陸軍中野学校 2
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問題文
(また1938ねん(しょうわ13ねん)7がつににゅうしょした1きせい19にんのうちわけは、)
また1938年(昭和13年)7月に入所した1期生19人の内訳は、
(だいそつ3にん、せんもんがっこうそつ11にん、ちゅうそつ4にん、ちゅうたい1ひととなっている。)
大卒3人、専門学校卒11人、中卒4人、中退1人となっている。
(このようなきょういくは1945ねん3がつまでおこなわれたが、どうねん3がつ10にちの)
このような教育は1945年3月まで行われたが、同年3月10日の
(とうきょうだいくうしゅうのえいきょうにより、なかのがっこうほんこうはぐんまけんかんらぐんとみおかまち)
東京大空襲の影響により、中野学校本校は群馬県甘楽郡富岡町
((げんとみおかし)にいせつされることとなった。これをさかいにきょういくないようも)
(現・富岡市)に移設されることとなった。これを境に教育内容も
(ふたまたぶんこうとおなじくげりらせんよういんようせいへとへんこうされ、ほんどけっせんをそうていした)
二俣分校と同じくゲリラ戦要員養成へと変更され、本土決戦を想定した
(ゆうげきせんのくんれんなどがおこなわれた。ふたまたぶんこうでげりらせんをきょういくされ、)
遊撃戦の訓練などが行われた。二俣分校でゲリラ戦を教育され、
(まにらにはけんご、るばんぐとうにはけんされたのがおのだひろおしょういであり、)
マニラに派遣後、ルバング島に派遣されたのが小野田寛郎少尉であり、
(けっきょくひとりだけいきのこり、ざんちちょうじゃとしてのめいれいをじゅんしゅしていた。)
結局一人だけ生き残り、残置諜者としての命令を遵守していた。
(たいへいようせんそう)
太平洋戦争
(かくしゅゆうげき、せんにゅう、こうさくかつどうなどをがくしゅうしたなかのがっこうしゅっしんしゃは)
各種遊撃、潜入、工作活動などを学習した中野学校出身者は
(たいへいようせんそうちゅうもかっぱつにかつどうした。さんぼうほんぶきんむなどのた、あじあかくちで)
太平洋戦争中も活発に活動した。参謀本部勤務などの他、アジア各地で
(かくしゅきかんをせつりつしてぎゆうぐんのいくせいやちょうほうかつどうににんじたが、せんそうまっきは)
各種機関を設立して義勇軍の育成や諜報活動に任じたが、戦争末期は
(ゆうげきせんよういんとしてせんとうにかにゅうしたものもおおくいた。おきなわせんにおいても)
遊撃戦要員として戦闘に加入した者も多くいた。沖縄戦においても
(ぎれつくうていたいにすうめいがよういんとしてさんかしている。)
義烈空挺隊に数名が要員として参加している。
(なんぽうでのどうこう)
南方での動向
(1941ねん12がつ8にちにはじまるまれーさくせんでは、なかのがっこうしゅっしんしゃらで)
1941年12月8日に始まるマレー作戦では、中野学校出身者らで
(こうせいされたふじわらいわいちしょうさ(なかのがっこうきょうかん)ひきいるfきかん(ふじわらきかん)が、)
構成された藤原岩市少佐(中野学校教官)率いるF機関(藤原機関)が、
(えいしるしぐんのはんすうをしめるいんどじんのへいしにたいするとうこうさくせんをてんかいし、)
英印軍の半数を占めるインド人の兵士に対する投降作戦を展開し、
(とうこうしたいんどじんによりへんせいされたいんどこくみんぐんが、さらなるとうこうゆうちや)
投降したインド人により編成されたインド国民軍が、さらなる投降誘致や
(ぐんじしせつはかいなどにかつやくした。これはあとにいわくろきかんにひきつがれ、)
軍事施設破壊などに活躍した。これは後に岩畔機関に引き継がれ、
(ちゃんどらぼーすをしゅはんとするじゆういんどかりせいふがしんがぽーるにて)
チャンドラ・ボースを首班とする自由インド仮政府がシンガポールにて
(じゅりつされることになる。)
樹立されることになる。
(びるまのたたかいでは、1940ねんより、なかのがっこうしゅっしんしゃらでこうせいされた)
ビルマの戦いでは、1940年より、中野学校出身者らで構成された
(みなみきかんが、びるまのせいねんししらによってへんせいされたどくりつぎゆうぐんと)
南機関が、ビルマの青年志士らによって編成された独立義勇軍と
(こうどうをともにし、にほんぐんとのきょうどうさくせんをせいこうさせた。)
行動を共にし、日本軍との共同作戦を成功させた。
(らんいんさくせんでは、だい1ていしんだんによるぱれんばんくうていさくせんにしゅっしんしゃがずいこうし)
蘭印作戦では、第1挺進団によるパレンバン空挺作戦に出身者が随行し
(くうていこうか、まただい16ぐんじょうりくぶたいによるじゃわこうりゃくせんにおいては、)
