芥川龍之介 杜子春④/⑥

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(よんふたりをのせたあおだけは、まもなくがびさんへまいおりました。)

【四】 二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞い下りました。

(そこはふかいたににのぞんだ、はばのひろいいちまいいわのうえでしたが、よくよくたかいところだと)

そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと

(みえて、なかぞらにたれたほくとのほしが、ちゃわんほどのおおきさにひかっていました。)

見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光っていました。

(もとよりじんせきのたえたやまですから、あたりはしんとしずまりかえって、)

元より人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、

(やっとみみにはいるものは、うしろのぜっぺきにはえている、まがりくねったひとかぶのまつが、)

やっと耳にはいるものは、後ろの絶壁に生えている、曲りくねった一株の松が、

(こうこうとよかぜになるおとだけです。)

こうこうと夜風に鳴る音だけです。

(ふたりがこのいわのうえにくると、てっかんしはとししゅんをぜっぺきのしたにすわらせて、)

二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、

(「おれはこれからてんじょうへいって、せいおうぼにおめに)

「おれはこれから天上へ行って、 西王母(せいおうぼ)に御眼に

(かかってくるから、おまえはそのあいだここにすわって、おれのかえるのを)

かかって来るから、お前はその間ここに坐って、おれの帰るのを

(まっているがよい。たぶんおれがいなくなると、いろいろなましょうがあらわれて、)

待っているが好い。多分おれがいなくなると、いろいろな魔性が現れて、

(おまえをたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことがおころうとも、)

お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ろうとも、

(けっしてこえをだすのではないぞ。もしひとことでもくちをきいたら、おまえは)

決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前は

(とうていせんにんにはなれないものだとかくごをしろ。よいか。てんちがさけても、)

到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好いか。天地が裂けても、

(だまっているのだぞ。」といいました。)

黙っているのだぞ。」と言いました。

(「だいじょうぶです。けっしてこえなぞはだしはしません。)

「大丈夫です。決して声なぞは出しはしません。

(いのちがなくなっても、だまっています。」)

命がなくなっても、黙っています。」

(「そうか。それをきいて、おれもあんしんした。ではおれはいってくるから。」)

「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから。」

(ろうじんはとししゅんにわかれをつげると、またあのたけづえにまたがって、)

老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨って、

(よめにもけずったようなやまやまのそらへ、いちもんじにきえてしまいました。)

夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。

(とししゅんはたったひとり、いわのうえにすわったまま、しずかにほしをながめていました。)

杜子春はたった一人、岩の上に坐ったまま、静かに星を眺めていました。

など

(するとかれこれはんときばかりたって、みやまのやきがはださむく)

すると彼是半時ばかり経って、深山の夜気が肌寒く

(うすいきものにとおりだしたころ、とつぜんくうちゅうにこえがあって、)

薄い着物に透り出した頃、突然空中に声があって、

(「そこにいるのはなにものだ。」としかりつけるではありませんか。)

「そこにいるのは何者だ。」と叱りつけるではありませんか。

(しかしとししゅんはせんにんのおしえどおり、なんともへんじをしずにいました。)

しかし杜子春は仙人の教え通り、何とも返事をしずにいました。

(ところがまたしばらくすると、やはりおなじこえがひびいて、)

所が又暫くすると、やはり同じ声が響いて、

(「へんじをしないとたちどころに、いのちはないものとかくごしろ。」)

「返事をしないと立ち所に、命はないものと覚悟しろ。」

(と、いかめしくおどしつけるのです。とししゅんはだまっていました。)

と、いかめしく嚇(おど)しつけるのです。杜子春は黙っていました。

(と、どこからのぼってきたか、らんらんとめをひからせたとらがいっぴき、)

と、どこから登って来たか、爛々と眼を光らせた虎が一匹、

(こつぜんといわのうえにおどりあがって、とししゅんのすがたをにらみながら、)

