人間失格【太宰治】21
第二の手記14です
本所の大工さん~ひっかかりを生じたのです。まで
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問題文
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(ほんじょのだいくさんのにかいをそのひとがかりていましたじぶんはそのにかいで)
本所の大工さんの二階を、そのひとが借りていました。じぶんは、その二階で、
(ひごろのじぶんのいんうつなこころをすこしもかくさずひどいしつうにおそわれてでもいるように)
日頃の自分の陰鬱な心を少しもかくさず、ひどい歯痛に襲われてでもいるように
(かたてでほおをおさえながらおちゃをのみましたそうしてじぶんのそんなしたいが)
片手で頬をおさえながら、お茶を飲みました。そうして、自分のそんな姿態が、
(かえってそのひとにはきにいったようでしたそのひとも)
かえって、そのひとには、気にいったようでした。そのひとも、
(みのまわりにつめたいこがらしがふいておちばだけがまいくるい)
身のまわりに冷たい木枯らしが吹いて、落葉だけが舞い狂い、
(かんぜんにこりつしているかんじのおんなでした)
完全に孤立している感じの女でした。
(いっしょにやすみながらそのひとはじぶんよりふたつとしうえであることこきょうはひろしま)
一緒にやすみながらそのひとは、自分より二つ年上であること。故郷は広島、
(あたしにはしゅじんがあるのよひろしまでとこやさんをしていたのさくねんのはる)
あたしには主人があるのよ、広島で床屋さんをしていたの、昨年の春、
(いっしょにとうきょうへいえでしてにげてきたのだけれどもしゅじんはとうきょうで)
一緒に東京へ家出して逃げて来たのだけれども、主人は、東京で、
(まともなしごとをせずそのうちにさぎざいにとわれけいむしょにいるのよ)
まともな仕事をせずそのうちに詐欺罪に問われ、刑務所にいるのよ、
(あたしはまいにちなにやらかやらさしいれしにけいむしょへかよっていたのだけれども)
あたしは毎日、何やらかやら差し入れしに、刑務所へかよっていたのだけれども
(あすからやめますなどとものがたるのでしたがじぶんはどういうものか)
あすから、やめます、などと物語るのでしたが、自分は、どういうものか、
(おんなのみのうえばなしというものにはすこしもきょうみをもてないたちで)
女の身の上噺というものには、少しも興味を持てないたちで、
(それはおんなのかたりかたのへたなせいかつまり)
それは女の語り方の下手なせいか、つまり、
(はなしのじゅうてんのおきかたをまちがっているせいなのかとにかくじぶんには)
話の重点の置き方を間違っているせいなのか、とにかく、自分には、
(つねにばじとうふうなのでありました)
つねに、馬耳東風なのでありました。
(わびしい)
侘びしい。
(じぶんにはおんなのせんまんげんのみのうえばなしよりもそのひとことのつぶやきのほうに)
自分には、女の千万言の身の上噺よりも、その一言の呟きのほうに、
(きょうかんをそそられるにちがいないときたいしていてもこのよのなかのおんなから)
共感をそそられるに違いないと期待していても、この世の中の女から、
(ついにいちどもじぶんはそのことばをきいたことがないのを)
ついにいちども自分は、その言葉を聞いた事がないのを、
など
(きかいともふしぎともかんじておりますけれどもそのひとは)
奇怪とも不思議とも感じております。けれども、そのひとは、
(ことばでわびしいとはいいませんでしたがむごんのひどいわびしさを)
言葉で「侘びしい」とは言いませんでしたが、無言のひどい侘びしさを、
(からだのがいかくにいっすんくらいのはばのきりゅうみたいにもっていて)
からだの外郭に、一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、
(そのひとによりそうとこちらのからだもそのきりゅうにつつまれ)
そのひとに寄り添うと、こちらのからだもその気流に包まれ、
(じぶんのもっているたしょうとげとげしたいんうつのきりゅうとほどよくとけあい)
自分の持っている多少トゲトゲした陰鬱の気流と程よく溶け合い、
(みなそこのいわにおちつくかれはのようにわがみはきょうふからもふあんからも)
「水底の岩に落ち附く枯葉」のように、わが身は、恐怖からも不安からも、
(はなれることができるのでした)
離れる事が出来るのでした。
(あのはくちのいんばいふたちのふところのなかであんしんしてぐっすりねむるおもいとは)
あの白痴の淫売婦たちのふところの中で、安心してぐっすり眠る思いとは、
(またまったくことなってだいいちあのぷろすてちゅうとたちはようきでした)
また、全く異って、(だいいち、あのプロステチュウトたちは、陽気でした)
(そのさぎざいのはんにんのつまとすごしたひとよはじぶんにとってこうふくな)
その詐欺罪の犯人の妻と過ごした一夜は、自分にとって、幸福な
(こんなだいそれたことばをなんのちゅうちょもなくこうていしてしようすることは)
(こんな大それた言葉を、何の躊躇もなく、肯定して使用する事は、
(じぶんのこのぜんしゅきにおいてふたたびないつもりですかいほうせられたよるでした)
自分のこの全手記に於いて、再び無いつもりです)解放せられた夜でした。
(しかしただひとよでしたあさめがさめてはねおきじぶんはもとのけいはくな)
しかし、ただ一夜でした。朝、眼が覚めて、はね起き、自分はもとの軽薄な、
(よそおえるおどけものになっていましたよわむしはこうふくをさえおそれるものです)
装えるお道化者になっていました。弱虫は幸福をさえおそれるものです。
(わたでけがをするんですこうふくにきずつけられることもあるんです)
綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられることもあるんです。
(きずつけられないうちにはやくこのままわかれたいとあせり)
傷つけられないうちに、早く、このまま、わかれたいとあせり、
(れいのおどけのえんまくをはりめぐらすのでした)
れいのお道化の煙幕を張りめぐらすのでした。
(かねのきれめがえんのきれめってのはねあれはねかいしゃくがぎゃくなんだ)
「金の切れめが縁の切れめ、ってのはね、あれはね、解釈が逆なんだ。
(かねがなくなるとおんなにふられるっていみじゃあないんだおとこにかねがなくなると)
金が無くなると女にふられるって意味、じゃあ無いんだ。男に金が無くなると、
(おとこはいきしょうちんしてだめになりわらうこえにもちからがなくそうして)
男は、意気銷沈して、ダメになり、笑う声にも力が無く、そうして、
(みょうにひがんだりなんかしてねついにはやぶれかぶれになり)
妙にひがんだりなんかしてね、ついには破れかぶれになり、
(おとこのほうからおんなをふる)
男のほうから女を振る、
(はんきょうらんになってふってふってふりぬくといういみなんだね)
半狂乱になって振って振って振り抜くという意味なんだね、
(かなざわだいじりんというほんによればねかわいそうにぼくにもそのきもちわかるがね)
金沢大辞林という本に依ればね、可哀そうに。僕にも、その気持わかるがね」
(たしかそんなふうのばかげたことをいって)
たしか、そんなふうの馬鹿げた事を言って、
(つねこをふきださせたきおくがありますながいはむようおそれありと)
ツネ子を噴き出させた記憶があります。長居は無用、おそれありと、
(かおもあらわずにすばやくひきあげたのですがそのときのじぶんの)
顔も洗わずに素早く引き上げたのですが、その時の自分の、
(かねのきれめがえんのきれめというでたらめのほうげんがのちにいたって)
「金の切れめが縁の切れめ」という出鱈目の放言が、のちに到って
(いがいのひっかかりをしょうじたのです)
意外のひっかかりを生じたのです。