陸軍中野学校
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問題文
(りくぐんなかのがっこう(りくぐんなかのがっこう)は、だいにっぽんていこくりくぐんの)
陸軍中野学校 (りくぐんなかのがっこう)は、大日本帝国陸軍の
(じょうほうきかんのひとつで、)
情報機関の一つで、
(ちょうほうやぼうちょう、せんでんなどひみつせんにかんするきょういくやくんれんを)
諜報や防諜、宣伝など秘密戦に関する教育や訓練を
(もくてきとしたぐんがっこうである。)
目的とした軍学校である。
(かつてのしょざいちはとうきょうとなかのくなかの4ちょうめふきんで、)
かつての所在地は東京都中野区中野4丁目付近で、
(こうめいのなかのはちめいにゆらいする。ぎそうようのつうしょうごうはとうぶだい33ぶたい。)
校名の中野は地名に由来する。偽装用の通称号は東部第33部隊。
(がいよう)
概要
(えんかく)
沿革
(そうせつのうごきは1937ねん(しょうわ12ねん)、せんそうけいたいのかそくどてきしんかでぼうりゃくの)
創設の動きは1937年(昭和12年)、戦争形態の加速度的進化で謀略の
(じゅうようせいがまし、にほんがせかいてきなちょうりゅうからのていたいをよぎなくされることを)
重要性が増し、日本が世界的な潮流からの停滞を余儀なくされることを
(おそれたいわくろひでおちゅうさが、さんぼうほんぶに「ちょうほうぼうりゃくのかがくか」)
怖れた岩畔豪雄中佐が、参謀本部に「諜報謀略の科学化」
(といういけんしょをていしゅつしたことにはじまる。どうねんまつ、りくぐんしょうがちゅうしんとなって)
という意見書を提出したことに始まる。同年末、陸軍省が中心となって
(そのそうせつをけってい。いわくろ、あきくさしゅん、ふくもとかめじかくちゅうさをちゅうしんとして1938ねん)
その創設を決定。岩畔、秋草俊、福本亀治各中佐を中心として1938年
((しょうわ13ねん)3がつに「ぼうちょうけんきゅうじょ」としてしんせつ。どうねん7がつより)
(昭和13年)3月に「防諜研究所」として新設。同年7月より
(とくだねきんむよういん(だいいちきがくせい19めい)のきょういくをかいしした。1939ねん)
特種勤務要員(第一期学生19名)の教育を開始した。1939年
((しょうわ14ねん)5がつにどうけんきゅうじょは「こうほうきんむよういんようせいしょ」にかいへん、)
(昭和14年)5月に同研究所は「後方勤務要員養成所」に改編、
(7がつにはだいいちきがくせいのそつぎょうをむかえる。1940ねん(しょうわ15ねん)には)
7月には第一期学生の卒業を迎える。1940年(昭和15年)には
(「りくぐんなかのがっこう」とかいめいし、1941ねん(しょうわ16ねん)にはさんぼうほんぶちょっかつの)
「陸軍中野学校」と改名し、1941年(昭和16年)には参謀本部直轄の
(ぐんがっこうへてんしんする。そのそんざいはりくぐんないでもごくひとされていた。)
軍学校へ転身する。その存在は陸軍内でも極秘とされていた。
(そうりつとうしょはとうきょうきゅうだん(げんざいのとうきょうとちよだくくだん))
創立当初は東京・九段(現在の東京都千代田区九段)
(のあいこくふじんかいほんぶのべつむねがかりこうしゃであったが、)
の愛国婦人会本部の別棟が仮校舎であったが、
(1939ねん(しょうわ14ねん)4がつにきゅうでんしんたいあとちのなかのくかこいまちにいてん。)
1939年(昭和14年)4月に旧電信隊跡地の中野区囲町に移転。
(1945ねん(しょうわ20ねん)4がつ、くうしゅうのげきかにともないぐんまけんとみおかまちにそかい、)
1945年(昭和20年)4月、空襲の激化に伴い群馬県富岡町に疎開、
(とみおかちゅうがっこうなどのしせつをりようしてこうぎがおこなわれた。とうしょはじゅんすいな)
富岡中学校などの施設を利用して講義が行われた。当初は純粋な
(すぱいぎじゅつようせいきかんであったが、たいへいようせんそう(だいとうあせんそう)のかいせんをきに)
スパイ技術養成機関であったが、太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦を機に
