夢野久作 押絵の奇蹟⑮/⑲

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問題文

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(そのあくるあさになりますと、わたしはねつがでましたようで、ときどきくらくらと)

そのあくる朝になりますと、私は熱が出ましたようで、時々クラクラと

(たおれそうになりましたが、いっしょうけんめいにがまんをしまして、おもいきりしろく)

倒れそうになりましたが、一生けんめいに我慢をしまして、思いきり白く

(おけしょうをしてかおいろのわるいのをかくしてしまいました。それをおくさまがごらんになって、)

お化粧をして顔色の悪いのを隠してしまいました。それを奥様が御覧になって、

(「まあ。としこさんたら。なんてあわてかたでしょう」とおわらいになりながら)

「マア。トシ子さんたら。なんて慌て方でしょう」とお笑いになりながら

(かみゆいさんをよんできてくだすったのですが、そのときにわたしは「うまれてはじめてたにんに)

髪結いさんを呼んで来て下すったのですが、その時に私は「生れて初めて他人に

(かみをゆってもらうのだ」とおもいおもいかがみとむかいあってはおりましたが、こころのなかは)

髪を結ってもらうのだ」と思い思い鏡と向い合ってはおりましたが、心の中は

(ねむってばかりおりましたようで、きがついたときにはもうすっかりたかしまだに)

睡ってばかりおりましたようで、気が付いた時にはもうスッカリ高島田に

(ゆいあげてありましたのをみておもわず「あらっ」といってかみゆいさんにわらわれ)

結い上げてありましたのを見て思わず「アラッ」と云って髪結いさんに笑われ

(ました。それからこきょうをでますときにしばちゅうさんのおじょうさまからいただいたいっちょうらのきものと)

ました。それから故郷を出ます時に柴忠さんのお嬢様から頂いた一張羅の着物と

(きかえまして、せんせいふうふのおともをしてうえのからてつどうばしゃにのりましたが、)

着かえまして、先生夫婦のお伴をして上野から鉄道馬車に乗りましたが、

(ひさしぶりにあつぼったいおびをしっかりとしめましたのできがしゃんとしました)

久し振りに厚ぼったい帯をシッカリと締めましたので気がシャンとしました

(ためか、それともまだそとはつめたいかぜがふいておりましたせいか、ばしゃにのって)

ためか、それともまだ外はつめたい風が吹いておりましたせいか、馬車に乗って

(おりますあいだはいねむりをしなかったようでございます。けれどもかぶきざへ)

おります間は居眠りをしなかったようで御座います。けれども歌舞伎座へ

(はいってひらどまにすわりますとまもなく、ひといきれであたたかくなりました)

這入って平土間に坐りますと間もなく、人イキレであたたかくなりました

(せいか、またもうっとりとなりまして、おしばいつうのせんせいやおくさまがいろいろとせつめいして)

せいか、又もウットリとなりまして、お芝居通の先生や奥様が色々と説明して

(くださるのを、ゆめうつつにきいているばかりでございました。)

下さるのを、夢うつつに聞いているばかりで御座いました。

(おにいさまがあこやにふんしてでておいでになりましても、おなじようにねむくてねむくて)

お兄様が阿古屋に扮して出てお出でになりましても、同じ様に睡くて睡くて

(ぼんやりしておりましたようで、それをがまんしいしいめをみはっておりました)

ボンヤリしておりましたようで、それを我慢しいしい眼を瞠っておりました

(くるしさを、いまだにしみじみとおぼえております。あとでのおはなしによりますと、)

苦しさを、今だにシミジミとおぼえております。あとでのお話によりますと、

(おにいさまもそのひはおかげんがわるかったのを、むりにおつとめになりましたのだ)

お兄様もその日はお加減がわるかったのを、無理におつとめになりましたのだ

など

(そうで、そのなやましいおすがたが、ことぜめのときにたいそうよくうつったとのこと)

そうで、その悩ましいお姿が、琴責めの時にたいそうよくうつったとの事

(でしたが、わたしはただ、そのしろいおしたぎのえりにさしてありましたぎんしのなみがたの)

