魯迅 故郷その8(最終話)

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(わたしはせんそうにちかづいてそとのぼんやりしたけしきをながめていると、)

わたしは船窓に近づいて外のぼんやりした景色を眺めていると、

(たちまちこうじがしつもんをはっした。)

たちまち宏兒が質問を発した。

(「おじさん、わたしどもはいつここへかえってこれるんでしょうね」)

「叔父さん、わたしどもはいつここへ帰って来れるんでしょうね」

(「かえる?ははは。おまえはむこうにつきもしないのに)

「帰る?ハハハ。お前は向こうに着きもしないのに

(もうかえることをかんがえているのか」)

もう帰ることを考えているのか」

(「あのすいせいがね、じぶんのうちへあそびにきておくれといっているんですよ」)

「あの水生がね、自分のウチへ遊びに来ておくれと言っているんですよ」

(こうじはくろめがちのめをみはってうっとりとそとをながめている。)

宏兒は黒目勝ちの眼をみはってうっとりと外を眺めている。

(わたしどもはうすらねむくなってきた。)

わたしどもはうすら眠くなって来た。

(そこでまたじゅうどのはなしをもちだした。はははかたった。)

そこでまた閏土の話を持出した。母は語った。

(「あのとうふせいしはうちでにづくりをはじめてからかならずまいにちやってきたんだよ。)

「あの豆腐西施はウチで荷造りを始めてから必ず毎日やって来たんだよ。

(きのうははいだまりのなかからさらこばちをじゅういくまいもひろいだし、)

きのうは灰溜の中から皿小鉢を十幾枚も拾い出し、

(いいあらそいのあげく、これはきっとじゅうどがうめておいたにちがいない、)

言い争いの挙句、これはきっと閏土が埋めておいたに違いない、

(かれははいをはこぶときいっしょにさらこばちをもちさるつもりだったんだろうなどといって、)

彼は灰を運ぶ時一緒に皿小鉢を持ち去る積りだったんだろうなどと言って、

(さらこばちをみつけたことをひじょうにてがらにして)

皿小鉢を見つけた事を非常に手柄にして

(「いぬぢらし」をつかんでまるでとぶようにかけだしていったが、)

『犬ぢらし』を掴んでまるで飛ぶように駆け出して行ったが、

(あのてんそくのあしでよくまああんなにはやくあるけたものだね」)

あの纏足の足でよくまああんなに早く歩けたものだね」

(いぬぢらしとはわたしどものむらのようけいのどうぐで、)

犬ぢらしとはわたしどもの村の養鶏の道具で、

(きばんのうえにもくさくをはめ、なかにはえさをいれておく。)

木盤の上に木柵を嵌め、中には餌を入れておく。

(にわとりはくちばしがながいからさくをとおしてついばむことができる。)

鶏は嘴が長いから柵をとおして啄ばむことが出来る。

(いぬはさくにはながつかえてくうことができない。)

犬は柵に鼻がつかえて食うことが出来ない。

など

(ゆえにいぬじらしという。)

故に犬じらしという。

(だんだんこきょうのさんすいがとおざかり、)

だんだん故郷の山水が遠ざかり、

(いちじはっきりしたしょうねんじだいのきおくがまたぼんやりしてきた。)

一時ハッキリした少年時代の記憶がまたぼんやりして来た。

(わたしはいまのこきょうにたいしてなにのみれんものこらないが、)

わたしは今の故郷に対して何の未練も残らないが、

(あのうつくしいきおくがうすらぐことがなによりもかなしかった。)

あの美しい記憶が薄らぐことが何よりも悲しかった。

(ははもこうじもねむってしまった。)

母も宏兒も睡ってしまった。

(わたしはよこになってせんていのせせらぎをきき、)

わたしは横になって船底のせせらぎを聴き、

(じぶんのみちをはしっていることをしった。)

自分の道を走っていることを知った。

(わたしはついにじゅうどとかくぜつしてこのいちまできてしまった。)

わたしは遂に閏土と隔絶してこの位置まで来てしまった。

(けれど、わたしのこうはいはやはりいちみゃくのきをかよわしているではないか。)

けれど、わたしの後輩はやはり一脈の気を通わしているではないか。

(こうじはすいせいをしねんしているではないか。)

宏兒は水生を思念しているではないか。

(わたしはかれらのあいだにふたたびかくまくができることをのぞまない。)

わたしは彼等の間に再び隔膜が出来ることを望まない。

(しかしながらかれらはいちみゃくのきをもとむるために、)

しかしながら彼等は一脈の気を求むるために、

(すべてがわたしのようにしんくてんてんしてせいかつすることをのぞまない。)

凡てがわたしのように辛苦展転して生活することを望まない。

(またかれらのすべてがじゅうどのようにしんくまひしてせいかつすることをのぞまない。)

また彼等の凡てが閏土のように辛苦麻痺して生活することを望まない。

(またすべてがべつじんのようにしんくほうらつしてせいかつすることをのぞまない。)

また凡てが別人のように辛苦放埒して生活することを望まない。

(かれらはわたしどものまだけいけんせざるあたらしきせいかつをしてこそしかるべきだ。)

彼等はわたしどものまだ経験せざる新しき生活をしてこそ然かるべきだ。

(わたしはそうおもうとたちまちはずかしくなった。)

わたしはそう思うとたちまち恥ずかしくなった。

(じゅうどがこうろとしょくだいがいるといったとき、わたしはないしんかれをわらっていた。)

閏土が香炉と燭台が要ると言った時、わたしは内心彼を笑っていた。

(かれはどうしてもぐうぞうすうはいで、いかなるときにもそれをわすれさることができないと。)

彼はどうしても偶像崇拝で、いかなる時にもそれを忘れ去ることが出来ないと。

(ところがげんざいわたしのいわゆるきぼうはわたしのてせいのぐうぞうではなかろうか。)

ところが現在わたしのいわゆる希望はわたしの手製の偶像ではなかろうか。

(ただかれのきぼうはとおくのほうでぼんやりしているだけのそういだ。)

ただ彼の希望は遠くの方でぼんやりしているだけの相違だ。

(ゆめうつつのうちにめのまえにのびろいうみべのみどりのすなぢがてんかいしてきた。)

夢うつつのうちに眼の前に野広い海辺の緑の沙地が展開して来た。

(うえにははなだいろのおおぞらにかかるまんまるのつきがこがねいろであった。)

上には深藍色の大空に掛るまんまるの月が黄金色であった。

(きぼうはほんらいゆうというものでもなく、むというものでもない。)

希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。

(これこそちじょうのみちのように、はじめからみちがあるのではないが、)

これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、

(あるくひとがおおくなるとはじめてみちができる。)

歩く人が多くなると初めて道が出来る。

((せんきゅうひゃくにじゅういちねんいちがつ))

(一九二一年一月)

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