旧約聖書3

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(そもそもきゅうやくせいしょではでえじぷときのじだいから、(1)みんしゅうがかみをわすれて)

そもそも旧約聖書では出エジプト記の時代から、(1)民衆が神を忘れて

(ぐうぞうすうはいにはしり、(2)それをかみがみていかるが、(3)ぎじんがかみとみんしゅうのあいだを)

偶像崇拝に走り、(2)それを神が見て怒るが、(3)義人が神と民衆の間を

(とりなす、というぱたーんがくりかえされてきたが、れつおうきいこうの)

とりなす、というパターンが繰り返されてきたが、列王記以降の

(よげんしゃたちのじせきもこれをなぞっている。)

預言者たちの事跡もこれをなぞっている。

(きゅうやくせいしょのなかでさんだいよげんしゃとよばれているのはいざや、えれみや、)

旧約聖書の中で三大預言者と呼ばれているのはイザヤ、エレミヤ、

(えぜきえるであり、ことにいざやはたいぶのいざやしょをのこしている。)

エゼキエルであり、ことにイザヤは大部のイザヤ書を残している。

(きゅうやくせいしょにはこのほかに12しょうよげんしょとして、ほせあしょ、よえるしょ、)

旧約聖書にはこの他に12小預言書として、ホセア書、ヨエル書、

(あもすしょ、おばでやしょ、よなしょ、みかしょ、なほむしょ、はばくくしょ、)

アモス書、オバデヤ書、ヨナ書、ミカ書、ナホム書、ハバクク書、

(ぜふぁにやしょ、はがいしょ、ぜかりやしょ、まらきしょなどがおさめられている。)

ゼファニヤ書、ハガイ書、ゼカリヤ書、マラキ書などが収められている。

(もくし)

黙示

(よげんしょには、せかいのしゅうまつとかみによるしんじだいのとうらいを、とくいなびじょんで)

預言書には、世界の終末と神による新時代の到来を、特異なビジョンで

(えがきだすことがしばしばおこなわれた。いざやしょ24-27しょう、34-35しょう、)

描き出すことがしばしば行われた。イザヤ書24-27章、34-35章、

(65-66しょう、ぜかりやしょ9-14しょう、よえるしょなどにそういったきじゅつが)

65-66章、ゼカリヤ書9-14章、ヨエル書などにそういった記述が

(みとめられるが、もっともゆうめいなものはだにえるしょである。このもくしの)

認められるが、もっとも有名なものはダニエル書である。この黙示の

(きじゅつはしんやくせいしょのじだいにもおよんでおり、ふくいんしょのなかにもしゅうまつよげんがあらわれ)

記述は新約聖書の時代にも及んでおり、福音書の中にも終末予言が現れ

((まるこ13しょう、またい24しょう、るか21:5-33)、よはねもくしろくなども)

(マルコ13章、マタイ24章、ルカ21:5-33)、ヨハネ黙示録なども

(かかれた。ちえぶんがく)

書かれた。知恵文学

(しんげんはきょうくんしゅう・かくげんしゅうであり、1しょう1せつに「いすらえるのおう、だびでのこ、)

箴言は教訓集・格言集であり、1章1節に「イスラエルの王、ダビデの子、

(そろもんのしんげん」とあり、でんどうしゃのしょ・がかとともにそろもんによって)

ソロモンの箴言」とあり、伝道者の書・雅歌と共にソロモンによって

(かかれたとでんとうてきにかんがえられている。)

書かれたと伝統的に考えられている。

など

(しいか)

詩歌

(もーせごしょなどには、ふるいうたにゆらいするとすいていされるものがさんけん)

モーセ五書などには、古い歌に由来すると推定されるものが散見

(されるが(たとえば、みりやむのうた、でぼらのうたなど)、いすらえるおうこく)

されるが(たとえば、ミリヤムの歌、デボラの歌など)、イスラエル王国

(じだいになるとしへん、がかなどにおおくのしいかがまとめてへんしゅうされるように)

時代になると詩篇、雅歌などに多くの詩歌がまとめて編集されるように

(なった。しへんはそのおおくがだびでのさく、がかはそろもんのさくとつたえられて)

