第二次世界大戦47

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(そのごも、がだるかなるとうへのねずみゆそうはつづけられ、11がつ30にちには)

その後も、ガダルカナル島への鼠輸送は続けられ、11月30日には

(たなからいぞうしょうしょうひきいるくちくかんたいが、あめりかかいぐんのじゅんようかんたいとせっしょく、)

田中頼三少将率いる駆逐艦隊が、アメリカ海軍の巡洋艦隊と接触、

(るんがおきやせんとこしょうされたたたかいで、たなかはあっとうてきにせんりょくがまさるあめりかぐん)

ルンガ沖夜戦と呼称された戦いで、田中は圧倒的に戦力が勝るアメリカ軍

(にかんとうし、じゅうじゅんようかんのーざんぷとんをげきちん、ほか3せきをたいはさせるなど)

に敢闘し、重巡洋艦ノーザンプトンを撃沈、ほか3隻を大破させるなど

(かいしょうしてゆうしゅうのびをかざったが、そのごは、へんだーそんひこうじょうからのこうくう)

快勝して有終の美を飾ったが、その後は、ヘンダーソン飛行場からの航空

(こうげきのげきかやptぼーとのちょうりょうもあって、ねずみゆそうもしっぱいがつづいた。げきせん)

攻撃の激化やPTボートの跳梁もあって、鼠輸送も失敗が続いた。激戦

(によってたいりょうのりょうぐんのかんせんがしずんださぼじま、ふろりだしょとうのなんぽう、)

によって大量の両軍の艦船が沈んだサボ島、フロリダ諸島の南方、

(がだるかなるとうのほっぽうにそんざいするかいいきはあいあんぼとむ・さうんど)

ガダルカナル島の北方に存在する海域はアイアンボトム・サウンド

((てっていかいきょう)としょうされるようになった。やがて、ほきゅうがとどかなくなった)

(鉄底海峡)と称されるようになった。やがて、補給が届かなくなった

(がだるかなるとうのにほんぐんしょうへいはうえやびょうきでつぎつぎとたおれ、いつしか)

ガダルカナル島の日本軍将兵は飢えや病気で次々と倒れ、いつしか

(「うえじま」とよばれることとなり、がだるかなるとうでのしょうはいはけっした。)

「飢島」と呼ばれることとなり、ガダルカナル島での勝敗は決した。

(1943ねんびるませんせん)

1943年ビルマ戦線

(1942ねんしょとうにはびるまからいったんはくちくされたいぎりすぐんであったが、)

1942年初頭にはビルマから一旦は駆逐されたイギリス軍であったが、

(いんどぐんさいこうしれいかん(えいごばん)あーちぼるど・うぇーヴぇる)

インド軍最高司令官(英語版)アーチボルド・ウェーヴェル

((しょだいうぇーヴぇるはくしゃく)げんすいはびるまだっかんをせつぼうしており、しゅと)

(初代ウェーヴェル伯爵)元帥はビルマ奪還を切望しており、首都

(らんぐーんをだっかんするためのさくせんけいかくとして、べんがるわんからすいりくりょうよう)

ラングーンを奪還するための作戦計画として、ベンガル湾から水陸両用

(さくせんでわんがんのでるたちたいをしんげきし、そのままさいたんきょりらんぐーんにとつにゅう)

作戦で湾岸のデルタ地帯を進撃し、そのまま最短距離ラングーンに突入

(することをかんがえて、そのぜんしんきょてんとして、こうわんしせつがあり、なおかつこうだい)

することを考えて、その前進拠点として、港湾施設があり、尚且つ広大

(なひこうじょうもあるあきゃぶ(げんざいのしっとうぇー)をこうりゃくすることとした。)

な飛行場もあるアキャブ(現在のシットウェー)を攻略することとした。

(さくせんはいんどとうぶぐん(えいごばん)れいかのいぎりすだい15ぐんだん(えいごばん)がとうにゅう)

作戦はインド東部軍(英語版)隷下のイギリス第15軍団(英語版)が投入

など

(されたが、いんどとうぶぐんしれいかんのえる・あーうぃん(えいごばん)ちゅうじょうがごうまん)

されたが、インド東部軍司令官ノエル・アーウィン(英語版)中将が傲慢

(なじんぶつで、いぎりすだい15ぐんだんしれいかんうぃりあむ・すりむちゅうじょうとあーうぃん)

な人物で、イギリス第15軍団司令官ウィリアム・スリム中将とアーウィン

(とはまったくうまがあわず、ぐんのしきけんをじっしつてきにあーうぃんがとりあげたじょうきょう)

とは全く馬が合わず、軍の指揮権を実質的にアーウィンが取り上げた状況

(になるなど、さくせんしきけんでもんだいをないほうしたじょうたいでのさくせんきょうこうとなった。)

