大東亜共栄圏2
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問題文
(1943ねん(しょうわ18ねん)7がつ1にちのこうせいしょうけんきゅうじょじんこうみんぞくぶ)
1943年(昭和18年)7月1日の厚生省研究所人口民族部
((げんこくりつしゃかいほしょうじんこうもんだいけんきゅうじょ)がさくせいしたほうこくしょでは、)
(現・国立社会保障・人口問題研究所)が作成した報告書では、
(にほんじんはあじあしょみんぞくのかちょうとして「えいえんに」あじあをとうちする)
日本人はアジア諸民族の家長として「永遠に」アジアを統治する
(つかいいのちがあるとしるされているが、おうべいれっきょうがしょうさいなちょうきけいかくにもとづいて)
使命があると記されているが、欧米列強が詳細な長期計画に基づいて
(じっこうしたしょくみんちしゅぎによるしはいとはことなりだいとうあきょうえいけんはあいまいなけいかくで)
実行した植民地主義による支配とは異なり大東亜共栄圏は曖昧な計画で
(じつげんにぎもんがしてきされているなど、2022ねんじてんでもぎろんがつづいている。)
実現に疑問が指摘されているなど、2022年時点でも議論が続いている。
(こうていてきなひょうかとしては、いぎりすのれきしがくしゃといんびーが)
肯定的な評価としては、イギリスの歴史学者トインビーが
(1956ねん10がつ28にちのえいし「おぶざーばー」にはっぴょうした)
1956年10月28日の英紙『オブザーバー』に発表した
(いかのようなぶんせきがしられている。)
以下のような分析が知られている。
(だいにじせかいたいせんにおいて、にほんじんはにほんのためというよりも、)
第二次世界大戦において、日本人は日本のためというよりも、
(むしろせんそうによってりえきをえたくにぐにのために、いだいなるれきしをのこしたと)
むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大なる歴史を残したと
(いわねばならない。そのくにぐにとは、にほんのかかげたたんめいなりそうであった)
いわねばならない。その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった
(だいとうあきょうえいけんにふくまれていたくにぐにである。にほんじんがれきしじょうに)
大東亜共栄圏に含まれていた国々である。日本人が歴史上に
(のこしたぎょうせきのいぎは、せいようじんいがいのじんるいのめんぜんにおいて、)
残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、
(あじあとあふりかをしはいしてきたせいようじんが、かこにひゃくねんのあいだに)
アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に
(かんがえられていたような、ふはいのはんしんでないことをあきらかにしめしたてんにある。)
考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかに示した点にある。
(あーのるどjといんびーえいし「おぶざーばー」11めん、)
アーノルド・J・トインビー 英紙「オブザーバー」11面、
(1956ねん10がつ28にち)
1956年10月28日
(けいかくのはたんとそのあと)
計画の破綻とその後
(にほんのはいせんをまえにしてけいかくはたなあげじょうたいとなっており、)
日本の敗戦を前にして計画は棚上げ状態となっており、
(はいせんまえにはたんしていたといういけんもある。)
敗戦前に破綻していたという意見もある。
(しゅうせんごにはおらんだ、いぎりす、ふらんすなどのきゅうそうしゅくにが)
終戦後にはオランダ、イギリス、フランスなどの旧宗主国が
(しょくみんちしはいのさいかいをはかったが、いんどねしあやいんどしな、)
植民地支配の再開を図ったが、インドネシアやインドシナ、
(さらにはいんどなどでもにほんせんりょうかでそうせつされたみんぞくぐんなどが)
更にはインドなどでも日本占領下で創設された民族軍等が
(どくりつせいりょくとしてきゅうそうしゅくにとたたかいどくりつをはたすことになる。)
独立勢力として旧宗主国と戦い独立を果たすことになる。
(にほんぐんによるせんりょうをきっかけとするかくみんぞくのどくりつきうんの)
日本軍による占領をきっかけとする各民族の独立機運の
(たかまりによりきゅうそうしゅくにによるしょくみんちしはいのしゅうえんへとつながったとする)
高まりにより旧宗主国による植民地支配の終焉へとつながったとする
(けんかいもしばしばしゅちょうされる。いっぽうでふぃりぴんのふくばらはっぷや)
見解もしばしば主張される。一方でフィリピンのフクバラハップや
(べとなむのべとみんのようなげんちじゅうみんによるこうにちげりらも)
ベトナムのベトミンのような現地住民による抗日ゲリラも
(しばしばはっせいしており、これらがあとのどくりつうんどうにあたえたえいきょうもおおきい。)
しばしば発生しており、これらが後の独立運動に与えた影響も大きい。
(だいとうあきょうえいけんをかたるうえでじゅうようながいねんにこのごがある。)
大東亜共栄圏を語る上で重要な概念にこの語がある。
(このごはにほんがだいとうあきょうえいけんのけんせつをすいしんするためのせいさくひょうご)
この語は日本が大東亜共栄圏の建設を推進するための政策標語
((すろーがん)としてひろくかかげられた。)
(スローガン)として広く掲げられた。
(あじあしゅぎとのかんけい)
アジア主義との関係
(だいとうあきょうえいけんこうそうは、あじあがいったいとなっておうべいにたいこうすべきであるという)
大東亜共栄圏構想は、アジアが一体となって欧米に対抗すべきであるという
(はんあじあしゅぎのえいきょうをうけている。はんあじあしゅぎをとなえたきんだいにほんの)
汎アジア主義の影響を受けている。汎アジア主義を唱えた近代日本の
(しそうかとしてはきたいっき、いしわらかんじらがあげられる。)
思想家としては北一輝、石原莞爾等があげられる。
(また、えどじだいこうきのけいせいかさとうのぶひろにそのしそうてきるーつをもとめるけんかいもある。)
又、江戸時代後期の経世家佐藤信淵にその思想的ルーツを求める見解もある。
(じみんとうぎいんでかじまけんせつかいちょうのかじまもりのすけはがいこうかんをつとめていたせんぜんより)
自民党議員で鹿島建設会長の鹿島守之助は外交官を務めていた戦前より
(「はんあじあ」をていしょうしていた。その「はんあじあ」をがいこうかんじだいのかしまに)
「汎アジア」を提唱していた。その「汎アジア」を外交官時代の鹿島に
(ねっしんにといたのは「はんおうしゅう」をかかげるおうしゅうれんごうの)
熱心に説いたのは「汎欧州」を掲げる欧州連合の
(ちちくーでんほーふ=かれるぎーはくしゃくである。かしまはだいにじせかいたいせんちゅう、)
父クーデンホーフ=カレルギー伯爵である。鹿島は第二次世界大戦中、
(「はんあじあ」とだいとうあきょうえいけんをどういつししはじめた。かしまは)
「汎アジア」と大東亜共栄圏を同一視し始めた。鹿島は
(「ていこくのがいこうとだいとうあきょうえいけん」(よくさんとしょかんこうかい、1943ねん)において、)
『帝国の外交と大東亜共栄圏』(翼賛図書刊行会、1943年)において、
(くーでんほーふ=かれるぎーはくしゃくははんあじあしゅぎをいだいていたとしょうげんしている。)
クーデンホーフ=カレルギー伯爵は汎アジア主義を抱いていたと証言している。