第二次世界大戦43
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問題文
(ふぃりぴんではしれいかんのまっかーさーいか10まんにんのしょうへいが、ばたーん)
フィリピンでは司令官のマッカーサー以下10万人の将兵が、バターン
(はんとうとあめりかぐんによってようさいかされていたこれひどーるとうに)
半島とアメリカ軍によって要塞化されていたコレヒドール島に
(おいつめられていたが、びちくしょくりょうをそうそうにくいつくしきがにくるしめ)
追い詰められていたが、備蓄食料を早々に食いつくし飢餓に苦しめ
(られていた。うえとのたたかいにくるしめられているまっかーさーを「2かげつに)
られていた。飢えとの戦いに苦しめられているマッカーサーを「2か月に
(わたってにほんりくぐんをあいてに「ぜんせん」している」とあめりかほんごくでは)
わたって日本陸軍を相手に『善戦』している」とアメリカ本国では
(「えいゆう」としてはでにせんでんしてまつりあげていたが、まっかーさーほんにんは)
「英雄」として派手に宣伝して祭り上げていたが、マッカーサー本人は
(みずからほりょになりかねないじょうたいにおいこまれて、あめりかほんごくになんども)
自ら捕虜になりかねない状態に追い込まれて、アメリカ本国に何度も
(ぞうえんはけんをこんがんしていたが、あめりかにそのよゆうはなくむしされつづけた。)
増援派遣を懇願していたが、アメリカにその余裕はなく無視され続けた。
(しかし、あめりかりくぐんさんぼうそうちょうまでつとめたまっかーさーがほりょになる)
しかし、アメリカ陸軍参謀総長まで務めたマッカーサーが捕虜になる
(えいきょうのおおきさをけねんしたるーずべるとによって、まっかーさーは)
影響の大きさを懸念したルーズベルトによって、マッカーサーは
(おーすとらりあへだっそうして、にほんぐんへのはんげきのしきをとるようめいじられ、)
オーストラリアへ脱出して、日本軍への反撃の指揮を執るよう命じられ、
(3がつ11にちにかぞくやばくりょうとともにptぼーとでこれひどーるとうをだっしゅつ、そのご)
3月11日に家族や幕僚と共にPTボートでコレヒドール島を脱出、その後
(みんだなおとうけいゆでおーすとらりあへとうぼうした。これはだいとうりょうのめいれい)
ミンダナオ島経由でオーストラリアへ逃亡した。これは大統領の命令
(とはいえ、まっかーさーのぐんれきにどろをぬるものとなった。まっかーさーが)
とはいえ、マッカーサーの軍歴に泥を塗るものとなった。マッカーサーが
(とうぼうしたあとも、ばたーんはんとうとこれひどーるとうはやく2かげつかんもちこたえた)
逃亡した後も、バターン半島とコレヒドール島は約2か月間持ち堪えた
(のち、ぞうえんをえたにほんぐんのそうこうげきのまえに5がつ6かにこうふくした。)
のち、増援を得た日本軍の総攻撃の前に5月6日に降伏した。
(ばたーんでにほんぐんにこうふくしたあめりかぐんしょうへいは76,000めいにもなり、)
バターンで日本軍に降伏したアメリカ軍将兵は76,000名にもなり、
(「せんしじょうであめりかぐんがこうむったさいあくのはいぼく」といわれたが、こうふくを)
『戦史上でアメリカ軍が被った最悪の敗北』と言われたが、降伏を
(うけいれたにほんぐんは、とうしょからばたーんにこもったあめりかぐんのへいしすうを)
受け入れた日本軍は、当初からバターンに籠ったアメリカ軍の兵士数を
(はあくできておらず、よそうがいのほりょにたいししょくりょうもうんぱんしゅだんもじゅんび)
把握できておらず、予想外の捕虜に対し食糧も運搬手段も準備
(できていなかった。また、こうふくしたしょうへいはきがとびょうきでしょうもうしきって)
できていなかった。また、降伏した将兵は飢餓と病気で消耗しきって
(いたが、しれいかんのほんままさはるちゅうじょうはそういうじじょうをじゅうぶんしらされていない)
いたが、司令官の本間雅晴中将はそういう事情を十分知らされていない
(なかで、ばたーんはんとうさいなんぶからまにらほっぽうのさんふぇるなんどまで)
中で、バターン半島最南部からマニラ北方のサンフェルナンドまで
(90kmをとほでいどうするというほりょゆそうけいかくをしょうにんした。すいじゃくしていた)
90kmを徒歩で移動するという捕虜輸送計画を承認した。衰弱していた
(ほりょたちは、まらりあ、ひろう、きがで7,000めい~)
捕虜たちは、マラリア、疲労、飢餓で7,000名〜
(10,000めいがしぬこととなり、あとにあめりかで「bataan)
10,000名が死ぬこととなり、後にアメリカで「bataan
(deathmarch(ばたーんしのこうしん)」としょうされて、にほん)
Death March(バターン死の行進)』と称されて、日本
(へのてきがいしんをあおることとなった。てきぜんとうぼうしてめんぼくをうしなっていたまっかーさー)
への敵愾心を煽ることとなった。敵前逃亡して面目を失っていたマッカーサー
(は「きんだいのせんそうで、めいよあるぐんしょくをこれほどよごしたくにはかつてない。)
は「近代の戦争で、名誉ある軍職をこれほど汚した国はかつてない。
