紫式部 源氏物語 葵 10 與謝野晶子訳
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問題文
(ろくじょうのみやすどころはそういうとりざたをきいてもふかいでならなかった。)
六条の御息所はそういう取り沙汰を聞いても不快でならなかった。
(ふじんはもうあぶないときいていたのに、どうしてこどもがあんざんできたのであろうと、)
夫人はもう危いと聞いていたのに、どうして子供が安産できたのであろうと、
(こんなことをおもって、じしんがしっしんしたようにしていたいくにちかのことを、)
こんなことを思って、自身が失神したようにしていた幾日かのことを、
(しずかにかんがえてみると、きたいふくなどにもいのりのそうがたくごまのかがしんでいた。)
静かに考えてみると、着た衣服などにも祈りの僧が焚く護摩の香が沁んでいた。
(ふしぎにおもって、かみをあらったり、きものをかえたりしても、やはりあらたまらない。)
不思議に思って、髪を洗ったり、着物を変えたりしても、やはり改まらない。
(みやすどころはせけんでいういきりょうのせつのひにんしがたいことをかなしんで、)
御息所は世間で言う生霊の説の否認しがたいことを悲しんで、
(ひとがどうひひょうするであろうかと、だれにはなしてみることでもないだけに)
人がどう批評するであろうかと、だれに話してみることでもないだけに
(こころひとつでくるしんでいた。いよいよじぶんのれんあいを)
心一つで苦しんでいた。いよいよ自分の恋愛を
(せいさんしてしまわないではならないと、それによってまたつよくおもうようになった。)
清算してしまわないではならないと、それによってまた強く思うようになった。
(すこしあんしんをえたげんじは、いきりょうをまざまざとめでみ、みやすどころのことばを)
少し安心を得た源氏は、生霊をまざまざと目で見、御息所の言葉を
(きいたときのことをおもいだしながらも、ながくたずねていかないこころぐるしさをかんじたり、)
聞いた時のことを思い出しながらも、長く訪ねて行かない心苦しさを感じたり、
(またこんごみやすどころにせっきんしてもあのみにくいきおくがこころにあるあいだは、いぜんのかんじょうで)
また今後御息所に接近してもあの醜い記憶が心にある間は、以前の感情で
(そのひとがみられるかということはじしんのこころながらもうたがわしくて、)
その人が見られるかということは自身の心ながらも疑わしくて、
(くもんをしたりしながら、みやすどころのたいめんをきずつけまいために)
苦悶をしたりしながら、御息所の体面を傷つけまいために
(てがみだけはかいておくった。さんぜんのおもかったようだいから、ゆだんのできないように)
手紙だけは書いて送った。産前の重かった容体から、油断のできないように
(りょうしんたちはいまもみて、しんぱいしているのがどうりなことにおもえて、)
両親たちは今も見て、心配しているのが道理なことに思えて、
(げんじはまだこいびとなどのいえをしのびでおとなうようなことをしないのである。)
源氏はまだ恋人などの家を微行で訪うようなことをしないのである。
(ふじんはまだすいじゃくがはなはだしくて、びょうきからはなれたとはみえなかったから、)
夫人はまだ衰弱がはなはだしくて、病気から離れたとは見えなかったから、
(めおとらしくどうしつでくらすことはなくて、げんじはちいさいながらもまばゆいほど)
夫婦らしく同室で暮らすことはなくて、源氏は小さいながらもまばゆいほど
(うつくしいわかぎみのあいにぼっとうしていた。ひじょうにだいじがっているのである。じかのむすめから)
美しい若君の愛に没頭していた。非常に大事がっているのである。自家の娘から
(げんじのこがうまれて、すべてのことがりそうてきになっていくと、)
源氏の子が生まれて、すべてのことが理想的になっていくと、
(だいじんはよろこんでいるのであるが、あおいふじんのかいふくがちちとしているのだけを)
大臣は喜んでいるのであるが、葵夫人の恢復が遅々としているのだけを
(きがかりにおもっていた。しかしあんなにじゅうたいでいたあとは)
気がかりに思っていた。しかしあんなに重体でいたあとは
(これをふつうとしなければならないとおもってもいるであろうから、)
これを普通としなければならないと思ってもいるであろうから、
(だいじんのこうふくかんはたいしてわりびきしたものではないのである。わかぎみのめつきの)
大臣の幸福感はたいして割引きしたものではないのである。若君の目つきの
(うつくしさなどがとうぐうとひじょうによくにているのをみても、なによりもこいしくおさない)
美しさなどが東宮と非常によく似ているのを見ても、何よりも恋しく幼い
(こうたいていをおおもいするげんじは、ごしょのそちらへあがらないでいることに)
皇太弟をお思いする源氏は、御所のそちらへ上がらないでいることに
(たえられなくなって、でかけようとした。)
堪えられなくなって、出かけようとした。
(「ごしょなどへあまりながくあがらないできがすみませんから、きょうわたくしははじめて)