空挺降下、また第16軍上陸部隊によるジャワ攻略戦においては、
(おらんだがわらじおきょくにぎそうしてにせのじょうほうをながし、おらんだぐんを)
オランダ側ラジオ局に偽装して偽の情報を流し、オランダ軍を
(こんらんさせたぼうりゃくほうそうになかのがっこうしゅっしんしゃがふかくかんよしていた。)
混乱させた謀略放送に中野学校出身者が深く関与していた。
(おきなわでのどうこう)
沖縄での動向
(やんばるのだいいちとだいにごきょうたい)
やんばるの第一と第二護郷隊
(おきなわせんにそなえて1944ねん9がつ、さんおつきょういくしゅっしんしゃの)
沖縄戦に備えて1944年9月、三乙教育出身者の
(むらかみはるおといわなみひさしらが、)
村上治夫と岩波寿らが、
(おきなわへとちゃくにんした。しょうろくくうこう(げんなはひこうじょう)につくと、)
沖縄へと着任した。小禄空港(現・那覇飛行場)に着くと、
(だいさんにぐんしれいぶでうしじまみつるちゅうじょうとちょうそさんぼうちょうにあいさつをいった。)
第三二軍司令部で牛島満中将と長勇参謀長に挨拶を行った。
(むらかみによると、「ちゃくにんのあいさつをおえたあと、ちょうそさんぼうちょうから)
村上によると、「着任のあいさつを終えた後、長勇参謀長から
(「おきなわがぎょくさいしたあともいきのこり、ゆうげきせんをつづけろ」といわれた」とのべている。)
『沖縄が玉砕した後も生き残り、遊撃戦を続けろ』と言われた」と述べている。
(むらかみは、そのあとゆうげきたいとして、おきなわほくぶにはいちされ、)
村上は、その後遊撃隊として、沖縄北部に配置され、
(なはにしんこうするであろうべいぐんのはいごをおそうことをめいじられる。)
那覇に進行するであろう米軍の背後を襲うことを命じられる。
(また、どうねん9がつ、ゆうげきせんのしたじづくりとして、ごきょうたいをそしきし、)
また、同年9月、遊撃戦の下地作りとして、護郷隊を組織し、
(しょうねんへいをしょうしゅうした。おおきなげんいんは、へいしぶそくによるものであるが、)
少年兵を召集した。大きな原因は、兵士不足によるものであるが、
(15-16さいのしょうねんたちがほくぶでのゆうげきせんをになうきびしいくんれんをうけた。)
15 -16歳の少年たちが北部での遊撃戦を担う厳しい訓練を受けた。
(1945ねん3がつ26にち、べいぐんがじょうりくさくせんをかいしすると、ごきょうたいは、)
1945年3月26日、米軍が上陸作戦を開始すると、護郷隊は、
(たのだけなごたけにはいちされた。4がつには、こうせんがはじまり、べいぐんのまきや)
多野岳・名護岳に配置された。4月には、交戦が始まり、米軍の真喜屋・
(いなみねきゃんぷをやきはらうこうげきをかいし、ふいをつかれたべいぐんはおうじまへと)
稲嶺キャンプを焼き払う攻撃を開始、不意をつかれた米軍は奥武島へと
(てったいした。このあと、べいぐんはたのだけへのほうげきをかいしし、むらかみらはやまぶかい)
撤退した。この後、米軍は多野岳への砲撃を開始し、村上らは山深い
(くにがみさんちゅうへとてったいしている。5がつげじゅんにだい32ぐんがしゅいのしれいぶをほうきし、)
国頭山中へと撤退している。5月下旬に第32軍が首里の司令部を放棄し、
(なんぶへとむかう。うしじまとちょうが6がつ23にちにじけつし、にほんぐんによるそしきてきな)
南部へと向かう。牛島と長が6月23日に自決し、日本軍による組織的な
(せんとうはしゅうけつ。ごきょうたいは、せんぷくすることになるが、これはじじつじょうの)
戦闘は終結。護郷隊は、潜伏することになるが、これは事実上の
(かいさんであった(ここまでのきじゅつは、かわみつあき「りくぐんなかのがっこうとおきなわせん」)
解散であった(ここまでの記述は、川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦』
(2018による)。)
2018による)。
(「ごきょうたい」もさんしょう)
「護郷隊」も参照
(りとうざんちちょうじゃ)
離島残置諜者
(はてるまじま)
波照間島
(はてるまじまでは、1945ねん2がつ、さかいきしろたすくぐんそう(なかの6きつちのえたね)は)
波照間島では、1945年2月、酒井喜代輔軍曹(中野6期戊種)は
(やましたとらおのなでしょうがっこうのだいようきょういんとしてせんぷく。)
山下虎雄の名で小学校の代用教員として潜伏。
(ぜんこうせいと250めいの4ねんせいのたんにんとなり、)
全校生徒250名の4年生の担任となり、
(せいねんがっこうのじゅうけんどうきょうしをけんにんした。)
青年学校の柔剣道教師を兼任した。
(そのあと、いしがきじましれいぶよりはてるまじまにべいぐんのじょうりくがよそうされると、)
