六四天安門事件2

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(こっかだいひょう)

国家代表

(もうたくとうりゅうしょうきりせんねんようしょうこん)

毛沢東 劉少奇 李先念 楊尚昆

(こうたくみんこきんとうしゅうきんぺい)

江沢民 胡錦濤 習近平

(しゅしょう)

首相

(しゅうおんらいかこくほう)

周恩来  華国鋒

(ちょうしようりほう)

趙紫陽  李鵬

(しゅようきおんかほうりこくきょういがん)

朱鎔基   温家宝   李克強   李強

(とうちきこう)

統治機構

(ちゅうおういいんかいそうしょき)

中央委員会総書記

(ちゅうおうせいじきょくじょうむいいんかい)

中央政治局常務委員会

(ちゅうおうせいじきょく)

中央政治局

(ちゅうおういいんかい)

中央委員会

(ちゅうおうしょきどころ)

中央書記処

(ちゅうおうぐんじいいんかい)

中央軍事委員会

(ちゅうおうきりつけんさいいんかい)

中央規律検査委員会

(こっかきこう)

国家機構

(ぜんこくじんみんだいひょうたいかい)

全国人民代表大会

(ぜんじんだいじょうむいいんかい)

全人代常務委員会

(こっかしゅせき)

国家主席

(こくむいん)

国務院

など

(こっかぐんじいいんかい)

国家軍事委員会

(ちゅうごくじんみんせいじきょうしょうかいぎ)

中国人民政治協商会議

(こっかかんさついいんかい)

国家監察委員会

(さいこうじんみんほういん)

最高人民法院

(さいこうじんみんけんさついん)

最高人民検察院

(ちいき)

地域

(ちゅうごくかほくとうほく)

中国 華北 東北

(はなひがしかちゅうかなん)

華東 華中 華南

(せいなんせいほく)

西南 西北

(ほんこんまかおたいわん)

香港 澳門 台湾

(ちゅうかじんみんきょうわこくのぎょうせいくぶん)

中華人民共和国の行政区分

(1985ねん3がつにそびえとれんぽうきょうさんとうしょきちょうにしゅうにんした)

1985年3月にソビエト連邦共産党書記長に就任した

(みはいるごるばちょふは、「ぺれすとろいか」をひょうめいした。)

ミハイル・ゴルバチョフは、「ペレストロイカ」を表明した。

(これはそびえときょうさんとうによるいっとうどくさいせいがつづくなかで、)

これはソビエト共産党による一党独裁制が続く中で、

(げんろんのじゆうへのだんあつやしそうりょうしんのじゆうがそがいされたことや、)

言論の自由への弾圧や思想・良心の自由が阻害されたことや、

(かんりょうによるふはいがじょじょにすすみ、こうちょくかしたこっかうんえいをたてなおすことが)

官僚による腐敗が徐々に進み、硬直化した国家運営を立て直すことが

(もくてきであった。そびえとれんぽうがみんしゅかをすすめるなか、おなじく)

目的であった。ソビエト連邦が民主化を進めるなか、同じく

(1949ねんのけんこくいらい、ちゅうごくきょうさんとうのいっとうどくさいかにあった)

1949年の建国以来、中国共産党の一党独裁下にあった

(ちゅうかじんみんきょうわこくでも、1986ねん5がつに)

中華人民共和国でも、1986年5月に

(ちゅうごくきょうさんとうちゅうおういいんかいそうしょきの)

中国共産党中央委員会総書記の

(こようほうが「ひゃっかせいほうひゃっかそうめい」をさいていしょうしてげんろんのじゆうかをすいしん。)

胡耀邦が「百花斉放・百家争鳴」を再提唱して言論の自由化を推進。

(えびすはこくみんから「かいめいのしどうしゃ」とうたわれ、せいじかいかくへのきたいやしじがたかまった。)

胡は国民から「開明の指導者」と謳われ、政治改革への期待や支持が高まった。

(これにたいしてとうしょうへいらとうないのちょうろうぐるーぷをちゅうしんとしたほしゅはは、)

これに対して鄧小平ら党内の長老グループを中心とした保守派は、

(「ひゃっかせいほうひゃっかそうめい」ろせんのすいしんは、ちゅうごくきょうさんとうによるいっとうどくさいを)

