陸軍中野学校 3
関連タイピング
問題文
(せんご)
戦後
(なかのがっこうのへいこう)
中野学校の閉校
(ふたまたぶんこうをふくむそつぎょうせいのそうすうは2,500あまりめいである)
二俣分校を含む卒業生の総数は2,500余名である
((いっせつに2,131めいとされる)。こうしきには)
(一説に2,131名とされる)。公式には
(1945ねん8がつ15にちのはいせんをもって)
1945年8月15日の敗戦をもって
(へいこうした。こうちょうのくんじがおわると、がっこうのしょうちょうであるくすこうしゃにひをてんじ、)
閉校した。校長の訓辞が終わると、学校の象徴である楠公社に火を点じ、
(こうか「さんさんわかれのうた」をがっしょうしたのち、しょくいん、がくせいはおもいおもいに)
校歌「三三別れの歌」を合唱したのち、職員、学生は思い思いに
(ちっていった。そのいちぶはいこうもこくないがいでかつどうを)
散って行った。その一部は以降も国内外で活動を
(けいぞくしていたとみられ、せんりょうぐんにたいするげりらこうげきを)
継続していたと見られ、占領軍に対するゲリラ攻撃を
(けいかくするなどしていたという。なかにはみぶんをぎそうしてghqにせんにゅうし)
計画するなどしていたという。中には身分を偽装してGHQに潜入し
(ないぶかくらんをはかったものもおり(あとのやまなしけんふくちじとなるたなかてつおたいいなど)、)
内部撹乱を図った者もおり(後の山梨県副知事となる田中徹雄大尉など)、
(ghqのたいにちこうさくきかんきゃのんきかんのはかいにせいこうしたというせつもある。)
GHQの対日工作機関キャノン機関の破壊に成功したという説もある。
(また、いんどねしあどくりつせんそうや、いんどしなせんそう(たにもときくおしょういなど))
また、インドネシア独立戦争や、インドシナ戦争(谷本喜久男少尉など)
(をはじめとするせんごのとうなんあじあのどくりつせんそうにたずさわったそつぎょうしゃもおおくいた。)
を始めとする戦後の東南アジアの独立戦争に携わった卒業者も多くいた。
(またさんぼうほんぶのひろせえいいちちゅうさはなかのがっこういちきなまのくぼたいちろうしょうさとともに)
また参謀本部の広瀬栄一中佐は中野学校一期生の久保田一郎少佐とともに
(てんのうやこうしつにまんがいちのばあいがあったばあいにそなえてこうとうごじけいかくとして)
天皇や皇室に万が一の場合があった場合に備えて皇統護持計画として
(きたしらかわのみやどうきゅうおうをほくりくぼうしょにかくまうけいかくをたてていた。また、せんごの)
北白川宮道久王を北陸某所に匿う計画を立てていた。また、戦後の
(きたちょうせんのすぱいきかんは、このなかのがっこうをてほんのひとつとしているというせつもある。)
北朝鮮のスパイ機関は、この中野学校を手本の一つとしているという説もある。
(ちちおやがふたまたぶんこうしゅっしんであったまんがかたけみやけいこのかいそうによると、)
父親が二俣分校出身であった漫画家・竹宮惠子の回想によると、
(ちちおやのそうぎにおのだら6~7にんのだんせいがあらわれ、「なかまのそうぎでは)
父親の葬儀に小野田ら6~7人の男性が現れ、「仲間の葬儀では
(そうしていると」とせつめいしてかんをかつぎ、なかのがっこうでそうべつうたとされていた)
そうしていると」と説明して棺を担ぎ、中野学校で送別歌とされていた
(「さんさんそうと(さんさんわかれ)のうた」をうたったという。)
『三三壮途(さんさんわかれ)の歌』を唄ったという。
(しせつようちのへんせん)
施設用地の変遷
(なかのがっこうのようちはせんご、けいさつだいがっこうけいしちょうけいさつがっこうなどの)
中野学校の用地は戦後、警察大学校・警視庁警察学校などの
(けいさつしせつちへとてんようされたが、これらのしせつは2001ねん)
警察施設地へと転用されたが、これらの施設は2001年
((へいせい13ねん)にふちゅうしへてんしゅつし、2008ねん(へいせい20ねん))
(平成13年)に府中市へ転出し、2008年(平成20年)
(4がつ1にちにとうきょうけいさつびょういんがちよだくからいてんした。あとちには)
4月1日に東京警察病院が千代田区から移転した。跡地には
(ふくもとかめじきごうの「りくぐんなかのがっこうあと」のせきひがたてられている。)
福本亀治揮毫の「陸軍中野学校趾」の石碑が建てられている。
(とみおかこうとしてしようされたとみおかちゅうがっこうはげんざい、ぐんまけんりつとみおかこうとうがっこうと)
富岡校として使用された富岡中学校は現在、群馬県立富岡高等学校と
(なっており、こうないに「りくぐんなかのがっこうしゅうえんのち」のいしぶみなどが)
なっており、校内に「陸軍中野学校終焉之地」の碑などが
(たてられている。)
建てられている。
(ふたまたぶんこうあとちはげんざい、はままつしほけんじょてんりゅうししょとなっており、)
二俣分校跡地は現在、浜松市保健所天竜支所となっており、
(「りくぐんなかのがっこうふたまたぶんこうこうあといしぶみ」がたてられている。)
「陸軍中野学校二俣分校校趾碑」が建てられている。
(2012ねんじてん、さいかいはつぷろじぇくと)
2012年時点、再開発プロジェクト
(「なかのしきのとし(まち)」がすすめられている。)
「中野四季の都市(まち)」が進められている。
(しきちにはせんじゅつのとうきょうけいさつびょういんのた、なかのしきのもりこうえん、)
敷地には先述の東京警察病院の他、中野四季の森公園、
(なかのせんとらるぱーくがしゅんこうし、めいじだいがくなかのきゃんぱす、)
中野セントラルパークが竣工し、明治大学中野キャンパス、
(ていきょうへいせいだいがくなかのきゃんぱす、わせだだいがくなかのきゃんぱすが2013ねんに)
帝京平成大学中野キャンパス、早稲田大学中野キャンパスが2013年に
(かいこうしている。)
開校している。