六四天安門事件3
関連タイピング
問題文
(しかし、しゅっこくしてすぐの4がつ25にち、りほうやりしゃくめいぺきんしとういしょき、)
しかし、出国してすぐの4月25日、李鵬や李錫銘北京市党委書記、
(ちんきどうぺきんしちょうらほしゅはがじじつをこちょうしたほうこくをうけ、)
陳希同北京市長ら保守派が事実を誇張した報告を受け、
(とうしょうへいのだんわをしたじにちゅうごくちゅうおうでんしだいのにゅーすばんぐみ「しんぶんれんは」で)
鄧小平の談話を下地に中国中央電視台のニュース番組「新聞聯播」で
(はっぴょうされ、つづいてよくじつの4がつ26にちつきのじんみんにっぽう1めんとっぷに、)
発表され、続いて翌日の4月26日付の人民日報1面トップに、
(「きしせんめいにどうらんにはんたいせよ」とだいされたしゃせつ(よん・にろくしゃせつ)がけいさいされた。)
「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」と題された社説(四・二六社説)が掲載された。
(きたちょうせんほうもんまえにちょうしようがしめした「3こうもくいけん」はまったくはんえいされず、)
北朝鮮訪問前に趙紫陽が示した「3項目意見」は全く反映されず、
(しゃせつはこようほうのついとうをきにぜんこくでおこっているがくせいたちのかつどうを)
社説は胡耀邦の追悼を機に全国で起こっている学生たちの活動を
(「ごくしょうすうのにんげんがしたごころをもち」、「がくせいをりようしてこんらんをつくりだし」)
「ごく少数の人間が下心を持ち」、「学生を利用して混乱を作り出し」
(「とうとこっかしどうしゃをこうげきし」「こうぜんとけんぽうにいはんし、きょうさんとうのしどうと)
「党と国家指導者を攻撃し」「公然と憲法に違反し、共産党の指導と
(しゃかいしゅぎせいどにはんたいする」といちづけたことでがくせいたちのはんかんをかい、)
社会主義制度に反対する」と位置づけたことで学生たちの反感を買い、
(ちょうしようらかいかくはとりほうらほしゅはがたいりつするきっかけともなった。)
趙紫陽ら改革派と李鵬ら保守派が対立するきっかけともなった。
(しゃんはいしのしゅうかんしである「せかいけいざいどうほう(えいごばん)」はこようほうのついとうを)
上海市の週刊誌である『世界経済導報(英語版)』は胡耀邦の追悼を
(てーまとしたざだんかいをひらき、そのなかでさんかしゃがえびすのかいにんをひはんしたり)
テーマとした座談会を開き、その中で参加者が胡の解任を批判したり
(めいよかいふくをようきゅうするはつげんをほうじた。こうせいずりのだんかいでないようをはあくした)
名誉回復を要求する発言を報じた。校正刷りの段階で内容を把握した
(しゃんはいしは、とういいんかいしょき(とうじ)のこうたくみんがせんでんたんとうの)
上海市は、党委員会書記(当時)の江沢民が宣伝担当の
(そうけいこうしとういふくしょきとちんしりつしとういせんでんぶちょうにめいじ、もんだいのかしょを)
曽慶紅市党委副書記と陳至立市党委宣伝部長に命じ、問題の箇所を
(さくじょするようめいれいをだした。)
削除するよう命令を出した。
(しゃちょうであるひとしほんたてはこのようきゅうをきょひしたため、どうしははっこうていしとなった。)
社長である欽本立はこの要求を拒否したため、同紙は発行停止となった。
(ぜんしゅつのよん・にろくしゃせつはっぴょうごにしのとうかんぶ1まんにんをあつめてべんきょうかいを)
前出の四・二六社説発表後に市の党幹部1万人を集めて勉強会を
(ひらいたたいおうとともにひょうかされ、こうたくみんがとうそうしょきにえらばれるよういんとなった。)