でしたが、私はただ、その白いお下着の襟に刺してありました銀糸の波形の

(ひかりをふしぎなくらいはっきりとおぼえておりますだけで、そのほかはしろい)

光りを不思議なくらいハッキリとおぼえておりますだけで、そのほかは白い

(おかおと、あかいおめしものとが、ぼーっとしたすいさいがのようにめにのこっております)

お顔と、赤いお召物とが、ボーッとした水彩画のように眼に残っております

(ばかり・・・すじなぞはひとつもわからないままでございました。そうして、うちに)

ばかり・・・筋なぞは一つもわからないままで御座いました。そうして、家に

(かえりましてから、「おもしろかったか」とせんせいにきかれましても、なにひとつおこたえが)

帰りましてから、「面白かったか」と先生に聞かれましても、何一つお答えが

(できなかったときのはずかしうございましたこと・・・。それでもわたしは、とうとう)

出来なかった時の恥かしう御座いました事・・・。それでも私は、とうとう

(じぶんのびょうきをかくしおおせました。このむねのきずを、おいしゃさまにみられるくらいなら)

自分の病気を隠しおおせました。この胸の疵を、お医者様に見られる位なら

(しんだほうがいい。・・・いいえ。わたしはこのびょうきがだんだんひどくなってしぬときが)

死んだ方がいい。・・・イイエ。私はこの病気がだんだん非道くなって死ぬ時が

(ちかづいてくるのをまちましょう。そうしてあのよでまっておいでになるおかあさまの)

近づいて来るのを待ちましょう。そうしてあの世で待っておいでになるお母様の

(ところへいって、おもいきりだきついてなきましょう。ほかのことはみんなちがっていても)

処へ行って、思い切り抱きついて泣きましょう。ほかの事はみんな違っていても

(わたしのおかあさまだけはわたしのほんとうのおかあさまにちがいないのだから・・・と、そんなふうに)

私のお母様だけは私の本当のお母様に違いないのだから・・・と、そんな風に

(おもいこみまして、ともすればねつのためにゆめのようなここちになりかけますのを、)

思い込みまして、ともすれば熱のために夢のような心地になりかけますのを、

(くちびるがいたくなるほどかみしめてがまんしいしいそのあくるひも、そのまたあくるひも)

唇が痛くなるほど噛みしめて我慢しいしいそのあくる日も、その又あくる日も

(むりやりにがっこうへいったのでございましたが、そのうちにいつからともなく)

無理やりに学校へ行ったので御座いましたが、そのうちにいつからともなく

(ふしぎとびょうきがなおってしまったのでございます。これはおおかたおにいさまに)

不思議と病気が癒ってしまったので御座います。これはおおかたお兄様に

(ぜひともいちどおめにかからなければなりませぬうんめいを、わたしがもっておりました)

是非とも一度お目にかからなければなりませぬ運命を、私が持っておりました

(せいでしょうとおもいますけれども・・・。けれども、そのときのわたしはなぜこの)

せいでしょうと思いますけれども・・・。けれども、その時の私は何故この

(びょうきもなおったのだろうと、つくづくてんとうさまをうらんだことでございました。)

病気も癒ったのだろうと、つくづく天道様を怨んだことで御座いました。

(それからのちのわたしは「ふぎしゃのこ」というおおきなふだをほんとにまちがいなく)

それから後の私は「不義者の子」という大きな札をホントに間違いなく

(ぴったりとはりつけられたようにおもってしまったのでございます。「ああ)

ピッタリと貼り付けられたように思って仕舞ったので御座います。「ああ

(おかあさま。あなたはわたしをたすけたいばっかりに、あんなうそをおっしゃった」とそうおもい)

お母様。あなたは私を助けたいばっかりに、あんな嘘を仰有った」とそう思い

(ながらなみだにくれたことがいくどありましたでしょう。なかむらとか、ひしだとかいうもじを)

ながら涙にくれた事が幾度ありましたでしょう。中村とか、菱田とかいう文字を

(みかけますたんびに、わたしのよわいこころはどんなにかはらはらとなみうちましたことで)

見かけますたんびに、私の弱い心はどんなにかハラハラと波打ちました事で

(しょう。ほんとにしつれいこのうえもないことですけど、そのようなもじがめにはいり)