になるなど、作戦指揮権で問題を内包した状態での作戦強行となった。

(また、さくせんにはぐんだんの2こしだんがとうにゅうされるよていであったが、そのうちの)

また、作戦には軍団の2個師団が投入される予定であったが、そのうちの

(1こしだんはくんれんどとそうびのふそくでとうにゅうがみおくられ、けっきょく1こしだんと1こりょだん)

1個師団は訓練度と装備の不足で投入が見送られ、結局1個師団と1個旅団

(がさくせんにとうにゅうされることとなった。1942ねんまつにいぎりすぐんはこっきょうをこえて)

が作戦に投入されることとなった。1942年末にイギリス軍は国境を越えて

(びるまにしんにゅうしたが、しゅうていのかずがふそくしており、くりーくがいりくんで)

ビルマに侵入したが、舟艇の数が不足しており、クリークが入り組んで

(いるちけいでこうぐんそくどはあがらなかった。)

いる地形で行軍速度は上がらなかった。

(いっぽうでにほんぐんもたいへいようのせんきょうがふううんきゅうをつげるなかで、びるまにぞうえんを)

一方で日本軍も太平洋の戦況が風雲急を告げるなかで、ビルマに増援を

(おくるよゆうはなく、あきゃぶには1これんたいしかおいていなかった。にほんぐんは)

送る余裕はなく、アキャブには1個連隊しか置いていなかった。日本軍は

(わずかなせんりょくをあきゃぶぜんめんのらてどん(えいごばん)、どんべいく)

わずかな戦力をアキャブ前面のラテドン(英語版)、ドンベイク

((donbaik)においていぎりすぐんをむかえうち、りょうぐんは1943ねん1がつに)

(donbaik)に置いてイギリス軍を迎え撃ち、両軍は1943年1月に

(げきとつした(だいいちじあきゃぶさくせん)。せんりょくてきにあっとうてきにかっていた)

激突した(第一次アキャブ作戦)。戦力的に圧倒的に勝っていた

(いぎりすぐんであったが、にほんぐんはらてどんとどんべいくにきょうこなじんちを)

イギリス軍であったが、日本軍はラテドンとドンベイクに強固な陣地を

(こうちくしており、いぎりすぐんはにほんぐんのぼうえいせんをとっぱできなかった。とくに)

構築しており、イギリス軍は日本軍の防衛線を突破できなかった。特に

(どんべいくがげきせんちとなり、ばれんたいんほへいせんしゃをともないすうばいのせんりょくで)

ドンベイクが激戦地となり、バレンタイン歩兵戦車を伴い数倍の戦力で

(きょうこうするいぎりすぐんをにほんぐんはなんどもげきたいした。いぎりすぐんがあきゃぶ)

強攻するイギリス軍を日本軍は何度も撃退した。イギリス軍がアキャブ

(ぜんめんじんちをせめあぐねているあいだ、にほんぐんはぞうえんのだい55しだんをいぎりすぐん)

前面陣地を攻めあぐねている間、日本軍は増援の第55師団をイギリス軍

(のはいごにまわりこませて、ほういせんめつをねらった。はいごからこうげきされた)

の背後に回り込ませて、包囲殲滅を狙った。背後から攻撃された

(いぎりすぐんはたちまちほうかいし、こうげきしゅりょくのいぎりすだい6ぽへいりょだん)

イギリス軍はたちまち崩壊し、攻撃主力のイギリス第6歩兵旅団

((えいごばん)のりょだんしれいぶもこうげきされて、ろなるど・きゃべんでぃっしゅ)

(英語版)の旅団司令部も攻撃されて、ロナルド・キャベンディッシュ

(じゅんしょういかしれいぶのしょうかんやさんぼうがぜんいんほりょとなるといったありさまであったが、)

准将以下司令部の将官や参謀が全員捕虜となるといった有様であったが、

(こうほうからのはげしいほうへいしえんもあって、どうにかぜんめつだけはさけられた。)

後方からの激しい砲兵支援もあって、どうにか全滅だけは避けられた。

(いぎりすぐんはししょうしゃ5,000にんいじょうというだいそんがいをこうむり、さいどにほんぐんに)

イギリス軍は死傷者5,000人以上という大損害を被り、再度日本軍に

(よりびるまからたたきだされ、このざんぱいにこりたいぎりすぐんは、これから)

よりビルマから叩き出され、この惨敗に懲りたイギリス軍は、これから

(1ねんいじょう、びるまでのせっきょくてきなさくせんてんかいをひかえて、せんりょくじゅうじつを)

1年以上、ビルマでの積極的な作戦展開を控えて、戦力充実を

(ゆうせんさせることとなった。)