忽然と岩の上に躍り上がって、杜子春の姿を睨みながら、

(ひとこえたかくたけりました。のみならずそれとどうじに、)

一声高く哮(たけ)りました。のみならずそれと同時に、

(あたまのうえのまつのえだが、はげしくざわざわゆれたとおもうと、)

頭の上の松の枝が、烈しくざわざわ揺れたと思うと、

(うしろのぜっぺきのいただきからは、しとだるほどのはくだがいっぴき、)

後ろの絶壁の頂からは、 四斗樽程の白蛇(はくだ)が一匹、

(ほのおのようなしたをはいて、みるみるちかくへおりてくるのです。)

炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。

(とししゅんはしかしへいぜんと、まゆげもうごかさずにすわっていました。)

杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに坐っていました。

(とらとへびとは、ひとつえじきをねらって、たがいにすきでもうかがうのか、)

虎と蛇とは、一つ餌食を狙って、互に隙でも窺うのか、

(しばらくはにらみあいのていでしたが、やがてどちらがさきともなく、)

暫くは睨み合いの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、

(いっときにとししゅんにとびかかりました。が、とらのきばにかまれるか、)

一時に杜子春に飛びかかりました。が、虎の牙に噛まれるか、

(へびのしたにのまれるか、とししゅんのいのちはまたたくうちに、)

蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命は瞬く内に、

(なくなってしまうとおもったとき、とらとへびとはきりのごとく、)

なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧の如く、

(よかぜとともにきえうせて、あとにはただ、ぜっぺきのまつが、さっきのとおり)

夜風と共に消え失せて、後には唯、絶壁の松が、さっきの通り

(こうこうとえだをならしているばかりなのです。とししゅんはほっとひといきしながら、)

こうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。杜子春はほっと一息しながら、

(こんどはどんなことがおこるかと、こころまちにまっていました。)

今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました。

(するといちじんのかぜがふきたって、すみのようなこくうんがいちめんにあたりをとざすやいなや、)

すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、

(うすむらさきのいなずまがやにわにやみをふたつにさいて、すさまじくらいが)

うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、凄まじく雷(らい)が

(なりだしました。いや、らいばかりではありません。それといっしょに)

鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一緒に

(たきのようなあめも、いきなりどうどうとふりだしたのです。)

瀑(たき)のような雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。

(とししゅんはこのてんぺんのなかに、おそれげもなくすわっていました。かぜのおと、)

杜子春はこの天変の中に、恐れ気もなく坐っていました。風の音、

(あめのしぶき、それからたえまないいなずまのひかり、ーーしばらくはさすがのがびさんも、)

雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、 ーー暫くはさすがの峨眉山も、

(くつがえるかとおもうくらいでしたが、そのうちにみみをもつんざくほど、)

覆るかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、

(おおきならいめいがとどろいたとおもうと、そらにうずまいたこくうんのなかから、)

大きな雷鳴が轟いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、

(まっかないっぽんのひばしらが、とししゅんのあたまへおちかかりました。)

まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。

(とししゅんはおもわずみみをおさえて、いちまいいわのうえへひれふしました。)

杜子春は思わず耳を抑えて、一枚岩の上へひれ伏しました。

(が、すぐにめをひらいてみると、そらはいぜんのとおりはれわたって、)

が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡って、

(むこうにそびえたやまやまのうえにも、ちゃわんほどのほくとのほしが、)

向うに聳えた山々の上にも、茶碗程の北斗の星が、

(やはりきらきらかがやいています。してみればいまのおおあらしも、)

やはりきらきら輝いています。して見れば今の大あらしも、

(あのとらやはくだとおなじように、てっかんしのるすをつけこんだ、)

あの虎や白蛇と同じように、鉄冠子の留守をつけこんだ、

(ましょうのいたずらにちがいありません。とししゅんはようやくあんしんして、)

魔性の悪戯に違いありません。杜子春はようやく安心して、

(ひたいのひやあせをぬぐいながら、またいわのうえにすわりなおしました。)