開いた対応と共に評価され、江沢民が党総書記に選ばれる要因となった。
(ちゅうごくきょうさんとうは、じんみんにっぽうやこくえいてれびなどのめでぃあをつかってじたいを)
中国共産党は、人民日報や国営テレビなどのメディアを使って事態を
(ちんせいかするようにこくみんによびかけたものの、「せかいけいざいどうほう」)
沈静化するように国民に呼びかけたものの、『世界経済導報』
(じけんなどもあってかつどうはぎゃくにかくだいをみせ、ちゅうごくきょうさんとうはがくせいだけでなく)
事件などもあって活動は逆に拡大をみせ、中国共産党は学生だけでなく
(じゃーなりすとのはんかんをもかった。)
ジャーナリストの反感をも買った。
(4がつ29にちごごに、えんきこくむいんほうどうかん、あがとうまさこっかきょういくいいんかいふくしゅにんと)
4月29日午後に、袁木国務院報道官、何東昌国家教育委員会副主任と
(ぺきんしのかんぶがこうこうせいとかいけんした。りほうからよん・にろくしゃせつを)
北京市の幹部が高校生と会見した。李鵬から四・二六社説を
(ようごするようしじをうけていたえんきはとうないにふはいがあることを)
擁護するよう指示を受けていた袁木は党内に腐敗があることを
(みとめたものの、「だいたすうのとうかんぶはすばらしい」とのべ、)
認めたものの、「大多数の党幹部はすばらしい」と述べ、
(「せかいけいざいどうほう」じけんがあったちょくごにもかかわらず「けんえつせいどなどない」)
『世界経済導報』事件があった直後にもかかわらず「検閲制度など無い」
(とひていし、「でもはいちぶのくろまくにあやつられている」)
と否定し、「デモは一部の黒幕に操られている」
(とこうしせいをつづけた。このもようがよるにほうそうされると、)
と高姿勢を続けた。この模様が夜に放送されると、
(がくせいはこうぎでもにくりだした。)
学生は抗議デモに繰り出した。
(でものかくだい)
デモの拡大
(ちょうしよう)
趙紫陽
(ちょうしようは4がつ30にちにきたちょうせんからきこくし、よく5がつ1にちのじょうむいいんかいで)
趙紫陽は4月30日に北朝鮮から帰国し、翌5月1日の常務委員会で
(ちつじょのかいふくとせいじかいかくのどちらをゆうせんさせるかでりほうしゅしょうとたいりつしたが、)
秩序の回復と政治改革のどちらを優先させるかで李鵬首相と対立したが、
(5がつ4にちのご・よんうんどう70しゅうねんきねんびまでにでもを)
5月4日の五・四運動70周年記念日までにデモを
(すばやくおさえることでいっちした。)
素早く抑えることで一致した。
(ご・よんうんどうの70しゅうねんきねんびであるぜんじつ5がつ3にちにひらかれたしきてんでは、)
五・四運動の70周年記念日である前日5月3日に開かれた式典では、
(ぺきんのがくせい・しみんらやく10まんにんがふたたびみんしゅかをもとめるでもとしゅうかいをいった。)
北京の学生・市民ら約10万人が再び民主化を求めるデモと集会を行った。
(ちょうしようはがくせいのかいかくようきゅうを「あいこくてき」であるとひょうかし、ごごからは)
趙紫陽は学生の改革要求を「愛国的」であると評価し、午後からは
(あじあかいはつぎんこうりじそうかいでもどうようにこうていてきなはつげんをした。)
アジア開発銀行理事総会でも同様に肯定的な発言をした。
(がくせいうんどうしゅうそくにきたいがもたれ、とうないぶのひょうかはまずまずだった。)
学生運動終息に期待が持たれ、党内部の評価はまずまずだった。
(とうしょうへいやほしゅはのちょうろうもあゆみよりをみせたが、5がつ13にちからはじまった)
鄧小平や保守派の長老も歩み寄りを見せたが、5月13日から始まった