なった。詩篇はその多くがダビデの作、雅歌はソロモンの作と伝えられて

(いるが、じっさいにはさまざまなちょしゃのさくひんがじかんをかけてへんさんされてきたもので)

いるが、実際には様々な著者の作品が時間をかけて編纂されてきたもので

(あろうとひはんてきながくしゃはすいそくしている。ゆだやきょう・きりすときょうのてんれいに)

あろうと批判的な学者は推測している。ユダヤ教・キリスト教の典礼に

(いまももちいられており、よーろっぱのきんだいぶんがくにもえいきょうをあたえた。なお、)

今も用いられており、ヨーロッパの近代文学にも影響を与えた。なお、

(がかはれんあいかであり、かいほうてきなびょうしゃもおおい。しかし、ゆだやきょうは)

雅歌は恋愛歌であり、開放的な描写も多い。しかし、ユダヤ教は

(でんとうてきにこれをゆだやみんぞくにたいするかみのあいとかいしゃくし、きりすときょうは)

伝統的にこれをユダヤ民族に対する神の愛と解釈し、キリスト教は

(きょうかいにたいするきりすとのあいとかいしゃくしてきた。あいかはえるされむかんらくと)

教会に対するキリストの愛と解釈してきた。哀歌はエルサレム陥落と

(しんでんはかいをなげくうたであり、でんとうてきにえれみやのさくであるとされている。)

神殿破壊を嘆く歌であり、伝統的にエレミヤの作であるとされている。

(ないようにたいするいぎづけ)

内容に対する意義付け

(ゆだやきょう)

ユダヤ教

(ゆだやきょうにとっては、「(きゅうやく)せいしょ」はゆいいつのしょうてんであり、げんざいも)

ユダヤ教にとっては、『(旧約)聖書』は唯一の正典であり、現在も

(こうどうをりっするもじどおりのほうである。みんぞくのれきしをつたえ、いすらえるのち)

行動を律する文字通りの法である。民族の歴史を伝え、イスラエルの地

(をみんぞくのこちとするせいしんてきなきばんをあたえ、こういとれきしのりょうめんにおいて)

を民族の故地とする精神的な基盤を与え、行為と歴史の両面において

(ぶんかてきないったいせいをあたえるしょでもある。)

文化的な一体性を与える書でもある。

(きりすときょう)

キリスト教

(たいして、しょうらいにゆだやをふっこうするめしあおうをやくそくする「きゅうやくせいしょ」を、)

対して、将来にユダヤを復興するメシア王を約束する『旧約聖書』を、

(きりすときょうとはいえす・きりすとのしゅつげんをやくそくするきゅうさいしとしてよむ。)

キリスト教徒はイエス・キリストの出現を約束する救済史として読む。

(「きゅうやくせいしょ」のだいめいしにもつかわれる「りっぽう」はもはやきりすときょうとの)

『旧約聖書』の代名詞にも使われる「律法」はもはやキリスト教徒の

(かいりつではないが、きりすときょうとにとっては「きゅうやくせいしょ」のかんせいが)

戒律ではないが、キリスト教徒にとっては『旧約聖書』の完成が

(いえす・きりすととそのつかいしんでありいぜんとしてじゅうようないぎをもっている)

イエス・キリストとその使信であり依然として重要な意義をもっている

(とされている。)

とされている。

(きゅうやくせいしょは「りっぽうとよげんしゃとしょしょ」、「りっぽうとよげんしゃとしへん」(るか24:44))

旧約聖書は「律法と預言者と諸書」、「律法と預言者と詩篇」(ルカ24:44

(、「りっぽう」(またい5:17-18、よはね10:34)とよばれて)

、「律法」(マタイ5:17-18、ヨハネ10:34)と呼ばれて

(いた。きゅうやくせいしょとしんやくせいしょをあわせて「りっぽうとよげんしゃおよびふくいんとしと」)

いた。旧約聖書と新約聖書を合わせて「律法と預言者および福音と使徒」

((あれきさんどりあのくれめんす、てるとぅりあぬす)、「りっぽうとふくいん」)