額の冷や汗を拭いながら、又岩の上に坐り直しました。

(が、そのためいきがまだきえないうちに、こんどはかれのすわっているまえへ、)

が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐っている前へ、

(きんのよろいをきくだした、みのたけさんじょうもあろうという、おごそかなしんしょうがあらわれました。)

金の鎧を着下した、身の丈三丈もあろうという、厳かな神将が現れました。

(しんしょうはてにみつまたのほこをもっていましたが、いきなりそのほこのきっさきを)

神将は手に三叉の戟(ほこ)を持っていましたが、いきなりその戟の切先を

(とししゅんのむなもとへむけながら、めをいからせてしかりつけるのをきけば、)

杜子春の胸もとへ向けながら、眼を嗔(いか)らせて叱りつけるのを聞けば、

(「こら、そのほうはいったいなにものだ。このがびさんというやまは、てんちかいびゃくのむかしから、)

「こら、その方は一体何者だ。この峨眉山という山は、天地開闢の昔から、

(おれがすまいをしているところだぞ。それもはばからずたったひとり、)

おれが住居(すまい)をしている所だぞ。それも憚らずたった一人、

(ここへあしをふみいれるとは、よもやただのにんげんではあるまい。)

ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。

(さあいのちがおしかったら、いっこくもはやくへんとうしろ。」というのです。)

さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ。」と言うのです。

(しかしとししゅんはろうじんのことばどおり、もくねんとくちをつぐんでいました。)

しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然と口を噤んでいました。

(「へんじをしないか。ーーしないな。よし。しなければ、しないで)

「返事をしないか。ーーしないな。好し。しなければ、しないで

(かってにしろ。そのかわりおれのけんぞくたちが、)

勝手にしろ。その代りおれの眷属(けんぞく)たちが、

(そのほうをずたずたにきってしまうぞ。」)

その方をずたずたに斬ってしまうぞ。」

(しんしょうはほこをたかくあげて、むこうのやまのそらをまねきました。)

神将は戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。

(そのとたんにやみがさっとさけると、おどろいたことにはむすうのしんぺいが、)

その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、

(くものごとくそらにみちみちて、それがみなやりやかたなをきらめかせながら、)

雲の如く空に充ち満ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、

(いまにもここへひとなだれにせめよろうとしているのです。)

今にもここへ一なだれに攻め寄ろうとしているのです。

(このけしきをみたとししゅんは、おもわずあっとさけびそうにしましたが、)

この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、

(すぐにまたてっかんしのことばをおもいだして、いっしょうけんめいにだまっていました。)

すぐに又鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。

(しんしょうはかれがおそれないのをみると、いかったいからないのではありません。)

神将は彼が恐れないのを見ると、怒った怒らないのではありません。

(「このごうじょうものめ。どうしてもへんじをしなければ、やくそくどおりいのちはとってやるぞ。」)

「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ。」

(しんしょうはこうわめくがはやいか、みつまたのほこをひらめかせて、)

神将はこう喚くが早いか、三叉の戟を閃かせて、

(ひとつきにとししゅんをつきころしました。そうしてがびさんもどよむほど、)

一突きに杜子春を突き殺しました。そうして峨眉山もどよむ程、

(からからとたかくわらいながら、どこともなくきえてしまいました。)

からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。

(もちろんこのときはもうむすうのしんぺいも、ふきわたるよかぜのおとといっしょに、)

勿論この時はもう無数の神兵も、拭き渡る夜風の音と一緒に、

(ゆめのようにきえうせたあとだったのです。)

夢のように消え失せた後だったのです。

(ほくとのほしはまたさむそうに、いちまいいわのうえをてらしはじめました。)

北斗の星は又寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。

(ぜっぺきのまつもまえにかわらず、こうこうとえだをならせています。)

絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせています。

(が、とししゅんはとうにいきがたえて、あおむけにそこへたおれていました。)

が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向けにそこへ倒れていました。

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