(はんがーすとらいきが「よん・にろくしゃせつ」からじゅうなんろせんへのてんかんを)
ハンガーストライキが「四・二六社説」から柔軟路線への転換を
(はたんさせた。ごるばちょふほうちゅうまえにかつどうをしゅうそくさせることでさか、)
破綻させた。ゴルバチョフ訪中前に活動を収束させることで鄧、
(ようしょうこん(こっかしゅせき)、ちょうの3にんはいっちしたが、えんすなお(こくむいんほうどうかん))
楊尚昆(国家主席)、趙の3人は一致したが、袁木(国務院報道官)
(らほしゅはがおくりこんだせいふがわだいひょうのそんだいなたいどにがくせいがわのたいどはこうかし、)
ら保守派が送り込んだ政府側代表の尊大な態度に学生側の態度は硬化し、
(さらにがくせいがわも「よん・にろくしゃせつ」のてっかいにこしゅうしたため)
さらに学生側も「四・二六社説」の撤回に固執したため
(はんがーすとらいきのしゅうけつはこんなんとなった。)
ハンガーストライキの終結は困難となった。
(このころぜんどからてんあんもんひろばにあつまるがくせいやろうどうしゃなどのでもたいのかずは)
この頃全土から天安門広場に集まる学生や労働者などのデモ隊の数は
(50まんにんちかくになり、こうあん(けいさつ)によるきせいはきかなくなり、)
50万人近くになり、公安(警察)による規制は効かなくなり、
(てんあんもんひろばはしだいにしみんがいけんをじゆうにはっぴょうできるばへとへんぼうしていった。)
天安門広場は次第に市民が意見を自由に発表できる場へと変貌していった。
(あわせていぎりすのしょくみんちであったほんこん、にほんやあめりかがっしゅうこくなどの)
併せてイギリスの植民地であった香港、日本やアメリカ合衆国などの
(しょがいこくにりゅうがくしたがくせいによるこくがいでのしえんかつどうもかっぱつかしていった。)
諸外国に留学した学生による国外での支援活動も活発化していった。
(このみんしゅかうんどうのしどうしゃは、かんみんぞくしゅっしんのだいがくせいであるおうたんやちゃいりん、)
この民主化運動の指導者は、漢民族出身の大学生である王丹や柴玲、
(ういぐるぞくしゅっしんのうーあるかいし(わがなんじひらきのぞみ)などで、5がつ18にちごぜんに)
ウイグル族出身のウーアルカイシ(吾爾開希)などで、5月18日午前に
(りほう、すももてつうつり、えんめいふく、ちんきどうらがかれらとかいけんした。まずりほうが)
李鵬、李鉄映、閻明復、陳希同らが彼らと会見した。まず李鵬が
(「かいけんのもくてきははんすとをおわらせるほうほうをかんがえることだ」とはつげんすると、)
「会見の目的はハンストを終わらせる方法を考えることだ」と発言すると、
(うーあるかいしは「じっしつてきなはなしあいをしたい。われわれはりほうを)
ウーアルカイシは「実質的な話し合いをしたい。我々は李鵬を
(しょうたいしたのであって、ぎだいはわれわれがきめる」とはんろんした。)
招待したのであって、議題は我々が決める」と反論した。
(がくせいがわは「がくせいうんどうをあいこくてきなものとすること」と、)
学生側は「学生運動を愛国的なものとすること」と、
(「がくせいとしどうしゃのたいわをなまほうそうでほうそうすること」をようきゅうしたが、)
「学生と指導者の対話を生放送で放送すること」を要求したが、
(りほうは「このばでこたえることはてきとうではないし、2つのじょうけんは)
李鵬は「この場で答えることは適当ではないし、2つの条件は
(はんすとしゅうけつとかんれんづけるべきではない」とはなし、)
ハンスト終結と関連付けるべきではない」と話し、
(かいけんはものわかれにおわった。りほうをはげしくひなんするすがたがぜんせかいに)
