猪の味 北大路魯山人 ①
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問題文
(いのししのうまさをはじめてはっきりあじわいしったのは、)
猪の美味さを初めてはっきり味わい知ったのは、
(わたしがとおぐらいのときのことであった。)
私が十ぐらいの時のことであった。
(とうじ、わたしはきょうとにすんでいたが、)
当時、私は京都に住んでいたが、
(きょうとほりかわのなかだちうりにだいだいけものをあきなっているしにせがあって、)
京都堀川の中立売に代々野獣を商っている老舗があって、
(わたしはそのみせへよくいのししのにくをかいにやらされた。)
私はその店へよく猪の肉を買いにやらされた。
(わたしのいえはびんぼうであったから、いのししのにくをかうといっても、)
私の家は貧乏であったから、猪の肉を買うと言っても、
(ごくわずかなかいかたをしていた。)
ごくわずかな買い方をしていた。
(まあごせんぐらいもってかいにいくのがつねであった。)
まあ五銭ぐらい持って買いに行くのが常であった。
(もっとも、とうじはぎゅうにくならばかのこ(とうきょうでいうしもふりろーすにあたる)が)
もっとも、当時は牛肉ならば鹿の子(東京でいう霜降りロースに当る)が
(さんせんくらいでかえたじだいであるから、)
三銭位で買えた時代であるから、
(ごせんだすというのは、いのししのにくだけにふんぱつしたわけなのである。)
五銭出すというのは、猪の肉だけに奮発したわけなのである。
(だが、それにしてもいのししのにくをわずかごせんばかりかいにいくというのは、)
だが、それにしても猪の肉をわずか五銭ばかり買いに行くというのは、
(ごうせいなはなしではない。ただにくをくいたいというだけなら、)
豪勢な話ではない。ただ肉を食いたいというだけなら、
(そのかねでぎゅうにくがもっとかえるのだから、そうしたらよさそうなものだが、)
その金で牛肉がもっと買えるのだから、そうしたらよさそうなものだが、
(ぎゅうにくのときにはさんせんかい、ごせんもったときには)
牛肉の時には三銭買い、五銭持った時には
(いのししをかいにやらされたところをみると、)
猪を買いにやらされたところをみると、
(わたしのようふぼも、どうやらびしょくをあいしたほうだったのだろうと、)
私の養父母も、どうやら美食を愛した方だったのだろうと、
(いまにしておもうのである。)
今にして思うのである。
(にしもひがしもわからぬこどもじだいから、くいものだけには)
西も東も分らぬ子ども時代から、食いものだけには
(いじょうなかんしんをもっていたわたしは、このつかいとなると、)
異常な関心を持っていた私は、この使いとなると、
(ひじょうにこころがいさみたったのをおぼえている。)
非常に心が勇み立ったのを憶えている。
(ぴかぴかひかるごせんだまをにぎってにくやのみせさきへたち、)
ピカピカ光る五銭玉を握って肉屋の店先へ立ち、
(いのししのにくをきってくれるおやじのてもとをじっとみつめながら、)
猪の肉を切ってくれる親爺の手許をじっと見つめながら、
(きょうはどこのにくをくれるだろう、)
今日はどこの肉をくれるだろう、
(ももったまのところかな、それともはらのほうかな。)
股ったまのところかな、それとも腹のほうかな。
(ごせんばかりかうのだから、どうせじょうとうのところはくれまいなどと、)
五銭ばかり買うのだから、どうせ上等のところはくれまいなどと、
(ひがみごころまでおこしながら、いろいろくうそうしていたことを、)
ひがみ心まで起こしながら、いろいろ空想していたことを、
(いまでもきのうのことのようにおぼえている。)
今でもきのうのことのように覚えている。
(そうしたあるひのことだった。いつものようにみせさきにたってみていると、)
そうしたある日のことだった。いつものように店先に立って見ていると、
(おやじがにすんかくぐらいのぼうじょうをなしたにくをとりだしてきて、)
親爺が二寸角ぐらいの棒状をなした肉を取り出して来て、
(それをいちぶぐらいのあつさにきりだした。しかくいいとまきがたににくがきられていく。)
それを一分ぐらいの厚さに切り出した。四角い糸巻型に肉が切られて行く。
(そのしかくのうちはんぶんぐらい、すなわち、)
その四角のうち半分ぐらい、すなわち、