「百花斉放・百家争鳴」路線の推進は、中国共産党による一党独裁を

(ゆるがすものであり、ひいてはじぶんたちのちいや)

揺るがすものであり、ひいては自分たちの地位や

(りけんをそこなうものとしてはんぱつした。)

利権を損なうものとして反発した。

(どうねん9がつにおこなわれたろくちゅうぜんかいでは、こくみんからのしじをうけて、)

同年9月に行われた六中全会では、国民からの支持を受けて、

(えびすがおしすすめようとしたせいじかいかくはたなあげされ、ぎゃくにほしゅはしゅどうの)

胡が押し進めようとした政治改革は棚上げされ、逆に保守派主導の

(「せいしんぶんめいけつぎ」がさいたくされ、えびすはちょうろうぐるーぷやりほうらのほしゅはの)

「精神文明決議」が採択され、胡は長老グループや李鵬らの保守派の

(ひはんのやおもてにさらされた。)

批判の矢面にさらされた。

(12がつに、ぺきんたちほうとしでがくせいでもがはっせいするとほかくのたいりつはげきかし、)

12月に、北京他地方都市で学生デモが発生すると保革の対立は激化し、

(えびすは1987ねん1がつ16にちのせいじきょくかくだいかいぎで、とうしょうへいらとうないの)

胡は1987年1月16日の政治局拡大会議で、鄧小平ら党内の

(ちょうろうぐるーぷやほしゅはによってじにんをきょうようされ、じじつじょうしっきゃくした。)

長老グループや保守派によって辞任を強要され、事実上失脚した。

(どうげつにはえびすのこうにんとして、かいかくはながらおんけんはともくされたちょうしようそうりが)

同月には胡の後任として、改革派ながら穏健派と目された趙紫陽総理が

(そうしょきだいこうにしゅうにん、どうねん11がつのだい13き1ちゅうぜんかいでそうしょきにせんしゅつされた。)

総書記代行に就任、同年11月の第13期1中全会で総書記に選出された。

(ちょうにはけいざいせいじのりょうかいかくのいずれにも、はんじゆうかのえいきょうが)

趙には経済・政治の両改革のいずれにも、反自由化の影響が

(およばないようしじをだしたが、とうしょうへいが1988ねんなつからはじめた)

及ばないよう指示を出したが、鄧小平が1988年夏から始めた

(こうていかかくせいどのはいしがぶっかじょうしょうをまねき、ていきしゃのちょうしようは、)

公定価格制度の廃止が物価上昇を招き、提起者の趙紫陽は、

(けいざいのしゅどうけんをほしゅはのりほうこくむいんそうり(しゅしょう)らにわたすことになる。)

経済の主導権を保守派の李鵬国務院総理(首相)らに渡すことになる。

(こようほうしきょ)

胡耀邦死去

(しょきのでも)

初期のデモ

(えびすはしっきゃくごもせいじきょくいいんのちいにとどまったが、ぺきんしないのじたくで)

胡は失脚後も政治局委員の地位にとどまったが、北京市内の自宅で

(けいさつのかんしのもとがいぶとのせっしょくをたたれるなどじじつじょうのなんきんせいかつをおくり、)

警察の監視のもと外部との接触を断たれるなど事実上の軟禁生活を送り、

(1989ねん4がつ8にちのせいじきょくかいぎにしゅっせきちゅうしんきんこうそくでたおれ、)

1989年4月8日の政治局会議に出席中心筋梗塞で倒れ、

(4がつ15にちにしきょした。)

4月15日に死去した。

(えびすがちゅうごくのみんしゅかにせっきょくてきであったことから、よく16にちには)

胡が中国の民主化に積極的であったことから、翌16日には

(ちゅうごくせいほうだいがくをちゅうしんとしたみんしゅかすいしんはのがくせいたちによる)

中国政法大学を中心とした民主化推進派の学生たちによる

(えびすのついとうしゅうかいがおこなわれた。また、これをけいきとしてどうじつと17にちに、)

胡の追悼集会が行われた。また、これを契機として同日と17日に、

(おなじくみんしゅかすいしんはのだいがくせいをちゅうしんとしたぐるーぷがぺきんしないで)

同じく民主化推進派の大学生を中心としたグループが北京市内で

(みんしゅかをもとめたしゅうかいをいった。)