会見は物別れに終わった。李鵬を激しく非難する姿が全世界に
(てれびによりながされたことでちゅうもくをあつめることとなった。)
テレビにより流されたことで注目を集めることとなった。
(ごるばちょふほうちゅう)
ゴルバチョフ訪中
(ごるばちょふふさい)
ゴルバチョフ夫妻
(このようなじょうきょうかで、5がつ15にちには「かいかくは」としてせかいてきにしられ、)
このような状況下で、5月15日には「改革派」として世界的に知られ、
(そびえとこくないのかいかくをすすめていたみはいる・ごるばちょふしょきちょうが、)
ソビエト国内の改革を進めていたミハイル・ゴルバチョフ書記長が、
(れいせんじだいの1950ねんだいよりつづいていたちゅうそたいりつのしゅうけつをひょうめいするために、)
冷戦時代の1950年代より続いていた中ソ対立の終結を表明するために、
(とうしょのよていどおりぺきんをこうしきほうもんした。)
当初の予定通り北京を公式訪問した。
(ちゅうごくきょうさんとうは、ごるばちょふととうしょうへいらきょうさんとうしゅのうぶとのかいだんをつうじて)
中国共産党は、ゴルバチョフと鄧小平ら共産党首脳部との会談を通じて
(ちゅうそかんけいのせいじょうかをかくにんすることで、「ちゅうそかんのゆきどけ」をせかいに)
中ソ関係の正常化を確認することで、「中ソ間の雪解け」を世界に
(むけてはっしんしようとしてめんみつにうけいれじゅんびをすすめていたが、)
向けて発信しようとして綿密に受け入れ準備を進めていたが、
(てんあんもんひろばをはじめとするぺきんしないのようしょようしょがみんしゅかをもとめる)
天安門広場をはじめとする北京市内の要所要所が民主化を求める
(でもたいであふれており、とうきょくによるこうつうきせいをおこなうことがふかのうな)
デモ隊で溢れており、当局による交通規制を行うことが不可能な
(じょうきょうになっていた。)
状況になっていた。
(このため、ごるばちょふいっこうのしないのいどうにさえししょうをきたしたばかりか、)
このため、ゴルバチョフ一行の市内の移動にさえ支障を来したばかりか、
(てんあんもんひろばでのかんげいしきてんがちゅうしされるなど、おおくのこうしきぎょうじが)
天安門広場での歓迎式典が中止されるなど、多くの公式行事が
(ちゅうしになったりかいさいばしょをへんこうしておこなわれることとなった。)
中止になったり開催場所を変更しておこなわれることとなった。
(とうしょうへいどうしは1978ねんのだい11きさんちゅうぜんかいよりこくないがいがみとめるわれわれの)
鄧小平同志は1978年の第11期三中全会より国内外が認める我々の
(とうのしどうしゃだ。だいじゅうさんかいとうたいかいにおけるかれのようきゅうにもとづき、)
党の指導者だ。第十三回党大会における彼の要求に基づき、
(ちゅうおういいんかい、せいじきょくとせいじきょくじょうむいいんかいからはしりぞいたが、)
中央委員会、政治局と政治局常務委員会からは退いたが、
(われわれぜんとうはかれから、かれのちしきとけいけんからははなれられないことをしっている。)
我々全党は彼から、彼の知識と経験からは離れられないことを知っている。
(1つひみつをはなそう。だい13きいちちゅうぜんかいではせいしきなけっていをいっている。)
1つ秘密を話そう。第13期一中全会では正式な決定を行っている。
(これはこうふしていないがじゅうようなけっていだ。つまり、われわれは)
これは公布していないが重要な決定だ。 つまり、我々は
(もっともじゅうようなもんだいにおいてかれのしどうをひつようとするというものだ。)
最も重要な問題において彼の指導を必要とするというものだ。