しょう。ほんとに失礼この上もない事ですけど、そのような文字が眼に這入り

(ますたんびにわたしはすぐに「ふぎ」というもじをおもいだすのでございました。)

ますたんびに私はすぐに「不義」という文字を思い出すので御座いました。

(ときおりは、いつかしらずかぶきざのほうをむいてあるいておりますのにこころづき)

時折りは、いつかしらず歌舞伎座の方を向いて歩いておりますのに心付き

(まして、なんとなくきがとがめますままにふいとほかのまちすじへそれていきました。)

まして、何となく気が咎めますままにフイとほかの町すじへそれて行きました。

(そのきはずかしうございましたこと・・・。けれども、そのうちにしょちゅうきゅうかがまいり)

その気恥かしう御座いました事・・・。けれども、そのうちに暑中休暇が参り

(ますとわたしはまた、おもいもよりませぬことで、このようなかなしい、あさましいなやみから)

ますと私は又、思いも寄りませぬ事で、このような悲しい、浅ましい悩みから

(すくわれるようになりました。それはずっとまえからおかざわせんせいのごしょさいにおいて)

救われるようになりました。それはずっと前から岡沢先生の御書斎に置いて

(ありましたむかしのはっけんでんのごほんを、なにげなくひきだしてひらいてみてからのことで)

ありました昔の八犬伝の御本を、何気なく引き出して開いて見てからの事で

(ございます。わたしはそれこそほんとになんのきなしでございました。ただ、ながいひの)

御座います。私はそれこそホントに何の気なしで御座いました。ただ、永い日の

(つれづれににかいのまどからおとなりのやねをみておりますうちにふと、ほうりゅうかくのおしえを)

つれづれに二階の窓からお隣の屋根を見ておりますうちにフト、芳流閣の押絵を

(おもいだしまして、しのとげんぱちはなぜあのたかいやねのうえでたたかわなければならぬので)

思い出しまして、信乃と現八は何故あの高い屋根の上で闘わなければならぬので

(しょうとちょっとふしぎにおもいましたので、そのえのかいてあるところをさがしだして)

しょうとチョット不思議に思いましたので、その絵の描いてある処を探し出して

(まえへまえへとよみかえしていきますうちに、いつのまにか、そのはなしのおもしろさに)

前へ前へと読み返して行きますうちに、いつの間にか、その話のおもしろさに

(つりこまれてしまいました。そうして、しらずしらずのうちにいちばんはじめにたち)

釣り込まれてしまいました。そうして、しらずしらずのうちに一番初めに立ち

(かえりまして、はっけんでんのぜんたいのおんなしゅじんこうになっておられるふせひめさまが)

帰りまして、八犬伝の全体の女主人公になっておられる伏姫(ふせひめ)様が

(おっととたてておられるやつふさといういぬにみをふれずにみごもられた・・・という)

夫と立てておられる八つ房という犬に身を触れずに身籠られた・・・という

(おはなしのところまでよんでしまいました。そのおはなしにつきましてはさくしゃのきょくていばきんと)

お話の処まで読んでしまいました。そのお話につきましては作者の曲亭馬琴と

(いうかたがむかしからのいろいろなれいをひいて、さもさもほんとうらしくかいておられる)

いう方が昔からのいろいろな例を引いて、さもさも本当らしく書いておられる

(のでしたが、それをよみましたときのわたしのおどろきは、まあどんなでございました)

のでしたが、それを読みました時の私の驚きは、まあどんなで御座いました

(でしょう。もうすまでもなくそのときまでわたしじしんには、そのようなことについてなんの)

でしょう。申すまでもなくその時まで私自身には、そのような事について何の

(ちしきももたなかったのでございましたが、それでもこのよにはきっとそんなことが)

知識も持たなかったので御座いましたが、それでもこの世にはキットそんな事が

(ありうるにちがいないということをそのときにどんなにかかたくしんじましたことでしょう。)

あり得るに違いないという事をその時にどんなにか固く信じました事でしょう。

(おかあさまのおことばのひみつをとくかぎは、このおはなしのほかにないとおもいまして、)