(アレキサンドリアのクレメンス、テルトゥリアヌス)、「律法と福音」

((くらうでぃうす、あぽりなりうす、えいれないおす)とよぶひょうげんが)

(クラウディウス、アポリナリウス、エイレナイオス)と呼ぶ表現が

(あり、あうぐすてぃぬすがいんようしたいぐなてぃうすの「しんやくせいしょは、)

あり、アウグスティヌスが引用したイグナティウスの「新約聖書は、

(きゅうやくせいしょのなかにかくされており、きゅうやくせいしょは、しんやくせいしょのなかに)

旧約聖書の中に隠されており、旧約聖書は、新約聖書の中に

(あらわされている。」ということばはゆうめいである。)

現わされている。」ということばは有名である。

(しへんでいのるでんとうはふるくからあった。これは、せいきょうかいがひじりえいとよぶもので)

詩篇で祈る伝統は古くからあった。これは、正教会が聖詠と呼ぶもので

(ある。きゅうやくじだいにしへんはうたわれていたが、きょうでもしへんうたがあり、)

ある。旧約時代に詩篇は歌われていたが、今日でも詩篇歌があり、

(かいかくはきょうかいにはじゅねーぶしへんうたがある。)

改革派教会にはジュネーブ詩篇歌がある。

(きりすとをしるまではかみをしることはできないので、きゅうやくはふひつようだと)

キリストを知るまでは神を知ることは出来ないので、旧約は不必要だと

(するけんかいにたいし、にほんきりすとかいかくはきょうかいのそうりつしゃであるおかだみのるぼくしは)

する見解に対し、日本キリスト改革派教会の創立者である岡田稔牧師は

(つぎのようにのべている。)

次のように述べている。

(「きりすときょうのせんきょうのさいしょはきゅうやくせいしょのちしきがあるひとにふくいんが)

「キリスト教の宣教の最初は旧約聖書の知識がある人に福音が

(つたえられたため、いえす・きりすとがすくいぬしであるとつたえればよかったが、)

伝えられたため、イエス・キリストが救い主であると伝えればよかったが、

(しんのかみをしらないいきょうとのにほんじんにふくいんでんどうするためには、)

真の神を知らない異教徒の日本人に福音伝道するためには、

(きゅうやくせいしょがひつようである」。)

旧約聖書が必要である」。

(ちゅうおうしんがっこうのちゃっぷまんきょうじゅは、「きゅうやくせいしょにはいきょうのぐうぞうすうはいに)

中央神学校のチャップマン教授は、「旧約聖書には異教の偶像崇拝に

(ついてかかれてあるが、せんぜんのきょうははそのきゅうやくせいしょのちしきをかいて)

ついて書かれてあるが、戦前の教派はその旧約聖書の知識を欠いて

(いたために、じんじゃをさんぱいするぐうぞうすうはいにたいしてもろかった」としてきする。)

いたために、神社を参拝する偶像崇拝に対してもろかった」と指摘する。

(ちゃっぷまんきょうじゅはにほんできゅうやくせいしょのたいせつさをはやくにしゅちょうした。)

チャップマン教授は日本で旧約聖書の大切さを早くに主張した。

(しゅうきょうかいかくしゃ、ぴゅーりたんなどはきゅうやくせいしょからせっきょうをいったが、)

宗教改革者、ピューリタンなどは旧約聖書から説教を行ったが、

(こうとうひひょう、じゆうしゅぎしんがくのえいきょうにより、きょうではきゅうやくせいしょからせっきょうする)

高等批評、自由主義神学の影響により、今日では旧約聖書から説教する

(ことがすくなくなっているといわれる。これをはんえいして、にほんの)

ことが少なくなっていると言われる。これを反映して、日本の

(きゅうやくせいしょのみのいっさつばんせいしょはしんにほんせいしょかんこうかいによる「せいしょしんかいやく)

旧約聖書のみの一冊版聖書は新日本聖書刊行会による「聖書 新改訳2017」

(のkindleはんとにほんせいしょきょうかいによるしんきょうどうわけのkindleはんしかなく、)