その後、石垣島司令部より波照間島に米軍の上陸が予想されると、
(「ぜんとうみんをいりおもてじまにそかいさせ、そのあとけんぞうぶついっさいをしょうきゃくし、)
「全島民を西表島に疎開させ、その後建造物一切を焼却し、
(いどをまいぼつしてしようふのうにせよ」とのめいれいがだされた。)
井戸を埋没して使用不能にせよ」との命令が出された。
(じゅうみんたちはまらりあはっせいちであるいりおもてじまへのそかいはこんなんであると)
住民たちはマラリア発生地である西表島への疎開は困難であると
(なんどもうったえたが、やましたはいっぺんしてちゅういをなのり、そかいをうけいれない)
何度も訴えたが、山下は一変して中尉を名乗り、疎開を受け入れない
(いちぶのじゅうみんにはぐんとうでおどすなどして、ぜんとうみんをいりおもてじまへきょうせいそかいさせた。)
一部の住民には軍刀で脅すなどして、全島民を西表島へ強制疎開させた。
(そのさい、はてのまのゆたかなかちくしげん2,000とうあまりのぎゅうば、)
その際、波照間の豊かな家畜資源2,000頭あまりの牛馬、
(ひつじやぶたやにわとりなどをじゅうみんにめいじてさつしょぶんさせ、にほんぐんのしょくりょうとして)
羊や豚や鶏などを住民に命じて殺処分させ、日本軍の食料として
(かつおぶしこうじょうでくんせいにさせてもちさった。じゅうみんはまらりあのはやる)
鰹節工場で燻製にさせて持ち去った。住民はマラリアの流行る
(なんぶちいきにいじゅうさせられたため、ゆぶじまにいじゅうしたものいがいはまらりあに)
南部地域に移住させられたため、由布島に移住したもの以外はマラリアに
(かかることとなりたすうがなくなった(せんそうまらりあのこうもさんしょう)。)
かかることとなり多数が亡くなった(戦争マラリアの項も参照)。
(せんごのやましたはしがけんでこうじょうをけいえいしていた。せいぞんしゃのなかには)
戦後の山下は滋賀県で工場を経営していた。生存者の中には
(「いまでもあったらころしてやりたい。」とのべるものがおり、)
「今でも会ったら殺してやりたい。」と述べる者がおり、
(やましたがせんごおとずれたさいにはかくだんたいからせいしきにこうぎをうけるなどうらまれている。)
山下が戦後訪れた際には各団体から正式に抗議を受けるなど恨まれている。
(くめじま)
久米島
(1945ねん1がつにくめじまのぐしかわこくみんがっこうにふにんしてきたもとなかのがっこうなまの)
1945年1月に久米島の具志川国民学校に赴任してきた元中野学校生の
(たけかわじつは「うえはらとしお」となのり、かいぐんみはりたい(でんぱたんちたい))
竹川実は「上原敏夫」と名乗り、海軍見張隊(電波探知隊)
(35めいのしょうたい(35めい)をひきいるかやましょうへいそうちょうとれんらくをとりあっていた。)
35名の小隊(35名)を率いる鹿山正兵曹長と連絡を取り合っていた。
(かやまたいはむじつのちょうせんじんいっかもふくめなんけんかのじゅうみんぎゃくさつじけんを)
鹿山隊は無実の朝鮮人一家もふくめ何件かの住民虐殺事件を
(おこしたことでおそれられた。(くめじましゅびたいじゅうみんぎゃくさつじけんのこうをさんしょう)。)
おこしたことで恐れられた。(久米島守備隊住民虐殺事件の項を参照)。
(いへやとうといぜなとう)
伊平屋島と伊是名島
(いへやとうではさいとうよしおは「みやぎたろう」というなでこくみんがっこうのくんどうとして)
伊平屋島では斉藤義夫は「宮城太郎」という名で国民学校の訓導として
(ふにんしていたが、さいとうははいざんへいらがべいぐんじょうりくへのきりこみのけいかくをするのを、)
赴任していたが、斉藤は敗残兵らが米軍上陸への切り込みの計画をするのを、
(しまのひとたちがまきぞえになる、といっておもいとどまらせたとつたえられる。)
島の人たちが巻き添えになる、と言って思いとどまらせたと伝えられる。
(いっぽう、いぜなとうには「にしむらよしお」というなでばばしょうじがおくりこまれていた。)
一方、伊是名島には「西村良雄」という名で馬場正治が送り込まれていた。
(いぜなとうでは、このふたりのざんちこうさくいんと、おきなわとうからのがれてきた)
伊是名島では、この二人の残置工作員と、沖縄島から逃れてきた
(うとぶたいのはいざんへい、ひょうちゃくしたとっこうたいいん、ちゅうざいらとともにじゅうみんをゆうどう、)
宇土部隊の敗残兵、漂着した特攻隊員、駐在らと共に住民を誘導、
(べいぐんほりょのさつがいやとうみん、あまみしゅっしんのしょうねん3にんをふくむ4にんのじゅうみんぎゃくさつが)
米軍捕虜の殺害や島民、奄美出身の少年3人を含む4人の住民虐殺が
(ひきおこされた。)
ひきおこされた。
(「りとうざんちこうさくいん」もさんしょう)
「離島残置工作員」も参照