第二次世界大戦45
関連タイピング
問題文
(にほんぐんのかなだこうげき)
日本軍のカナダ攻撃
(ありゅーしゃんとみっどうえーで、にほん、あめりかりょうぐんがたたかったあとの)
アリューシャンとミッドウエーで、日本、アメリカ両軍が戦った後の
(6がつ20かには、きたたいへいようでつうしょうはかいさくせんちゅうのおつがたせんすいかんの)
6月20日には、北太平洋で通商破壊作戦中の乙型潜水艦の
(「いごうだいにじゅうろくせんすいかん」が、だいにじせかいたいせんではじめてかなだほんどを)
「伊号第二十六潜水艦」が、第二次世界大戦で初めてカナダ本土を
(こうげきした。ばんくーばーとうせいほう5かいりちてんでふじょうし、れーだーきちへむけ)
攻撃した。バンクーバー島西方5浬地点で浮上し、レーダー基地へ向け
(しゅほうだん17はつをはっしゃしたが、こうてんとしかいふりょうによりめいちゅうせず、ほとんどが)
主砲弾17発を発射したが、荒天と視界不良により命中せず、ほとんどが
(えすてばんぽいんとのとうだいしゅうへんにちゃくだんした。ほうげきごい26はげんばをはなれ、)
エステバンポイントの灯台周辺に着弾した。砲撃後伊26は現場を離れ、
(5せきのかなだせんとかなだくうぐんのすーぱーまりんすとらんれあがい26の)
5隻のカナダ船とカナダ空軍のスーパーマリン ストランレアが伊26の
(げいげきにむかったが、い26をみつけられなかった。)
迎撃にむかったが、伊26を見つけられなかった。
(よく21にちには「いごうだいにじゅうごせんすいかん」がおれごんしゅうあすとりあしの)
翌21日には「伊号第二十五潜水艦」がオレゴン州アストリア市の
(ふぉーと・すてぃーぶんすりくぐんきちへいったほうげきでは、とつぜんのこうげきを)
フォート・スティーブンス陸軍基地へ行った砲撃では、突然の攻撃を
(うけたふぉーと・すてぃーぶんすはぱにっくにおちいり、「いにじゅうご」に)
受けたフォート・スティーブンスはパニックに陥り、「伊二十五」に
(たいしてなんのはんげきもおこなえなかった(ふぉーと・すてぃーぶんすほうげき)。)
対して何の反撃も行えなかった(フォート・スティーブンス砲撃)。
(とうしょは、あすとりあしがいもこうげきもくひょうにふくんでいたものの、ころんびあがわの)
当初は、アストリア市街も攻撃目標に含んでいたものの、コロンビア川の
(かこうをはいったところにあるあすとりあしがいへほうげきはとどかなかった。そのご、)
河口を入った所にあるアストリア市街へ砲撃は届かなかった。その後、
(くんれんひこうちゅうだったこうくうきがい25をはっけんし、まもなくつうほうをうけたa-29)
訓練飛行中だった航空機が伊25を発見し、まもなく通報を受けたA-29
(はどそんこうげききがしゅつげきしている。はどそんこうげききはい25へばくげきを)
ハドソン攻撃機が出撃している。ハドソン攻撃機は伊25へ爆撃を
(おこなったが、たくみにこうげきをかわすい25にそんしょうをあたえることはできなかった。)
行ったが、巧みに攻撃をかわす伊25に損傷を与えることはできなかった。
(このこうげきもおおきなひがいをあたえることはなかったものの、あめりかほんどに)
この攻撃も大きな被害を与えることはなかったものの、アメリカ本土に
(あるあめりかぐんきちへのこうげきとしてはべいえいせんそういらいのもので、にほんぐんの)
あるアメリカ軍基地への攻撃としては米英戦争以来のもので、日本軍の
(はちくのこうげきがついにあめりかとかなだほんどのぐんのしせつまでおよぶことになった。)
破竹の攻撃がついにアメリカとカナダ本土の軍の施設まで及ぶことになった。
(どうめいこくとのれんけい)
同盟国との連携
(ちゅうにちどいつたいしかんふけいさつぶかんとしてとうきょうにふにんしたよーぜふ・)