(じょうぶいっすんぐらいがまっしろなあぶらみで、じつにみごとなにくであった。)
上部一寸ぐらいが真白な脂身で、実にみごとな肉であった。
(とおぐらいのじぶんであったが、みたときにこれはうまいにちがいないとこころがおどった。)
十ぐらいの時分であったが、見た時にこれは美味いに違いないと心が躍った。
(あぶらみがあつく、しっかりしている。)
脂身が厚く、しっかりしている。
(かたのにくか、もものにくか、そのときはわからなかったが、)
肩の肉か、股の肉か、その時は分らなかったが、
(いまかんがえてみれば、おそらくかたのにく、)
今考えてみれば、おそらく肩の肉、
(すなわち、ぶたにくでいうかたろーすであったとおもう。)
すなわち、豚肉で言う肩ロースであったと思う。
(そのかわり、おやじはそれをじゅっきれぐらいしかくれなかった。)
その代り、親爺はそれを十切れぐらいしかくれなかった。
(こどもごころにもひじょうにきちょうなもののようにそれをかかえて、)
子ども心にも非常に貴重なもののようにそれを抱えて、
(たのしみにしてかえってきた。)
楽しみにして帰って来た。
(うちのものも、そのにくのうつくしさをみてひじょうによろこんでいた。)
うちの者も、その肉の美しさを見て非常によろこんでいた。
(さっそくにてくってみると、はたせるかな、うまい。)
早速煮て食ってみると、果せるかな、美味い。
(にくのうつくしさをみたときのきもちのうごきもてつだったことだろうとおもうが、)
肉の美しさを見た時の気持の動きも手伝ったことだろうと思うが、
(くいどうらくしちじゅうねんをかいこして、あとにもさきにも、)
食道楽七十年を回顧して、後にも先にも、
(いのししのにくをこれほどうまいとおもってくったことはない。)
猪の肉をこれほど美味いと思って食ったことはない。
(わたしはいまだにそれをわすれない。)
私は未だにそれを忘れない。
(わたしがしょくもつのうまさということをはじめてじかくしたのは、じつにこのときであった。)
私が食物の美味さということを初めて自覚したのは、実にこの時であった。
(このにくやは、もちろんそのご、だいがかわっているが、いまもはんじょうしている。)
この肉屋は、もちろんその後、代が変っているが、今も繁昌している。
(おもいおこせば、また、こんなはなしもある。)
想い起こせば、また、こんな話もある。
(ここにはいのししのにくだけでなく、くまやしかのにくもあった。)
ここには猪の肉だけでなく、熊や鹿の肉もあった。
(とうじはまだぶたをあまりくわないじだいで、)
当時はまだ豚をあまり食わない時代で、
(さんじょうてらまちのみしまというぎゅうにくやまでいかなければぶたはなかった。)
三条寺町の三島という牛肉屋まで行かなければ豚はなかった。
(ぶたがなかったわけは、きたないというきもちがまだいっぱんにあったからであろう。)
豚がなかったわけは、キタナイという気持がまだ一般にあったからであろう。
(もうひとつ、ついでにのべておけば、)
もうひとつ、ついでに述べておけば、
(おもしろいことに、むかしはぶたのにくでもきょうとのほうでは、)
面白いことに、昔は豚の肉でも京都の方では、
(あかいほうがやすく、しろいあぶらみがたかかった。)
赤いほうが安く、白い脂身が高かった。
(わたしなどもあぶらみがうまいとおもっていた。)
私なども脂身が美味いと思っていた。
(ところがとうきょうへきてみると、はんたいにあかみがたかく、あぶらみがやすい。)
ところが東京へ来てみると、反対に赤身が高く、脂身が安い。
(「とうきょうはうまいところがやすいのだね」などといって、)
「東京は美味いところが安いのだね」などと言って、
(あぶらみをかってくったことをおぼえている。)
脂身を買って食ったことを憶えている。
(だが、これもきょうになってみれば、あぶらみばかりでもこまる。)
だが、これも今日になってみれば、脂身ばかりでも困る。
(これはぶたにくにたいするわたしのしこうのへんかもあるが、)
これは豚肉に対する私の嗜好の変化もあるが、
(しいくほうやえさがかわってきて、ぶたにくそのものがうまくなってきたせいかもしれない。)
飼育法や餌が変って来て、豚肉そのものが美味くなって来たせいかも知れない。
(それはともかく、とうじはぶたよりもむしろさるをくっていた。)