(せいぎというものをこれほどやばんにふみにじったものにたいして、てきとうなきかいに)
正義というものをこれほど野蛮にふみにじった者に対して、適当な機会に
(さばきをもとめることは、こんごのわたしのせいなるぎむだとわたしはこころえている」)
裁きを求めることは、今後の私の聖なる義務だと私は心得ている」
(というせいめいをはっぴょうし、このあとおめいへんじょうとばたーんのかたきうちのため、)
という声明を発表し、この後汚名返上とバターンの敵討ちのため、
(れんごうこくなんせいたいへいようぐん(えいごばん)(swpa)しれいかんとして、)
連合国南西太平洋軍(英語版)(SWPA)司令官として、
(おーすとらりあからのれんごうぐんのはんこうをしきしていくこととなった。)
オーストラリアからの連合軍の反攻を指揮していくこととなった。
(にほんほんどはつくうしゅうとさんごかいかいせん)
日本本土初空襲と珊瑚海海戦
(はいせんつづきのうえ、あめりかほんどまでがこうげきされ、るーずべるとはこくみんせんい)
敗戦続きのうえ、アメリカ本土までが攻撃され、ルーズベルトは国民戦意
(のていかをけねんしており、にほんほんどをこうげきしてせんいをあおることをかんがえて)
の低下を懸念しており、日本本土を攻撃して戦意を煽ることを考えて
(いた。るーすべるとのつよいいしもあってあめりかとうごうさんぼうほんぶは、)
いた。ルースベルトの強い意志もあってアメリカ統合参謀本部は、
(「こうぞくきょりのながいりくぐんこうくうぐんのばくげききをくうぼからはっかんさせ、にほんほんどを)
「航続距離の長い陸軍航空軍の爆撃機を空母から発艦させ、日本本土を
(ばくげきする」というさくせんをけっていし、かいぞうした「b-25」でとうきょうをばくげきして、)
爆撃する」という作戦を決定し、改造した「B-25」で東京を爆撃して、
(そのままちゅうごくのひこうじょうにちゃくりくするというけいかくをたてた。あめりかかいぐんの)
そのまま中国の飛行場に着陸するという計画を立てた。アメリカ海軍の
(なかには、せんじゅつてきなこうかがほとんどのぞめないさくせんできちょうなくうぼをひつよういじょうの)
なかには、戦術的な効果が殆ど望めない作戦で貴重な空母を必要以上の
(きけんにさらすことにはんたいいけんもねづよかったが、るーずべるとに)
危険に晒すことに反対意見も根強かったが、ルーズベルトに
(そんたくしたぐんじょうそうぶのつよいいしでさくせんはけっこうされた。1942ねん4がつ18にち、)
忖度した軍上層部の強い意志で作戦は決行された。1942年4月18日、
(とうきょうから700まいるのちてんまでせっきんしたくうぼほーねっと)
東京から700マイルの地点まで接近した空母ホーネット
(から、よていより7じかんはやい08:15にじみー・どーりっとるちゅうさひきいる)
から、予定より7時間早い08:15にジミー・ドーリットル中佐率いる
(16きのb-25がはっかんした。にほんぐんはしょうりつづきでかんぜんにゆだんしており、)
16機のB-25が発艦した。日本軍は勝利続きで完全に油断しており、
(あめりかかいぐんきどうぶたいににほんほんどきんかいへのせっきんをゆるしただけでなく、)
アメリカ海軍機動部隊に日本本土近海への接近を許しただけでなく、
(らいしゅうしたb-25をまともにげいげきすることすらできなかった。b-25は)
来襲したB-25をまともに迎撃することすらできなかった。B-25は
(とうきょうのほか、よこはま、よこすか、なごやをくうしゅうし、ちゅうごくほうめんにりだつしたが、)
東京のほか、横浜、横須賀、名古屋を空襲し、中国方面に離脱したが、
(16きぜんきがふじちゃくなどでうしなわれた。にほんがこのくうしゅうでうけたひがいは)
16機全機が不時着などで失われた。日本がこの空襲で受けた被害は
(げんていてきであったが、このえいきょうはおおきなものとなり、るーずべるとのねらい)
限定的であったが、この影響は大きなものとなり、ルーズベルトの狙い
(とおりあめりかこくみんのしきはおおいにたかまったが、いっぽうでにほんぐんは)
通りアメリカ国民の士気は大いに高まったが、一方で日本軍は
(ほんどぼうくうたいせいのきょうかにせまられたことと、れんごうかんたいしれいちょうかん)
本土防空体制の強化に迫られたことと、連合艦隊司令長官
(やまもといそろくたいしょうは、すでにきまっていたみっどうぇーとうこうりゃくさくせんの)
山本五十六大将は、既に決まっていたミッドウェー島攻略作戦の
(miさくせんけっこうにいをつよくしている。)
MI作戦決行に意を強くしている。
(5がつ7か、8かのさんごかいかいせんでは、にほんかいぐんのくうぼきどうぶたいと)
5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊と
(あめりかかいぐんのくうぼきどうぶたいが、れきしじょうはじめてこうくうぼかんのかんさいきどうし)
アメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士
(のみのせんとうをまじえた。このかいせんであめりかぐんはおおがたくうぼれきしんとんを)
のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを
(うしなったが、にほんぐんもこがたくうぼしょうほうをうしない、おおがたくうぼしょうかくもそんしょうした。)
失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。
(このけっか、にほんぐんはにゅーぎにあなんぶ、ぽーともれすびーへのかいろ)
この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路
(からのこうりゃくさくせんをちゅうし。りくろからのぽーともれすびーこうりゃくさくせんを)
からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を
(めざすが、おーうぇんすたんれーさんみゃくごえのさくせんはこんなんをきわめしっぱいする。)
目指すが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。
(にほんぐんはだいにだんさくせんとして、あめりかとおーすとらりあかんのしーれーんを)
日本軍は第二段作戦として、アメリカとオーストラリア間のシーレーンを
(しゃだんし、おーすとらりあをこりつさせる「べいごうしゃだんさくせん」(fsさくせん)を)
遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を
(こうそうした。5がつ31にちには、おーすとらりあのしどにーこうにていはくしていた)
構想した。5月31日には、オーストラリアのシドニー港に停泊していた
(れんごうこくかんたいにむけて、にほんかいぐんのとくしゅせんこうていによるしどにーこうこうげきが)
連合国艦隊に向けて、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が
(おこなわれた。い24とうさいていはこうないにざいはくしていたあめりかかいぐんのじゅうじゅんようかん)
行われた。伊24搭載艇は港内に在泊していたアメリカ海軍の重巡洋艦
(しかごをはっけんしぎょらいを2はつはっしゃした。2はつともはずれたとみえたが、がんぺきに)
シカゴを発見し魚雷を2発発射した。2発とも外れたと見えたが、岸壁に
(けいりゅうされていたおーすとらりあかいぐんのしゅくはくかんくったぶるのかんそこをつうかして)
係留されていたオーストラリア海軍の宿泊艦クッタブルの艦底を通過して
(がんぺきにあたってばくはつした。これによりくったぶるはちんぼつし19めいがせんし)
岸壁に当たって爆発した。これによりクッタブルは沈没し19名が戦死
(した。また、そのとなりにけいりゅうされていたおらんだかいぐんのせんすいかんkixも)
した。また、その隣に係留されていたオランダ海軍の潜水艦K IXも
(ばくはつのしょうげきでそんしょうした。なおこのときになんをのがれたあめりかかいぐんの)
爆発の衝撃で損傷した。なおこの時に難を逃れたアメリカ海軍の
(しかごは、1943ねんににほんぐんにげきちんされている。また、にほんかいぐんはこのころ)
シカゴは、1943年に日本軍に撃沈されている。また、日本海軍はこの頃
(ぺなんをきちとしたせんすいかんたいにていんどようのあふりかひがしかいがんえんがんから)
ペナンを基地とした潜水艦隊にてインド洋のアフリカ東海岸沿岸から
(おーすとらりあにしかいがんにてつうしょうはかいせんをおこない、)
オーストラリア西海岸にて通商破壊戦を行い、
(すうじゅうせきのげきちん、げきはにせいこうしている。)
数十隻の撃沈、撃破に成功している。
(いぎりすぐんは、てきたいするしんどくふらんす・ヴぃしーせいけんのしょくみんちである)
イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地である
(みなみあふりかえんがんのまだがすかるとうを、にほんかいぐんのきちになるきけんせいが)
南アフリカ沿岸のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性が
(あったため、みなみあふりかぐんのしえんをうけてせんりょうした(まだがすかるの)
あったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの
(たたかい)。これにたいこうするべくどいつかいぐんからのいらいをうけ、にほんぐんの)
戦い)。これに対抗するべくドイツ海軍からの依頼を受け、日本軍の
(せんすいかんはい30が1942ねん4がつ22にちに、い10ととくしゅせんこうてい(こうひょうてき)を)
潜水艦は伊30が1942年4月22日に、伊10と特殊潜航艇(甲標的)を
(とうさいしたい16、い18、い20が1942ねん4がつ30にちにぺなんをしゅつげきし、)
搭載した伊16、伊18、伊20が1942年4月30日にペナンを出撃し、
(みなみあふりかのだーばんこうのほか、ほっぽうのもんばさこう、だるえすさらーむこう、)
南アフリカのダーバン港の他、北方のモンバサ港、ダルエスサラーム港、
(そしてでぃえご・すあれすこうへのこうげきをけんとうした。)
そしてディエゴ・スアレス港への攻撃を検討した。