紫式部 源氏物語 須磨 14 與謝野晶子訳

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(あきかぜがすまのさとをふくころになった。うみはすこしとおいのであるが、すまのせきも)

秋風が須磨の里を吹くころになった。海は少し遠いのであるが、須磨の関も

(こえるほどのあきのなみがたつとゆきひらがうたったなみのおとが、よるはことにたかく)

越えるほどの秋の波が立つと行平が歌った波の音が、夜はことに高く

(ひびいてきて、たえがたくさびしいものはたっきょのあきであった。いまにちかく)

響いてきて、堪えがたく寂しいものは謫居の秋であった。居間に近く

(とのいしているしょうすうのものもみなねむっていて、ひとりのげんじだけがさめて)

宿直している少数の者も皆眠っていて、一人の源氏だけがさめて

(ひとつやのしほうのかぜのおとをきいていると、すぐちかくにまでなみが)

一つ家の四方の風の音を聞いていると、すぐ近くにまで波が

(おしよせてくるようにおもわれた。おちるともないなみだにいつかまくらは)

押し寄せて来るように思われた。落ちるともない涙にいつか枕は

(ながされるほどになっている。きんをすこしばかりひいてみたが、)

流されるほどになっている。琴を少しばかり弾いてみたが、

(じしんながらもすごくきこえるので、ひきさして、 )

自身ながらもすごく聞こえるので、弾きさして、

(こいわびてなくねにまがううらなみはおもうかたよりかぜやふくらん )

恋ひわびて泣く音に紛ふ浦波は思ふ方より風や吹くらん

(とうたっていた。これみつたちはせいさんなこのうたごえにめをさましてから、)

と歌っていた。惟光たちは凄惨なこの歌声に目をさましてから、

(いつかおきあがってわけもなくすすりなきのこえをたてていた。そのひとたちのこころを)

いつか起き上がって訳もなくすすり泣きの声を立てていた。その人たちの心を

(げんじがおもいやるのもかなしかった。じぶんひとりのために、おやきょうだいもあいじんもあって)

源氏が思いやるのも悲しかった。自分一人のために、親兄弟も愛人もあって

(はなれがたいふるさとにわかれてひょうはくのひとにかれらはなっているのであるとおもうと、)

離れがたい故郷に別れて漂泊の人に彼らはなっているのであると思うと、

(じぶんのふかいものおもいにおちたりしていることは、そのうえかれらを)

自分の深い物思いに落ちたりしていることは、その上彼らを

(こころぼそがらせることであろうとげんじはおもって、ひるまはみなといっしょにじょうだんをいって)

心細がらせることであろうと源氏は思って、昼間は皆といっしょに戯談を言って

(りょしゅうをまぎらそうとしたり、いろいろのかみをつがせててならいをしたり、)

旅愁を紛らそうとしたり、いろいろの紙を継がせて手習いをしたり、

(めずらしいしなのあやなどにえをかいたりした。そのえをびょうぶにはらせてみると)

珍しい支那の綾などに絵を描いたりした。その絵を屏風に貼らせてみると

(ひじょうにおもしろかった。げんじはきょうにいたころ、ふうけいをかくのにひとのはなしたかいりくの)

非常におもしろかった。源氏は京にいたころ、風景を描くのに人の話した海陸の

(こうふうけいをそうぞうしてかいたが、しゃせいのできるこんにちになってかかれるえは)

好風景を想像して描いたが、写生のできる今日になって描かれる絵は

(いきいきとしたいのちがあってけっさくがおおかった。 「げんざいでのたいかだといわれる)

生き生きとした生命があって傑作が多かった。 「現在での大家だといわれる

など

(ちえだとか、つねのりとかいうれんちゅうをよびよせて、ここをみつがにかかせたい」)

千枝とか、常則とかいう連中を呼び寄せて、ここを密画に描かせたい」

(ともひとびとはいっていた。うつくしいげんじとくらしていることをむじょうのこうふくにおもって、)

とも人々は言っていた。美しい源氏と暮らしていることを無上の幸福に思って、

(し、ごにんはいつもはなれずにつきそっていた。にわのあきくさのはなの)

四、五人はいつも離れずに付き添っていた。庭の秋草の花の

(いろいろにさきみだれたゆうがたに、うみのみえるろうのほうへでてながめているげんじの)

いろいろに咲き乱れた夕方に、海の見える廊のほうへ出てながめている源氏の

(うつくしさは、あたりのものがみなあらがきのえのようなさびしいものであるだけ)

美しさは、あたりの物が皆素描の画のような寂しい物であるだけ

(いっそうめにたって、このせかいのものとはおもえないのである。やわらかいしろのあやに)

いっそう目に立って、この世界のものとは思えないのである。柔らかい白の綾に

(うすむらさきをかさねて、あいがかったのうしを、おびもゆるくおおようにしめたすがたでたち)