駐日ドイツ大使館付警察武官として東京に赴任したヨーゼフ・
(まいじんがーしんえいたいたいさは、6がつにひむらーないむだいじんのめいをおびて)
マイジンガー親衛隊大佐は、6月にヒムラー内務大臣の命を帯びて
(しゃんはいにおもむいた。まいじんがーたいさはにほんにたいし、しゃんはいにおける)
上海に赴いた。マイジンガー大佐は日本に対し、上海における
(ゆだやなんみんの「しょり」をせまり、いかの3あんをていじした。「こうほこうにある)
ユダヤ難民の「処理」を迫り、以下の3案を提示した。「黄浦江にある
(はいせんにゆだやじんをつめこみ、ひがししなかいにながしたうえ、げきちんする」、)
廃船にユダヤ人を詰め込み、東シナ海に流した上、撃沈する」、
(「ゆだやじんをがんえんあらがねできょうせいろうどうにじゅうじさせる」、「ちょうこうかこうにしゅうようじょを)
「ユダヤ人を岩塩鉱で強制労働に従事させる」、「長江河口に収容所を
(けんせつし、ゆだやじんをしゅうようしてせいたいじっけんのざいりょうとする」。しかしにほんせいふ)
建設し、ユダヤ人を収容して生体実験の材料とする」。しかし日本政府
(は、あくしつなうえにじんどうにもとるどいつがわのていあんをかんぜんにきょぜつした。)
は、悪質な上に人道にもとるドイツ側の提案を完全に拒絶した。
(しかし、どいつせいふからのさいさんのあつりょくをうけたにほんせいふにより、しゃんはいの)
しかし、ドイツ政府からの再三の圧力を受けた日本政府により、上海の
(ゆだやじんはとくていのちくにきょじゅうすることをしいられ、そこからでることを)
ユダヤ人は特定の地区に居住することを強いられ、そこから出ることを
(きんじられた。ぼうめいゆだやじんはざいさんをしょぶんするためににほんせいふのきょかを)
禁じられた。亡命ユダヤ人は財産を処分するために日本政府の許可を
(ひつようとし、ほかのものもげっとーにいじゅうするきょかをひつようとした。それまで)
必要とし、他の者もゲットーに移住する許可を必要とした。それまで
(げっとーにはゆうしてっせんもがいへきもなかったが、これいこうはがいしゅつきんしれいが)
ゲットーには有刺鉄線も外壁も無かったが、これ以降は外出禁止令が
(かんこうされ、ちいきはけいらされたうわしょくりょうははいきゅうせいになり、くいきからのでいりに)
敢行され、地域は警邏された上食料は配給制になり、区域からの出入りに
(はぱすがひつようになったが、いずれにしてもにほんせいふによりたいせんちゅうを)
はパスが必要になったが、いずれにしても日本政府により大戦中を
(つうじてしゃんはいのぼうめいゆだやじんのいのちはまもられた。)
通じて上海の亡命ユダヤ人の命は守られた。
(いたりあとのれんけいについては、1941ねんにいたりあこうかいかんたいのざんそんかんの)
イタリアとの連携については、1941年にイタリア紅海艦隊の残存艦の
(「えりとれあ」と「らむ2」が、すえずうんががへいさされたためにらいにちし、)
「エリトレア」と「ラム2」が、スエズ運河が閉鎖されたために来日し、
(やむなくこうべこうにていはくしていたが、11にちにいたりあもあめりかにせんせんふこく)
やむなく神戸港に停泊していたが、11日にイタリアもアメリカに宣戦布告
(したために、この2せきもてんしんにきょてんをおくいたりあきょくとうかんたいのいちぶににんめい)
したために、この2隻も天津に拠点を置くイタリア極東艦隊の一部に任命
(され、これらいたりあきょくとうかんたいはにほんからのねんりょうやしょくりょうなどのきょうきゅうを)
され、これらイタリア極東艦隊は日本からの燃料や食料などの供給を
(うけて、にほんやまんしゅうこくのせんだんごえいのほきゅうさぎょうや、てんしんとにほん、)
受けて、日本や満洲国の船団護衛の補給作業や、天津と日本、