のKindle版と日本聖書協会による新共同訳のKindle版しかなく、

(かみばいたいのきゅうやくせいしょのみのしゅっぱんはとだえている。かつてはきゅうやくせいしょのみの)

紙媒体の旧約聖書のみの出版は途絶えている。かつては旧約聖書のみの

(せきねまさおわけやきゅうやくせいしょのみのしんかいやくだい3ぱんがいっさつでだされていた。)

関根正雄訳や旧約聖書のみの新改訳第3版が一冊で出されていた。

(せいきょうかいはきゅうやくせいしょのみのぶんばいをすすめていない。)

正教会は旧約聖書のみの分売を薦めていない。

(せいりつかてい)

成立過程

(しょうさいは「しょうてんか」をさんしょう)

詳細は「正典化」を参照

(このふしはけんしょうかのうなさんこうぶんけんやしゅってんがまったくしめされていないか、)

この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、

(ふじゅうぶんです。しゅってんをついかしてきじのしんらいせいこうじょうにごきょうりょくください。)

不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。

(「きゅうやくせいしょ」はだんぞくてきかつながいきかんにわたり、たちばのことなるおおくのひとびとや)

『旧約聖書』は断続的かつ長い期間に渡り、立場の異なる多くの人々や

(がくはのようなぐるーぷがかかわり、なんどもおおきなぞうほ・かいてい・へんさんが)

学派のようなグループが関わり、何度も大きな増補・改訂・編纂が

(おこなわれ、そのかていはかなりふくざつなものであったともすいそくされるが、)

行われ、その過程はかなり複雑なものであったとも推測されるが、

(いろんもあり、いまだにていせつをみないのがげんじょうである。せいしょのきじゅつには)

異論もあり、いまだに定説を見ないのが現状である。聖書の記述には

(あやまりがないとしんじるぷろてすたんとのふくいんはは、きゅうやくせいしょはせいしょきしゃに)

誤りが無いと信じるプロテスタントの福音派は、旧約聖書は聖書記者に

(よってかかれたときからしょうてんとしてのけんいをもっていたとみとめ、)

よって書かれた時から正典としての権威を持っていたと認め、

(さるいのちき4:2「わたしがあなたがたにめいじることばに、つけくわえてはならない。)

申命記4:2「私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。

(またへらしてはならない」というきじゅつなどから、ぞうほ・かいていはなかった)

また減らしてはならない」という記述等から、増補・改訂はなかった

(とする。いっぽう、じゆうしゅぎしんがく(りべらる)ではせいしょはだんかいてきにしょうてんか)

とする。一方、自由主義神学(リベラル)では聖書は段階的に正典化

(されていったとする。)

されていったとする。

(よんしりょうかせつ)

四資料仮説

(しょうさいは「ぶんしょかせつ」および「こうとうひひょう」をさんしょう)

詳細は「文書仮説」および「高等批評」を参照

(れきしてききりすときょうかいが、もーせをきしゃであるとしてきたもーせごしょ)

歴史的キリスト教会が、モーセを記者であるとしてきたモーセ五書

((そうせいき・いでえじぷとき・れびき・たみすうき・さるいのちき)にかんしては、)

(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)に関しては、

(それをひていするよんしりょうかせつが19せいきよりとなえられ、りべらるはの)

それを否定する四資料仮説が19世紀より唱えられ、リベラル派の

(きゅうやくせいしょがくのひょうじゅんがくせつとしてしられている。ただし、このよんしりょうかせつは)

旧約聖書学の標準学説として知られている。ただし、この四資料仮説は

(あくまでかせつにすぎず、さいぶにいたるまでかんぜんにごういされたものではない。)

あくまで仮説に過ぎず、細部に至るまで完全に合意されたものではない。

(きんねんにおいては、たとえばにほんきりすときょうだんしゅっぱんによるそうせいきちゅうかいがこの)

近年においては、例えば日本基督教団出版による創世記注解がこの

(かせつにたたないとめいげんするなど、ぷろてすたんとしゅりゅうは)

仮説に立たないと明言するなど、プロテスタント主流派

((めいんらいん)においてもしりぞけられつつある。)

(メインライン)においても退けられつつある。

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