薄紫を重ねて、藍がかった直衣を、帯もゆるくおおように締めた姿で立ち

(「しゃかむにぶつでし」となのってきょうもんをそらよみしているこえも)

「釈迦牟尼仏弟子」と名のって経文を暗誦みしている声も

(きわめてゆうがにきこえた。いくつかのふねがうたごえをたてながらおきのほうを)

きわめて優雅に聞こえた。幾つかの船が唄声を立てながら沖のほうを

(こぎまわっていた。かたちはほのかでとりがういているほどにしかみえぬふねで)

漕ぎまわっていた。形はほのかで鳥が浮いているほどにしか見えぬ船で

(こころぼそいきがするのであった。うえをとおるいちれつのかりのこえがかじのおとによくにていた。)

心細い気がするのであった。上を通る一列の雁の声が楫の音によく似ていた。

(なみだをはらうげんじのてのいろが、かけたくろきのじゅずにひきたってみえるうつくしさは、)

涙を払う源氏の手の色が、掛けた黒木の数珠に引き立って見える美しさは、

(ふるさとのおんなこいしくなっているせいねんたちのこころをじゅうぶんにかんわさせるちからがあった。 )

故郷の女恋しくなっている青年たちの心を十分に緩和させる力があった。

(はつかりはこいしきひとのつらなれやたびのそらとぶこえのかなしき )

初雁は恋しき人のつらなれや旅の空飛ぶ声の悲しき

(とげんじがいう。よしきよ、 )

と源氏が言う。良清、

(かきつらねむかしのことぞおもおゆるかりはそのよのともならねども )

かきつらね昔のことぞ思ほゆる雁はそのよの友ならねども

(みんぶたゆうこれみつ、 )

民部大輔惟光、

(こころからとこよをすててなくかりをくものよそにもおもいけるかな )

心から常世を捨てて鳴く雁を雲のよそにも思ひけるかな

(ぜんうこんのじょうが、 )

前右近丞が、

(「とこよいでてたびのそらなるかりがねもれつにおくれぬほどぞなぐさむ )

「常世出でて旅の空なるかりがねも列に後れぬほどぞ慰む

(なかまがなかったらどんなだろうとおもいます」 といった。)

仲間がなかったらどんなだろうと思います」 と言った。

(ひたちのすけになったおやのにんちへもいかずにかれはこちらへきているのである。)

常陸介になった親の任地へも行かずに彼はこちらへ来ているのである。

(はんもんはしているであろうが、いつもはなやかなほこりをみせて、)

煩悶はしているであろうが、いつもはなやかな誇りを見せて、

(くったくなくふるまうせいねんである。あかるいつきがでて、きょうがちゅうしゅうのめいげつであることに)

屈託なくふるまう青年である。明るい月が出て、今日が中秋の名月であることに

(げんじはきがついた。きゅうていのおんがくがおもいやられて、どこでもこのつきを)

源氏は気がついた。宮廷の音楽が思いやられて、どこでもこの月を

(ながめているであろうとおもうと、つきのかおばかりがみられるのであった。)

ながめているであろうと思うと、月の顔ばかりが見られるのであった。

(「にせんりがいこじんのこころ」とげんじはぎんじた。せいねんたちはれいのようになみだをながして)

「二千里外故人心」と源氏は吟じた。青年たちは例のように涙を流して

(きいているのである。 このつきをにゅうどうのみやが「きりやへだつる」とおいいになった)

聞いているのである。 この月を入道の宮が「霧や隔つる」とお言いになった

(きょねんのあきがこいしく、それからそれへといろいろなばあいのはつこいびとへのおもいでに)

去年の秋が恋しく、それからそれへといろいろな場合の初恋人への思い出に

(こころがうごいて、しまいにはこえをたててげんじはないた。 「もうよほどふけました」)

心が動いて、しまいには声を立てて源氏は泣いた。 「もうよほど更けました」

(というものがあってもげんじはしんしつへはいろうとしない。 )

と言う者があっても源氏は寝室へはいろうとしない。

(みるほどぞしばしなぐさむめぐりあわんつきのみやこははるかなれども )

見るほどぞしばし慰むめぐり合はん月の都ははるかなれども

(そのきょねんのおなじよるに、なつかしいごちょうしでむかしのはなしをいろいろあそばすふうが)

その去年の同じ夜に、なつかしい御調子で昔の話をいろいろあそばすふうが

(いんによくにておいでになったみかどもげんじはこいしくおもいだしていた。)

院によく似ておいでになった帝も源氏は恋しく思い出していた。

(「おんしのぎょいいまここにあり」とくちずさみながらげんじはいまへはいった。)

「恩賜御衣今在此」と口ずさみながら源氏は居間へはいった。

(おんしのぎょいもそこにあるのである。 )

恩賜の御衣もそこにあるのである。

(うしとのみひとえにものはおもおえでひだりみぎにもぬるるそでかな )

憂しとのみひとへに物は思ほえで左右にも濡るる袖かな

(ともうたわれた。)

とも歌われた。

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