(とうなんあじあとのあいだのゆそうをたんとうしだいかつやくした。)
東南アジアとの間の輸送を担当し大活躍した。
(1942ねんには、いたりあぐんのおおがたゆそうきの「さヴぉいあ・まるけってぃ)
1942年には、イタリア軍の大型輸送機の「サヴォイア・マルケッティ
(sm.75gart」により、いたりあとにほん、もしくはにほんのせんりょうちいき)
SM.75 GA RT」により、イタリアと日本、もしくは日本の占領地域
(とのひこうをおこなうことをけいかくした。6がつ29にちにぐいどーにあ・もんてちぇーりお)
との飛行を行うことを計画した。6月29日にグイドーニア・モンテチェーリオ
(からいたりあとりりくごせんそうじょうたいにあったそびえとれんぽうをさけて、)
からイタリアと離陸後戦争状態にあったソビエト連邦を避けて、
(どいつせんりょうかのうくらいなのざぽりーじゃ、あらるかいほくがん、)
ドイツ占領下のウクライナのザポリージャ、アラル海北岸、
(ばいかるこのえん、たるばがたいさんみゃくをつうかしごびさばくじょうくう、もんごるじょうくう)
バイカル湖の縁、タルバガタイ山脈を通過しゴビ砂漠上空、モンゴル上空
(をけいゆし、6がつ30にちににほんせんりょうしものうちもんごる、ぱおとうにとうちゃくした。)
を経由し、6月30日に日本占領下の内モンゴル、包頭に到着した。
(しかしそのさいにねんりょうぶそくなどにより、そびえとれんぽうじょうくうをつうかして)
しかしその際に燃料不足などにより、ソビエト連邦上空を通過して
(しまいじゅうげきをうけてしまう。そのあととうきょうのよこたきちへむかい7がつ3かから)
しまい銃撃を受けてしまう。その後東京の横田基地へ向かい7月3日から
(7がつ16にちまでたいざいし、7がつ18にちぱおとうをりりくしてうくらいなのおでっさを)
7月16日まで滞在し、7月18日包頭を離陸してウクライナのオデッサを
(けいゆしてぐいどーにあ・もんてちぇーりおまできたいをひこうさせ、)
経由してグイドーニア・モンテチェーリオまで機体を飛行させ、
(7がつ20かにこのにんむをかんすいした。)
7月20日にこの任務を完遂した。
(しかし、にほんにとってちゅうりつこくの(いたりあにとってのたいせんこく))
しかし、日本にとって中立国の(イタリアにとっての対戦国)
(そびえとれんぽうじょうそらをとぶというがいこうじょうのりゆうによって、たいざいする)
ソビエト連邦上空を飛ぶという外交上の理由によって、滞在する
(あんとにお・もすかてっりちゅうさいかのそんざいをまったくがいぶにしらせないなど、)
アントニオ・モスカテッリ中佐以下の存在を全く外部に知らせないなど、
(にほんではかんげいとはいえないたいぐうであった。また、じぜんににほんがわが)
日本では歓迎とは言えない待遇であった。また、事前に日本側が
(ようせいしていた、つじまさのぶりくぐんちゅうさをきろにどうこうさせないというおまけも)
要請していた、辻政信陸軍中佐を帰路に同行させないというおまけも
(ついた。しかも、あんけんのふどういにもかかわらずいたりあは8がつ2かにこの)
ついた。しかも、案件の不同意にも関わらずイタリアは8月2日にこの
(できごとをこうひょうし、2こくかんのかんけいはひえびえとしたものになり、いたりあは)
出来事を公表し、2国間の関係は冷え冷えとしたものになり、イタリアは
(ふたたびこのちょうきょりひこうをおこなおうとはしなかった。)
再びこの長距離飛行を行おうとはしなかった。
(なお、かいせんごりょうじんえいにおいて、かいせんによりこうせんこくやだんこうこくにのこされたがいこうかんや)
なお、開戦後両陣営において、開戦により交戦国や断交国に残された外交官や
(みんかんじん(きぎょうのちゅうざいいんやしゅうきょうかんけいしゃ、けんきゅうしゃ、りゅうがくせいと)