「御所などへあまり長く上がらないで気が済みませんから、今日私ははじめて
(あなたからはなれていこうとするのですが、せめてちかいところにいって)
あなたから離れて行こうとするのですが、せめて近い所に行って
(はなしをしてからにしたい。あまりよそよそしすぎます。こんなのでは」)
話をしてからにしたい。あまりよそよそし過ぎます。こんなのでは」
(とげんじはふじんへとりつがせた。 「ほんとうにそうでございますよ。)
と源氏は夫人へ取り次がせた。 「ほんとうにそうでございますよ。
(ていさいをきにあそばすあなたさまがたのおあいだがらではないのでございますから。)
体裁を気にあそばすあなた様がたのお間柄ではないのでございますから。
(あなたさまがごすいじゃくしていらっしゃいましても、ものごしなどでおはなしになれば)
あなた様が御衰弱していらっしゃいましても、物越しなどでお話しになれば
(いかがでしょう」 こうにょうぼうがふじんにちゅうこくをして、)
いかがでしょう」 こう女房が夫人に忠告をして、
(びょうしょうのちかくへざをつくったので、げんじはびょうしつへはいっていってはなしをした。)
病床の近くへ座を作ったので、源氏は病室へはいって行って話をした。
(ふじんはときどきへんじもするがまだずいぶんようすがよわよわしい。それでも)
夫人は時々返辞もするがまだずいぶん様子が弱々しい。それでも
(ぜつぼうじょうたいになっていたころのことをおもうと、ゆめのようなこうふくにいると)
絶望状態になっていたころのことを思うと、夢のような幸福にいると
(げんじはおもわずにはいられないのである。ふあんにたえられなかったころのことを)
源氏は思わずにはいられないのである。不安に堪えられなかったころのことを
(はなしているうちに、あのこきゅうもたえたようにみえたひとが、にわかに)
話しているうちに、あの呼吸も絶えたように見えた人が、にわかに
(いろんなことをいいだしたこうけいがめにうかんできて、)
いろんなことを言い出した光景が目に浮かんできて、
(たまらずいやなきがするのでげんじははなしをうちきろうとした。)
たまらずいやな気がするので源氏は話を打ち切ろうとした。
(「まああまりながばなしはよしましょう。いろいろときいてほしいことも)
「まああまり長話はよしましょう。いろいろと聞いてほしいことも
(ありますがね。まだまだあなたはだるそうできのどくだから」)
ありますがね。まだまだあなたはだるそうで気の毒だから」
(こういったあとで、 「おゆをおあげするがいい」)
こう言ったあとで、 「お湯をお上げするがいい」
(とにょうぼうにめいじた。びょうさいのおっとらしいこんなきのつかいかたをするげんじに)
と女房に命じた。病妻の良人らしいこんな気のつかい方をする源氏に
(にょうぼうたちはどうじょうした。ひじょうなびじんであるふじんが、すいじゃくしきって、)
女房たちは同情した。非常な美人である夫人が、衰弱しきって、
(あるかないかのようになってねているのはいたいたしくかれんであった。)
あるかないかのようになって寝ているのは痛々しく可憐であった。
(すこしのみだれもなくはらはらとまくらにかかったかみのうつくしさはおとこのたましいをうばうだけの)
少しの乱れもなくはらはらと枕にかかった髪の美しさは男の魂を奪うだけの
(みりょくがあった。なぜじぶんはながいあいだこのひとをあきたらないかんじょうをもって)
魅力があった。なぜ自分は長い間この人を飽き足らない感情を持って
(みていたのであろうかと、ふしぎなほどながくじっとげんじはつまをみつめていた。)
見ていたのであろうかと、不思議なほど長くじっと源氏は妻を見つめていた。
(「いんのごしょなどへうかがって、はやくかえってきましょう。こんなふうにして)
「院の御所などへ伺って、早く帰って来ましょう。こんなふうにして
(しじゅうあうことができればうれしいでしょうが、みやさまがじっとついて)
始終逢うことができればうれしいでしょうが、宮様がじっと付いて
(いらっしゃるから、ぶしつけにならないかとおもってごえんりょしながら)
いらっしゃるから、ぶしつけにならないかと思って御遠慮しながら
(かげではんもんをしていたわたくしにもどうじょうができるでしょう。だからじぶんでも)
蔭で煩悶をしていた私にも同情ができるでしょう。だから自分でも
(はやくよくなろうとつとめるようにしてね、これまでのようにわたくしたちで)
早くよくなろうと努めるようにしてね、これまでのように私たちで
(いっしょにいられるようになってください。あまりおかあさまにあなたが)
いっしょにいられるようになってください。あまりお母様にあなたが
(あまえるものだから、あちらでもいつまでもこどものようにおあつかいになるのですよ」)
甘えるものだから、あちらでもいつまでも子供のようにお扱いになるのですよ」
(などといいおいてきれいにしょうぞくしたげんじのでかけるのを)
などと言い置いてきれいに装束した源氏の出かけるのを
(びょうしょうのふじんはへいぜいよりもねっしんにながめていた。)
病床の夫人は平生よりも熱心にながめていた。