優先させることとなった。

(3がつに「らじお・とうきょうほうそう」で、れんごうこくぐんむけぷろぱがんだほうそう)

3月に「ラジオ・トウキョウ放送」で、連合国軍向けプロパガンダ放送

(「ぜろ・あわー」がかいしされた。おんがくとかたりをちゅうしんに、あめりかじんほりょが)

「ゼロ・アワー」が開始された。音楽と語りを中心に、アメリカ人捕虜が

(れんごうこくぐんへいしにむけてよびかけるというすたいるをきほんとした。えいごを)

連合国軍兵士に向けて呼びかけるというスタイルを基本とした。英語を

(はなすじょせいあなうんさーはふくすうそんざいしたが、いずれもほんみょうがほうそうされる)

話す女性アナウンサーは複数存在したが、いずれも本名が放送される

(ことはなくあいしょうもつけられていなかった。ほうそうをきいていたあめりかぐん)

ことはなく愛称もつけられていなかった。放送を聴いていたアメリカ軍

(へいしたちはこえのぬしに「とうきょうろーず」のあいしょうをつけ、そのごたいへいようぜんせんの)

兵士たちは声の主に「東京ローズ」の愛称を付け、その後太平洋前線の

(あめりかぐんへいしらにひょうばんとなった。どうようのほうそう「ひのまるあわー」も)

アメリカ軍兵士らに評判となった。同様の放送「日の丸アワー」も

(どうねん12がつよりおこなわれた。)

同年12月より行われた。

(ちゃんどら・ぼーすらいほう)

チャンドラ・ボース来訪

(1942ねんにらーす・びはーりー・ぼーすをしどうしゃとするいんどどくりつれんめい)

1942年にラース・ビハーリー・ボースを指導者とするインド独立連盟

((えいごばん)がしょうなんでせつりつされた。れんめいのしきかにはいぎりすりょうまらやや)

(英語版)が昭南で設立された。連盟の指揮下にはイギリス領マラヤや

(あきな、ほんこんなどでほりょになったえいいんぐんのいんどへいをちゅうしんにけっせいされていた)

昭南、香港などで捕虜になった英印軍のインド兵を中心に結成されていた

(いんどこくみんぐんがしきかにはいったが、いんどどくりつせんげんのそうきじつげんをしゅちょうする)

インド国民軍が指揮下に入ったが、インド独立宣言の早期実現を主張する

(こくみんぐんしれいかんもはん・しん(えいごばん)と、じきしょうそうであるとかんがえていた)

国民軍司令官モハン・シン(英語版)と、時期尚早であると考えていた

(にほんぐん、そしてにほんぐんのいこうをうけたびはーりー・ぼーすとのあつれきが)

日本軍、そして日本軍の意向を受けたビハーリー・ボースとの軋轢が

(つよまっていた。ぜんねん11がつ20かにもはん・しんはかいにんされ、びはーりー・)

強まっていた。前年11月20日にモハン・シンは解任され、ビハーリー・

(ぼーすのたいちょうもあっかしたことで、にほんぐんはいんどこくみんぐんしどうのこうけいしゃを)

ボースの体調も悪化したことで、日本軍はインド国民軍指導の後継者を

(もとめるようになった。)

求めるようになった。

(こくないがいにしられたいんどどくりつうんどうかであり、どいつにいたすばす・)

国内外に知られたインド独立運動家であり、ドイツにいたスバス・

(ちゃんどら・ぼーすはまさにうってつけのじんぶつであり、またびはーりー・)

チャンドラ・ボースはまさにうってつけの人物であり、またビハーリー・

(ぼーすとともにこうどうしていたいんどどくりつれんめいかんぶのa.m.ないるもぼーすを)

ボースと共に行動していたインド独立連盟幹部のA.M.ナイルもボースを

(こうけいしゃとしてしょうへいすることをしんげんした。しかしりくろ、かいろ、くうろともに)

後継者として招へいすることを進言した。しかし陸路、海路、空路ともに

(せんそうじょうたいにあり、いぎりすのしょくみんちかにあるいんどじんがいどうするには)

戦争状態にあり、イギリスの植民地下にあるインド人が移動するには

(こんなんがおおかったため、にちどくりょうせいふはぼーすのいそうのためのきょうぎをおこなった。)

困難が多かったため、日独両政府はボースの移送のための協議を行った。

(そのけっか、にほんとどいつをむすぶくうろよりはせんすいかんでのいどうのほうがあんぜんで)

その結果、日本とドイツを結ぶ空路よりは潜水艦での移動の方が安全で

(あるとけつろんがでて、2がつ8にちに、ちゃんどら・ぼーすとそっきんあでぃど・)

あると結論が出て、2月8日に、チャンドラ・ボースと側近アディド・

(はさん(えいごばん)ののりこんだどいつかいぐんのuぼーとu180はふらんす)

