちがう拍子にそうッと顔色うかごうたりしました。ところが光子さんの

(ようすまえとちょっともかわったようなとこのうて、べつにこっちをふゆかいに)

様子前とちょっとも変ったようなとこのうて、別にこっちを不愉快に

(おもてなさるふうにもみえしません。)

思てなさる風にも見えしません。

(あ、そうそう、ここにしゃしんもってきましたよって、これみてくださいませ。)

あ、そうそう、此処に写真持って来ましたよって、これ見て下さいませ。

(これはそろいのきものできましたときふたりできねんにとりましたのんで、しんぶんにも)

これは揃いの着物出来ましたとき二人で記念に撮りましたのんで、新聞にも

(でたことあるもんだいのしゃしんやのんです。これでもおわかりになるように、こうして)

出たことある問題の写真やのんです。これでもお分りになるように、こうして

(ならんでましたら、わたしがひきたてやくつとめてるかたちで、みつこさんはせんばあたりの)

並んでましたら、わたしが引き立て役勤めてる形で、光子さんは船場あたりの

(むすめさんのなかでもちょっととびきりのきりょうやのんです。)

娘さんの中でもちょっと飛びきりの器量やのんです。

((さくしゃちゅう、しゃしんをみると、おそろいのきものというのはいかにもかみがたごのみの)

(作者註、写真を見ると、お揃いの着物というのは如何にも上方好みの

(けばけばしいしきさいのものらしい。かきうちみぼうじんはそくはつ、みつこはしまだに)

ケバケバしい色彩のものらしい。柿内未亡人は束髪、光子は島田に

(ゆっているが、おおさかふうのまちむすめのすがたのうちにも、そのめがひじょうにじょうねつてきで、)

結っているが、大阪風の町娘の姿のうちにも、その眼が非常に情熱的で、

(うるおいにとんでいる。ひととくちにいえば、れんあいのてんさいかといったようなきはくに)

潤おいに富んでいる。一と口にいえば、恋愛の天才家といったような気魄に

(みちた、みりょくのあるめつきである。たしかにびぼうのもちぬしにはちがいなく、じぶんは)

充ちた、魅力のある眼つきである。たしかに美貌の持主には違いなく、自分は

(ひきたてやくだというみぼうじんのげんはかならずしもけんそんではないが、このてんがはたして)

引き立て役だという未亡人の言は必ずしも謙遜ではないが、この点が果して

(ようりゅうかんのんのそんようにてきするかどうかはぎもんである。))

楊柳観音の尊容に適するかどうかは疑問である。)

(せんせいはこんなかおだちどないおかんがえになりますか?にほんがみようにおうて)

先生はこんな顔だちどないお考えになりますか? 日本髪よう似合うて

(ますやろ?ーーはあ、おかあさんにほんがみずきやとかいうことで、ときどき)

ますやろ?ーーはあ、お母様日本髪好きやとかいうことで、ときどき

(いやはりまして、がっこいもそのあたまできやはりましてん。ーーなんせそんな)

結やはりまして、学校いもその頭で来やはりましてん。ーー何せそんな

(がっこですから、せいふくなんぞあれしませんし、にほんがみのきながしでもなんでも)

学校ですから、制服なんぞあれしませんし、日本髪の着流しでも何でも

(かめしませんのんですから、わたしなんかはかまはいていたことあれしませなんだ。)

かめしませんのんですから、わたしなんか袴穿いて行たことあれしませなんだ。

(みつこさんも、たまにようふくきなさることありましてんけど、わふくのときはいつでも)

光子さんも、たまに洋服着なさることありましてんけど、和服の時はいつでも

(きながしでしてん。このしゃしんではかみのせえでわたしよりみっつぐらいわこうにみえて)

着流しでしてん。この写真では髪のせえで私より三つぐらい若うに見えて

(ますけど、ほんまはひとつとししたのにじゅうさん、ーーいきておられたらことし)

ますけど、ほんまは一つ歳下の二十三、ーー生きておられたら今年

(にじゅうよんですねん。しかしみつこさんのほうがいち、にすんせえたかいでしたし、それに)

二十四ですねん。しかし光子さんの方が一、二寸せえ高いでしたし、それに

(きれいなひというもんは、じぶんではきりょうはなにかけへんつもりでも、やっぱり)

綺麗な人いうもんは、自分では器量鼻にかけへんつもりでも、やっぱり

(なんとのうじしんのあるようすたいどにあらわれるもんですやろか、それともこっちに)

何とのう自信のある様子態度に現われるもんですやろか、それともこっちに

(ひけめありますとそないみえますのんですやろか、そののちしたしいに)

引け目ありますとそない見えますのんですやろか、その後親しいに

(なりましてからでも、としからいうとわたしのほうがねえさんでありながら、)

なりましてからでも、歳からいうとわたしの方が姉さんでありながら、

(いつでもいもうとみたいなきいしてましてん。)

いつでも妹みたいな気イしてましてん。

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