それはともかく、当時は豚よりもむしろ猿を食っていた。
(わたしなども、ちょいちょいくったもので、)
私なども、ちょいちょい食ったもので、
(そのにくはちょうどかつおのみのようにすきとおったきれいなにくであった。)
その肉はちょうどかつおの身のように透き通ったきれいな肉であった。
(かんじからいえば、うさぎのにくににているが、)
感じから言えば、兎の肉に似ているが、
(とうじのいんしょうでは、これもあぶらがなくて、そううまいものではなかった。)
当時の印象では、これも脂がなくて、そう美味いものではなかった。
(しかし、うさぎのにくよりはうまかった。)
しかし、兎の肉よりは美味かった。
(そのご(わたしのじゅうに、さんさいのころ)いのししのにくでうまかったといんしょうにのこっているのは、)
その後(私の十二、三歳の頃)猪の肉で美味かったと印象に残っているのは、
(まえのれいとはまったくはんたいに、がいけんがやわらかく、くちゃくちゃしたにくだった。)
前の例とは全く反対に、外見がやわらかく、くちゃくちゃした肉だった。
(これはほりかわしじょうのにくやがもってきたものであったが、)
これは堀川四条の肉屋が持って来たものであったが、
(みためがいかにもみすぼらしい。だがくってみるといがいにうまかった。)
見た目がいかにも見すぼらしい。だが食ってみると意外に美味かった。
(どのぶぶんかはっきりしなかったので、そのにくやにきいてみたら、)
どの部分かはっきりしなかったので、その肉屋に聞いてみたら、
(「もうしあげぬほうがいいでしょう」とわらっていた。)
「申し上げぬほうがいいでしょう」と笑っていた。
(なおもといただすと、「これはこうもんのまわりのにくです」ということであった。)
なおも問いただすと、「これは肛門の周りの肉です」ということであった。
(みてくれはわるいが、そのあじはすばらしくうまかった。)
見てくれは悪いが、その味はすばらしく美味かった。
(おもうに、もものつけねからかほうにかけてのうすいやわらかいにくで、)
思うに、股の付け根から下方にかけての薄いやわらかい肉で、
(さかなのひれしたにあたるあじをもっていたのだろう。)
魚の鰭下にあたる味を持っていたのだろう。
(わたしはうまいとなると、てっていてきにくわねばきのすまぬしょうぶんで、)
私は美味いとなると、徹底的に食わねば気の済まぬ性分で、
(いのししにかぎらず、そこいらをあるいていても、)
猪にかぎらず、そこいらを歩いていても、
(なにかうまいものがめにとまると、まずたちどまってこれをけんぶんし、)
なにか美味いものが目に止まると、まず立ち止まってこれを検分し、
(うまそうだなとかんじだしたら、どうしてもくってみたくなる。)
美味そうだなと感じ出したら、どうしても食ってみたくなる。
(これでときどきうまいものをみつけだすが、またしっぱいすることもある。)
これで時々美味いものを見つけ出すが、また失敗することもある。
(かつてごうしゅうながはまへとりをくいにいったとき、とりやのまえにすばらしくおおきな、)
かつて江州長浜へ鳥を食いに行った時、鳥屋の前にすばらしく大きな、
(まるでうしみたいないのししがぶらさがっていた。)
まるで牛みたいな猪がぶら下がっていた。
(みるからにりっぱでうまそうにおもわれた。)
見るからに立派で美味そうに思われた。
(もののおおきさ、これにはよくしろうとがひっかかるのであるが、むりはない。)
ものの大きさ、これにはよく素人がひっかかるのであるが、無理はない。
(みごとにおおきないのししにみせられて、いかにもうまそうにおもってしまったのである。)
みごとに大きな猪に魅せられて、いかにも美味そうに思ってしまったのである。
(ついにそのいのししをかうことにした。)
遂にその猪を買うことにした。
(くってみると、ごついのなんの、にくがあらっぽくてこりこりしている。)
食ってみると、ゴツイのなんの、肉があらっぽくてコリコリしている。
(おおあじで、まずい。だいしっぱいであった。)
大味で、不味い。大失敗であった。
(ただし、あぶらみはすこぶるうまかった。)
ただし、脂肉はすこぶる美味かった。
(これにこりて、それいらい、おおきなものにはてをださぬことにしている。)
これに懲りて、それ以来、大きなものには手を出さぬことにしている。