(げりらせんじゅつきょういくきかん(あめりかりくぐんのとくしゅせんすくーるにそうとう)へとへんぼうした。)
ゲリラ戦術教育機関(アメリカ陸軍の特殊戦スクールに相当)へと変貌した。
(1944ねん(しょうわ19ねん)8がつ、しずおかけんふたまたまち)
1944年(昭和19年)8月、静岡県二俣町
((げんざいのしずおかけんはままつしてんりゅうく)に)
(現在の静岡県浜松市天竜区)に
(ゆうげきせん(げりらせん)のよういんようせいをしゅたるもくてきとして)
遊撃戦(ゲリラ戦)の要員養成を主たる目的として
(「りくぐんなかのがっこうふたまたぶんこう」がせつりつされた(1974ねん(しょうわ49ねん)、)
「陸軍中野学校二俣分校」が設立された(1974年(昭和49年)、
(るばんぐとうからきこくしたおのだひろおや、いんどしなせんそうちゅうに)
ルバング島から帰国した小野田寛郎や、インドシナ戦争中に
(べとみんのくぁんがいりくぐんしかんがっこうきょうかんをつとめたたにもときくお、)
ベトミンのクァンガイ陸軍士官学校教官を務めた谷本喜久男、
(げんざいではかずすくないいきしょうにんいとけいがどうこうのそつぎょうせいであった)。)
現在では数少ない生き証人井登慧が同校の卒業生であった)。
(がくせいはりくぐんしかんがっこう、りくぐんよびしかんがっこう、りくぐんきょうどうがっこう)
学生は陸軍士官学校、陸軍予備士官学校、陸軍教導学校
((1943ねん(しょうわ18ねん)8がつはいし)しゅっしんしゃからせんばつされた。)
(1943年(昭和18年)8月廃止)出身者から選抜された。
(そのたいはんはいっぱんだいがくそつなどのがくれきをもち、しせいをへたこうしゅかんぶこうほなま)
その大半は一般大学卒等の学歴を持ち、市井を経た甲種幹部候補生
((りくぐんよびしかんがっこうそつ)しゅっしんしゃであり、ついできょうどうがっこうそつの)
(陸軍予備士官学校卒)出身者であり、次いで教導学校卒の
(かしかんしゅっしんしゃがおおく、りくぐんしかんがっこうそつのものはしょうすうであった。)
下士官出身者が多く、陸軍士官学校卒の者は少数であった。
(1945ねん1がつ3にちになかのがっこうににゅうこうしただい8きせい150めいのうち、)
1945年1月3日に中野学校に入校した第8期生150名のうち、
(90%いじょうはいっぱんだいがくやこうとうせんもんがっこうのしゅっしんしゃで、とうきょうていこくだいがく)
90%以上は一般大学や高等専門学校の出身者で、東京帝国大学
((げんざいのとうきょうだいがく)しゅっしんしゃがもっともおおく、ついでたくしょくだいがく、)
(現在の東京大学)出身者が最も多く、次いで拓殖大学、
(とうきょうがいじせんもんがっこう(げんざいのとうきょうがいこくごだいがく)、そしてわせだだいがく、)
東京外事専門学校(現在の東京外国語大学)、そして早稲田大学、
(けいおうぎじゅくだいがく、めいじだいがくなどがつづいた。めいもんとされるいっぱんだいがくしゅっしんしゃから)
慶應義塾大学、明治大学等が続いた。名門とされる一般大学出身者から
(かずおおくせんばつされたりゆうは、ちょうほういんとしてはばひろくたかいがくしきとれいせいなしてんのほか、)
数多く選抜された理由は、諜報員として幅広く高い学識と冷静な視点のほか、
(しせいのせいかつしゅうかんになじんでいることがもとめられていたためである。)
市井の生活習慣に馴染んでいることが求められていたためである。
(いっぱんてきなしょくぎょうぐんじんたるりくしそつのげんえきしょうこうのばあい、ぐんじんとしてのきりつや)
一般的な職業軍人たる陸士卒の現役将校の場合、軍人としての規律や
(こうどなぐんじちしきはみについているものの、そのちしきかんしゅうは)
高度な軍事知識は身に付いているものの、その知識・慣習は
(いっぱんしゃかいにおいてはかたよっていることからはんだんをあやまるおそれがあったためである。)
一般社会においては偏っていることから判断を誤るおそれがあったためである。
(またたいどにもぐんじんらしいふんいきをだしてしまうため、しょうしゃまんや)
また態度にも軍人らしい雰囲気を出してしまうため、商社マンや