お母様のお言葉の秘密を解く鍵は、このお話のほかにないと思いまして、

(どんなにかむちゅうになってよろこびましたことでしょう。そうして、なおもさきのほうを)

どんなにか夢中になって喜びました事でしょう。そうして、なおも先の方を

(よんでまいりますと、そのやつふさといういぬのおもいごとなってうまれたはっけんしの)

読んで参りますと、その八つ房という犬の思い子となって生れた八犬士の

(からだには、そのちちのいぬのからだについていたやっつのはんもんがひとつずつおおきなほくろと)

身体には、その父の犬の身体についていた八ツの斑紋が一ツずつ大きなほくろと

(なってあらわれて、おやこのしるしとなっていたということまでくわしくかいてある)

なってあらわれて、親子のしるしとなっていたという事まで詳しく書いてある

(ではございませんか。それはわたしにとりまして、それこそめもくらむほどのきせきてきな)

では御座いませんか。それは私にとりまして、それこそ眼も眩むほどの奇蹟的な

(よろこびでございました。われとむねをしっかりとだきしめて、ときどきはなみだをながしてまで)

喜びで御座いました。われと胸をシッカリと抱きしめて、時々は涙を流してまで

(ためいきをしいしいよみつづけたことでした。)

溜め息をしいしい読み続けた事でした。

(ーーおとことおんなとが、おたがいにおもいあっただけで、そのあいてによくにたこどもを)

ーー男と女とが、お互いに思い合っただけで、その相手によく似た子供を

(うんだりうませたりすることができるーー)

生んだり生ませたりすることが出来るーー

(・・・まあ、なんというすてきなこどもらしいくうそうでございましょう。けれども)

・・・まあ、何というステキな子供らしい空想で御座いましょう。けれども

(そのときのわたしには、そのようなことがほんとうにありえなければならぬとしかおもえない)

その時の私には、そのような事が本当にあり得なければならぬとしか思えない

(のでございました。そうして、それからのちのわたしは、そんなじじつがほんとうにあることか)

ので御座いました。そうして、それから後の私は、そんな事実が本当にある事か

(どうかを、たしかめようとおもいまして、まいにちのようにうえののとしょかんにいき)

どうかを、たしかめようと思いまして、毎日のように上野の図書館に行き

(ました。むずかしいさんかのしょもつやしんりがくのしょもつをなんじゅっさつほどめくらさぐりに)

ました。むずかしい産科の書物や心理学の書物を何十冊ほどめくら探りに

(よみましたことでしょう。としょかんのひとはおおかたわたしがさんばのしけんをうけていると)

読みました事でしょう。図書館の人はおおかた私が産婆の試験を受けていると

(でもおもわれたのでしょう。そんなしょもつのなまえをいろいろおしえてくださいましたので)

でも思われたのでしょう。そんな書物の名前を色々教えて下さいましたので

(わたしはこころからかんしゃしておりましたが、いまからかんがえますとおかしいようなきも)

私は心から感謝しておりましたが、今から考えますと可笑しいような気も

(いたします。けれども、そのようなふしぎなことをかいたしょもつはなかなかみあたり)

致します。けれども、そのような不思議な事を書いた書物はなかなか見当り

(ませんでした。そればかりでなく、うまれてはじめていろいろなことをしりますたんびに)

ませんでした。そればかりでなく、生れて初めて色々な事を知りますたんびに

(びっくりすることばかりで、ひとなかでそんなしょもつをよんでいるのがきはずかしさに、)

ビックリする事ばかりで、人中でそんな書物を読んでいるのが気恥かしさに、

(としょかんいきをやめようかとおもったくらいでございましたが、そのうちにいでんのことを)

図書館行きを止めようかと思った位で御座いましたが、そのうちに遺伝の事を

(かいたしょもつをなにげなくよんでおりますと、わたしはまた、びっくりすることをはっけん)

書いた書物を何気なく読んでおりますと、私は又、ビックリする事を発見

(いたしました。それは「おんなのこはおとこおやににやすく、おとこのこはおんなおやににやすい」という)

致しました。それは「女の児は男親に似易く、男の児は女親に似易い」という

(ことをれいをあげてしょうめいしたがくりでございました。)

事を例を挙げて証明した学理で御座いました。

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