民間人(企業の駐在員や宗教関係者、研究者、留学生と
(それらにたいどうしたかぞくなどのいちじざいじゅうしゃ)のきこくほうほうがもんだいになった。そのご)
それらに帯同した家族などの一時在住者)の帰国方法が問題になった。その後
(1942ねん5がつにりょうじんえいのあいだでざんりゅうがいこうかんとざんりゅうみんかんじんのこうかんに)
1942年5月に両陣営の間で残留外交官と残留民間人の交換に
(かんするきょうていがむすばれ、にほん(とそのせんりょうちとしょくみんち、ならびにまんしゅうこくやたいなど)
関する協定が結ばれ、日本(とその占領地と植民地、ならびに満洲国やタイなど
(そのどうめいこく)とあめりか(とぶらじるやかなだなどそのきんりんのどうめいこく)のあいだに)
その同盟国)とアメリカ(とブラジルやカナダなどその近隣の同盟国)の間に
(ついてはこのとしの6がつと1943ねん9がつの2かい、にほんといぎりす)
ついてはこの年の6月と1943年9月の2回、日本とイギリス
((とそのしょくみんち、ならびにおーすとらりあやにゅーじーらんどなどの)
(とその植民地、ならびにオーストラリアやニュージーランドなどの
(いぎりすれんぽうしょこく)とのあいだについては1942ねん8がつの1かい、ごうけい3かいの)
イギリス連邦諸国)との間については1942年8月の1回、合計3回の
(こうかんせんがうんこうされることになった。)
交換船が運航されることになった。
(またかいせんいこう、どいつがわはなまごむやすず、もりぶでん、ぼーきさいとなどの)
また開戦以降、ドイツ側は生ゴムやスズ、モリブデン、ボーキサイト等の
(ぐんようしゃりょう・こうくうきせいさんにひつようなげんざいりょうをにゅうしゅするために、どいつかいぐんの)
軍用車両・航空機生産に必要な原材料を入手するために、ドイツ海軍の
(かいじょうふうさとっぱぶねをたいせいようといんどようけいゆで、あきなやじゃわなどにほんの)
海上封鎖突破船を大西洋とインド洋経由で、昭南やジャワなど日本の
(せんりょうするとうなんあじあほうめんからにほんまでおくったが、おもにたいせいようをきょてんに)
占領する東南アジア方面から日本まで送ったが、主に大西洋を拠点に
(かつどうするいぎりすかいぐんやみなみあふりかれんぽうぐんのぼうがいにあうことが)
活動するイギリス海軍や南アフリカ連邦軍の妨害に遭うことが
(おおくなり、さくせんにししょうをきたすことがおおくなった。)
多くなり、作戦に支障をきたすことが多くなった。
(しかしどいつがわはせんすいかんでさんそぎょらいやせんすいかんようむきほうはっしゃかん、)
しかしドイツ側は潜水艦で酸素魚雷や潜水艦用無気泡発射管、
(すいじょうひこうていやせんすいかんようじどうかけちょうそうち、ごじつにはくうぼのせっけいずなどの)
水上飛行艇や潜水艦用自動懸弔装置、後日には空母の設計図などの
(さいしんのぐんじぎじゅつと、もりぶでんやすずなどをにほんから、にほんがわからも)
最新の軍事技術と、モリブデンやスズなどを日本から、日本側からも
(うるつぶるく・れーだーぎじゅつやあんごうき、ごじつにはじぇっとえんじんや)
ウルツブルク・レーダー技術や暗号機、後日にはジェットエンジンや
(ろけっとえんじんなどのさいしんのぐんじぎじゅつと、うらんなどをどいつから)
ロケットエンジン等の最新の軍事技術と、ウランなどをドイツから
(にゅうしゅしたいというおもわくがあり、りょうこくのりがいがいっちし、ここににほんとどいつ)
入手したいという思惑があり、両国の利害が一致し、ここに日本とドイツ
(のあいだをせんすいかんでれんらくするというけいかくがじっこうにうつされることとなった。)
の間を潜水艦で連絡するという計画が実行に移されることとなった。