(しんぶんしゃつうしんいんなどのみんかんじんをよそおってちょうほうかつどうを)
新聞社通信員等の民間人を装って諜報活動を
(おこなうさいにさまたげとなりやすく、これをさけられたのである。)
行う際に妨げとなりやすく、これを避けられたのである。
(こうふう)
校風
(がくせいはぐんぷくをちゃくようせず、またにんむのせいしつじょう、いっぱんじんのなかでも)
学生は軍服を着用せず、また任務の性質上、一般人のなかでも
(めだちにくいようにふだんからへいふくすがたにちょうはつでいることがすいしょうされていた。)
目立ちにくいように普段から平服姿に長髪でいる事が推奨されていた。
(そのため、さとがえりじにはおやからぐんじんにあるまじきすがたをしっせきされ、)
そのため、里帰り時には親から軍人にあるまじき姿を叱責され、
(すぱいとしてきょういくをうけているいじょうはおやにもりゆうをあかせず、)
スパイとして教育を受けている以上は親にも理由を明かせず、
(いいわけもできずくろうしたといわれる。また、ぐんとうをはいようし)
言い訳もできず苦労したと言われる。また、軍刀を佩用し
(ながくつをはきしょうこうぐんふくをきるりくぐんしょうこうにあこがれりくぐんをこころざしたてまえ、)
長靴を履き将校軍服を着る陸軍将校に憧れ陸軍を志した手前、
(にゅうこうとうしょにはらくたんするものもそんざいした。)
入校当初には落胆する者も存在した。
(れんせいようりょうのなかに「ほかなるてんぎょうかいひろめのはんをあかしたいさにとる」という)
錬成要領の中に「外なる天業恢弘の範を明石大佐にとる」という
(ことばがあるように、あかしもとじろうりくぐんたいしょう(たいさはにちろせんそうとうじのかいきゅう))
言葉があるように、明石元二郎陸軍大将(大佐は日露戦争当時の階級)
(のほうこくしょ「かくめいのしをり」をきほんきょうざいとし、かみ(あまてらす)の)
の報告書『革命のしをり』を基本教材とし、神(アマテラス)の
(いしにもとづいてせかいじんるいのへいわをかくりつするちょうほうこうさくせんしをようせいしていた。)
意志にもとづいて世界人類の平和を確立する諜報工作戦士を養成していた。
(はっこういちう、だいとうあきょうえいけんといったすろーがんはいっこだにされず、)
八紘一宇、大東亜共栄圏といったスローガンは一顧だにされず、
(「せんじちゅうでもっともじゆうしゅぎてきではなかったか」とかいこするしゅっしんしゃもいる。)
「戦時中で最も自由主義的ではなかったか」と回顧する出身者もいる。
(また、てんのうにたいするみかたもじゆうであり、がくせいやきょうかんのあいだでてんのうのぜひが)
また、天皇に対する見方も自由であり、学生や教官の間で天皇の是非が
(とうろんされることもしばしばだったという。てきせいごたるえいごしようのじしゅくも)
討論される事もしばしばだったという。敵性語たる英語使用の自粛も
(まったくおこなわれず、むしろちょうほうのうりょくをようせいするかんけいからがいこくごのぎのうは)
全く行われず、むしろ諜報能力を養成する関係から外国語の技能は
(ひっすであり、えいかいわすることをすいしょうされた。)
必須であり、英会話することを推奨された。
(きょういく)
教育
(ごぜんちゅうはちょうほうぼうりゃくぼうちょうなどのひみつせんにかんれんするがくもんのこうぎとじっせん、)
午前中は諜報・謀略・防諜などの秘密戦に関連する学問の講義と実践、
(ごごはじしゅうとなっていた。ここでいう「ちょうほう」とは、じょうほうをしゅうしゅうする)
午後は自習となっていた。ここでいう「諜報」とは、情報を収集する
(ことでないがいのじょうせいをせいかくにしょうあくし、いかなるじたいにそうぐうしてもすばやく)
ことで内外の情勢を正確に掌握し、いかなる事態に遭遇しても素早く
(てきかくないしけっていができるようにすること、「ぼうりゃく」とは、じょうほうそうさや)
的確な意思決定ができるようにすること、「謀略」とは、情報操作や
(せんでんでてきをこりつこんらんさせたりすること、「ぼうちょう」とは、)
宣伝で敵を孤立・混乱させたりすること、「防諜」とは、