ハサン(英語版)の乗り込んだドイツ海軍のUボート U180はフランス

(たいせいようがんのぶれすとをしゅっこうした。そのごたいせいようをなんかし、いぎりすぐんの)

大西洋岸のブレストを出航した。その後大西洋を南下し、イギリス軍の

(かいぐんきちのあるみなみあふりかのきぼうほうをおおきくうかいし、4がつ26にちに)

海軍基地のある南アフリカの喜望峰を大きく迂回し、4月26日に

(まだがすかるとうとうなんおきでu180とにほんかいぐんのいごうだいにきゅうせんすいかんがかいごうし、)

マダガスカル島東南沖でU180と日本海軍の伊号第二九潜水艦が会合し、

(よく4がつ27にちににほんせんすいかんにのりこんだ。5がつ6かにいごうだいにきゅうせんすいかんは、)

翌4月27日に日本潜水艦に乗り込んだ。5月6日に伊号第二九潜水艦は、

(すまとらとうほくたんにいちするかいぐんとくべつこんきょちたいしきかのうぇーじま)

スマトラ島北端に位置する海軍特別根拠地隊指揮下のウェー島

((さばんじま)さばんこうにとうちゃくした。げんちで1しゅうかんほどきゅうようをとったあとに)

(サバン島)サバン港に到着した。現地で1週間ほど休養を取った後に

(にほんぐんのこうくうきにのりかえ、5がつ16にちにとうきょうのはねだひこうじょうにとうちゃくした。)

日本軍の航空機に乗り換え、5月16日に東京の羽田飛行場に到着した。

(かいぐんこうじけんとあっつとうぎょくさい)

海軍甲事件とアッツ島玉砕

(がだるかなるとうのたたかいのしょうはいもけっした1943ねん(しょうわ18ねん)1がつ、)

ガダルカナル島の戦いの勝敗も決した1943年(昭和18年)1月、

(かさぶらんかかいだんがかいさいされて、たいへいようしょうめんでのはんこうのため、たいせいようせんいき)

カサブランカ会談が開催されて、太平洋正面での反攻のため、大西洋戦域

(とたいへいようせんいきのせんりょくのはいぶんわりあいがあらためられた。みなみたいへいようかいせんのけっか、)

と太平洋戦域の戦力の配分割合が改められた。南太平洋海戦の結果、

(いちじてきにたいへいようじょうでかどうくうぼが0になるというきゅうちにおちいったあめりかかいぐん)

一時的に太平洋上で可動空母が0になるという窮地に陥ったアメリカ海軍

(であったが、さらとがとえんたーぷらいずがしゅうりをおえてふっきし、また、)

であったが、サラトガとエンタープライズが修理を終えて復帰し、また、

(たいりょうはっちゅうしていたえせくすきゅうこうくうぼかんの1ばんかんえせくすもしゅうえきし、)

大量発注していたエセクス級航空母艦の1番艦エセクスも就役し、

(かんたいへのごうりゅうもまぢかとほんかくてきなはんこうのじゅんびもととのいつつあった。いっぽうで)

艦隊への合流も間近と本格的な反攻の準備も整いつつあった。一方で

(にほんぐんは、としあけそうそうにがだるかなるとうからのてったいがけってい、)

日本軍は、年明け早々にガダルカナル島からの撤退が決定、

(がだるかなるとうてっしゅうさくせんであるけごうさくせんがかいしされた。にほんかいぐんと)

ガダルカナル島撤収作戦であるケ号作戦が開始された。日本海軍と

(くうぼじゅんよう、ずいほうの2せきのくうぼやきちこうくうたいによってしえんされたくちくかんたいが)

空母隼鷹、瑞鳳の2隻の空母や基地航空隊によって支援された駆逐艦隊が

(がだるかなるとうにとつにゅうして、りくぐんへいしをてったいさせるというさくせんであり、)

ガダルカナル島に突入して、陸軍兵士を撤退させるという作戦であり、

(つぎからつぎへとしんえいかんをつぎこみがだるかなるとうふうさをきょうかしていた)

次から次へと新鋭艦をつぎ込みガダルカナル島封鎖を強化していた

(あめりかかいぐんとしょうとつしたが、1がつ29にちには、れんねるじまおきかいせんで)

アメリカ海軍と衝突したが、1月29日には、レンネル島沖海戦で

(じゅうじゅんようかんしかごをげきちん、くちくかんら・ヴぁれっとをげきはして、)

重巡洋艦シカゴを撃沈、駆逐艦ラ・ヴァレットを撃破して、

(あめりかぐんかんたいのけんせいにせいこうした。)

アメリカ軍艦隊の牽制に成功した。

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