民主化を求めた集会を行った。

(これらのしゅうかいはいずれもしょうきぼにおこなわれたが、よく18にちにはぺきんの)

これらの集会はいずれも小規模に行われたが、翌18日には北京の

(ふくすうのだいがくのがくせいをちゅうしんとした1まんにんていどのがくせいがぺきんしないで)

複数の大学の学生を中心とした1万人程度の学生が北京市内で

(でもをいったのち、みんしゅかをもとめててんあんもんひろばにめんするじんみんだいかいどうまえで)

デモを行ったのち、民主化を求めて天安門広場に面する人民大会堂前で

(すわりこみのすとらいきをはじめた。どうじにべつのぐるーぷが)

座り込みのストライキを始めた。同時に別のグループが

(ちゅうごくきょうさんとうほんぶやとうようじんのていたくなどがあるちゅうなんかいの)

中国共産党本部や党要人の邸宅などがある中南海の

(せいもんであるしんかもんにあつまり、けいびたいとこぜりあいをおこした。)

正門である新華門に集まり、警備隊と小競り合いを起こした。

(よく19にちにはぺきんしとういいんかいのきかんしである「きたきょうにちほう」が)

翌19日には北京市党委員会の機関紙である『北京日報』が

(ひはんてきにほうじたが、4がつ21にちのよるには10まんにんをこすがくせいやしみんが)

批判的に報じたが、4月21日の夜には10万人を越す学生や市民が

(てんあんもんひろばにおいてみんしゅかをもとめるでもをおこなうなど、)

天安門広場において民主化を求めるデモを行うなど、

(きゅうげきにきぼをかくだいしていった。)

急激に規模を拡大していった。

(よく22にちにはでもたいに「ほしゅはのちゅうしんじんぶつの1にん」ともくされた)

翌22日にはデモ隊に「保守派の中心人物の1人」と目された

(りほうこくむいんそうりとのめんかいをもとめたせいめいがだされると、)

李鵬国務院総理との面会を求めた声明が出されると、

(ぶんかだいかくめいきにがくせいたちにいたいめにあわせられていたはちだいちょうろうたちは)

文化大革命期に学生たちに痛い目に遭わせられていた八大長老たちは

(これを「どうらん」としてきょうこうにたいしょすることでいっちした。)

これを「動乱」として強硬に対処することで一致した。

(どうじつごぜん10じ、じんみんだいかいどうでこようほうどうしついとうたいかいがかいさいされた。)

同日午前10時、人民大会堂で胡耀邦同志追悼大会が開催された。

(よんにろくしゃせつ)

四・二六社説

(がくせいをちゅうしんとしたみんしゅかやおしょくだとうをもとめるでもは、4がつ22にちには)

学生を中心とした民主化や汚職打倒を求めるデモは、4月22日には

(しーあんやちょうさ、なんきんなどのいちぶのちほうとしにもひろがっていったが、)

西安や長沙、南京などの一部の地方都市にも広がっていったが、

(ぜんどにひろがっていったのは、そのあとにがくせいらがてんあんもんひろばで)

全土に広がっていったのは、その後に学生らが天安門広場で

(かんぱをあつめはじめたころからである。)

カンパを集め始めたころからである。

(しーあんではしゃりょうやしょうてんへのほうかが、ぶかんではけいかんたいと)

西安では車両や商店への放火が、武漢では警官隊と

(がくせいとのしょうとつがはっせいした。)

学生との衝突が発生した。

(ちょうしようはたきうんらのちゅうこくにもかかわらず、「こくがいにどうようをみせられない」)

趙紫陽は田紀雲らの忠告にもかかわらず、「国外に動揺を見せられない」

(としてきたちょうせんへのこうしきほうもんをよていどおりおこなうことをきめ、りほうに)

として北朝鮮への公式訪問を予定通り行うことを決め、李鵬に

(「ついとうかいはおわったのでがくせいでもをおわらせる、すぐにじゅぎょうにもどすこと、)

「追悼会は終わったので学生デモを終わらせる、すぐに授業に戻すこと、

(ぼうりょく、はかいこういにはきびしくたいおうすること、がくせいたちと)

暴力、破壊行為には厳しく対応すること、学生たちと

(かくかいそうでたいわをおこなうこと」とする3こうもくいけんをたくした。)

各階層で対話を行うこと」とする3項目意見を託した。

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