(てきがしかけてくるちょうほう、ぼうりゃくをたんちし、それをぎゃくりようしにせのじょうほうを)
敵が仕掛けてくる諜報、謀略を探知し、それを逆利用し偽の情報を
(ながしててきをこんらんさせることである。いわゆるすぱいのとくしゅぎのう)
流して敵を混乱させることである。いわゆるスパイの特殊技能
(そのもののきょういくもおこなわれたが、きょういくのちゅうしんは、ちょうほうのりろんや、)
そのものの教育も行われたが、教育の中心は、諜報の理論や、
(じゅうなんでゆうずうのきくのうりょくのいくせいにおかれた。)
柔軟で融通のきく能力の育成に置かれた。
(なかのがっこうのがくせいは「めいよやちいをもとめず、にほんのすていしとなって)
中野学校の学生は「名誉や地位を求めず、日本の捨石となって
(くちはてること」をしんじょうとした。にほんぐんいっぱんのきょういくとはことなり、)
朽ち果てること」を信条とした。日本軍一般の教育とは異なり、
(いきてりょしゅうのはずかしめをうけてもなおいきのこり、にじゅうすぱいとなって)
生きて虜囚の辱めを受けてもなお生き残り、二重スパイとなって
(てきをかくらんするなど、あくまでもにんむをすいこうすべきようきょういくされた。)
敵を撹乱するなど、あくまでも任務を遂行すべきよう教育された。
(また、きたなくひきょうともいえるちょうほうかつどうをおこなうこととなるからこそ、)
また、汚く卑怯ともいえる諜報活動を行うこととなるからこそ、
(「しせい」のこころをつよくもつようきょういくされた。)
「至誠」の心を強く持つよう教育された。
(こうぎでは、たいろせいじぼうりゃくこうさくでにちろせんそうのしょうりにおおきくこうけんした)
講義では、対露政治謀略工作で日露戦争の勝利に大きく貢献した
(あかしもとじろうがなんどもしょうかいされ、かれががくせいのえいゆうとなっていた。きょうかんは、)
明石元二郎が何度も紹介され、彼が学生の英雄となっていた。教官は、
(なかのがっこうのいちきせいや、さんぼうほんぶ、りくぐんしょうのちゅうけんしょうこうなどであった。)
中野学校の一期生や、参謀本部、陸軍省の中堅将校などであった。
(2012ねん(へいせい24ねん)にはっけんされた1きせいのそつぎょうほうこくしょ)
2012年(平成24年)に発見された1期生の卒業報告書
(「こうほうきんむよういんようせいしょおつしゅちょうきだい1きがくせいきょういくほうこく」によると、)
『後方勤務要員養成所乙種長期第1期学生教育報告』によると、
(1,361たんいちゅう1,290たんいがじっしされた。かもくは、ぐんじがく)
1,361単位中1,290単位が実施された。科目は、軍事学
((へいきちくじょうこうくうがくなど)、がいこくご(えいごろしあごちゅうごくご)、)
(兵器・築城・航空学など)、外国語(英語・ロシア語・中国語)、
(ぶじゅつ(けんじゅつじゅうじゅつ)、さいきんがく、やくぶつがく、ほういがく、)
武術(剣術・柔術)、細菌学、薬物学、法医学、
(じっしゅう(つうしんじどうしゃなど)、こうぎ(にんじゅつほういがくなど)、)
実習(通信・自動車など)、講義(忍術・法医学など)、
(そのた(きしょうがくこうつうがくしんりがくとうけいがくなど)などたきにわたっている。)
その他(気象学・交通学・心理学・統計学など)など多岐にわたっている。
(ちょうほうぼうりゃくぼうちょうせんでんがかもくのちゅうしんであったが、せいじけいざいしそう)
諜報・謀略・防諜・宣伝が科目の中心であったが、政治・経済・思想・
(しゅうきょうといったがっかもあり、ときにはにんじゅつのたつじんやすりのめいじんもそのわざを)
宗教といった学科もあり、時には忍術の達人やスリの名人もその技を
(じつえんしたという。じゅうどうよりもいちげきひっさつのこうかがたかいうえしばりゅうのあいきどうが)
実演したという。柔道よりも一撃必殺の効果が高い植芝流の合気道が
(ひっしゅうかもくとされ、ぼうりゃくきざいのけんきゅうをしていたのぼりとけんきゅうじょからとくしゅばくだんや)
必修科目とされ、謀略機材の研究をしていた登戸研究所から特殊爆弾や
(ぎぞうしへいのせいぞうほうなどをまなんでいた。)
偽造紙幣の製造法等を学んでいた。