六四天安門事件4

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(と「さいしゅうけっていけんがとうしょうへいにある」ことをあかしたが、)

と「最終決定権が鄧小平にある」ことを明かしたが、

(がくせいたちのほこさきをとうしょうへいにむけたとして、だい13き4ちゅうぜんかいで)

学生たちの矛先を鄧小平に向けたとして、第13期4中全会で

(「ざいじょう」にかぞえられることとなった。)

「罪状」に数えられることとなった。

(がいこくめでぃあのほうどうのおおくは、じこくのみんしゅかをすすめる)

外国メディアの報道の多くは、自国の民主化を進める

(ごるばちょふのほうちゅうと、ちゅうごくにおけるいちれんのみんしゅかうんどうを)

ゴルバチョフの訪中と、中国における一連の民主化運動を

(からめたものになった。また、このほうちゅうをうけてりょうこくかんのかんけいが)

絡めたものになった。また、この訪中を受けて両国間の関係が

(せいじょうかされることとなったものの、でもたいのおおくがごるばちょふを)

正常化されることとなったものの、デモ隊の多くがゴルバチョフを

(「かいかくはのいちいん」「みんしゅしゅぎのたいし」としてかんげいするひとまくが)

「改革派の一員」「民主主義の大使」として歓迎する一幕 が

(ほうどうされるなど、けっかてきにはちゅうごくきょうさんとうのめんつがかんぜんに)

報道されるなど、結果的には中国共産党のメンツが完全に

(つぶされるけっかになった。)

潰される結果になった。

(ごるばちょふは、このようなけっかになることをよそうして)

ゴルバチョフは、この様な結果になることを予想して

(あえてほうちゅうじきをへんこうせず、またちゅうごくきょうさんとうもごるばちょふの)

あえて訪中時期を変更せず、また中国共産党もゴルバチョフの

(ほうちゅうよていびをあえてへんこうしないことで、ながねんたいりつしてきた)

訪中予定日をあえて変更しないことで、長年対立してきた

(それんにたいするめんつをたもつとともに、こくないの「へいせい」を)

ソ連に対するメンツを保つとともに、国内の「平静」を

(ないがいにあぴーるしようとしたねらいがあったといわれている。)

内外にアピールしようとした狙いがあったと言われている。

(ごるばちょふは、とうしょのよていどおり5がつ17にちに)

ゴルバチョフは、当初の予定通り5月17日に

(きたきょうしゅとこくさいくうこうからきこくした。)

北京首都国際空港から帰国した。

(かいげんれいふこく)

戒厳令布告

(このころのちゅうごくきょうさんとうしどうぶは、ほしゅはのちょうろうによってそうしょきの)

この頃の中国共産党指導部は、保守派の長老によって総書記の

(ざにえらばれたものの、みんしゅかをもとめるがくせいらのいけんに)

座に選ばれたものの、民主化を求める学生らの意見に

など

(どうじょうてきなたいどをとったかいかくはのちょうしようそうしょきやこけいりつしょきなどと、)

同情的な態度を取った改革派の趙紫陽総書記や胡啓立書記などと、

(りほうしゅしょうやよういりんふくしゅしょうらのきょうこうはにわかれたが、5がつ17にちに)

李鵬首相や姚依林副首相らの強硬派に分かれたが、5月17日に

(ごるばちょふがぺきんをはなれるまでのあいだは、このようなじたいにたいして)

ゴルバチョフが北京を離れるまでの間は、この様な事態に対して

(ことをあらだてるようなせいじてきなうごきをみせなかった。)

事を荒立てるような政治的な動きを見せなかった。

(5がつ16にちよる、ちょうしよう、りほう、こけいりつ、きょうせき、よういりんの5にんの)

5月16日夜、趙紫陽、李鵬、胡啓立、喬石、姚依林の5人の

(せいじきょくじょうむいいんかいがひらかれ、がくせいたちのようきゅうする)

政治局常務委員会が開かれ、学生たちの要求する

(「よん・にろくしゃせつ」のしゅうせいについてはなしあわれ、)

「四・二六社説」の修正について話し合われ、

(ちょうしようはしゅうせいにさんせい、りほうははんたいしたため、けっちゃくしなかった。)

趙紫陽は修正に賛成、李鵬は反対したため、決着しなかった。

(かいげんれいのふこくをけっていしたとうしょうへい)

戒厳令の布告を決定した鄧小平

(5がつ17にちごごにあらためて、とうちょうろうでじじつじょうのさいこうけんりょくしゃである)

5月17日午後に改めて、党長老で事実上の最高権力者である

(とうしょうへいちゅうぐんいしゅせきにくわえようしょうこんこっかしゅせきをふくめたかいぎが)

鄧小平中軍委主席に加え楊尚昆国家主席を含めた会議が

(とうしょうへいのじたくでおこなわれたところ、かいげんれいのふこくについて)

鄧小平の自宅で行われたところ、戒厳令の布告について

(ちょうしようとこけいりつがはんたい、りほうとよういりんがさんせい、きょうせきがちゅうりつの)

趙紫陽と胡啓立が反対、李鵬と姚依林が賛成、喬石が中立の

(いけんをひょうめいし、5にんのせいじきょくじょうむいいんかいはわれた。)

意見を表明し、5人の政治局常務委員会は割れた。

(せいじきょくじょうむいいんではないようしょうこんがさんせいをひょうめいしたあと、)

政治局常務委員ではない楊尚昆が賛成を表明した後、

(せいじきょくじょうむいいんかいによるとうひょうをすることなく、とうしょうへいは)

政治局常務委員会による投票をすることなく、鄧小平は

(いかのようにはつげんしかいげんれいのふこくをけっていした。)

以下のように発言し戒厳令の布告を決定した。

(「じたいのしんてんをみればわかるように、4がつ26にちつきしゃせつのはんだんは)

「事態の進展を見ればわかるように、4月26日付社説の判断は

(ただしかった。がくせいでもがいまだちんせいかしないげんいんはとうないにある。)

正しかった。学生デモが未だ沈静化しない原因は党内にある。

(すなわち、ちょう(しよう)が5がつ4にちにあじあかいはつぎんこうのそうかいで)

すなわち、趙(紫陽)が5月4日にアジア開発銀行の総会で

(いったえんぜつがげんいんなのだ。いまここでこうたいするしせいをしめせば、)

行った演説が原因なのだ。今ここで後退する姿勢を示せば、

(じたいはきゅうげきにあっかし、とうせいはかんぜんにうしなわれる。)

事態は急激に悪化し、統制は完全に失われる。

(よって、ぺきんしないにぐんをてんかいし、かいげんれいをしくこととする。」)

よって、北京市内に軍を展開し、戒厳令を敷くこととする。」

(とうしょうへい)

鄧小平

(これにたいし、ちょうしようはいかのようにのべ、かいげんれいのはつどうを)

これに対し、趙紫陽は以下のように述べ、戒厳令の発動を

(きょひしたため、とうしょうへいはりほう、ようしょうこん、きょうせきの3にんを)

拒否したため、鄧小平は李鵬、楊尚昆、喬石の3人を

(かいげんれいじっしのせきにんしゃににんめいした。)

戒厳令実施の責任者に任命した。

(「けっていをくださないよりはくだしたほうがよいけれども、こんかいのけっていが)

「決定を下さないよりは下した方が良いけれども、今回の決定が

(まねくであろうしんこくなじたいをたいへんゆうりょしている。そうしょきとして、)

招くであろう深刻な事態を大変憂慮している。総書記として、

(このけっていないようをすいしんし、こうかてきにじっこうすることはわたしにはむずかしい。」)

この決定内容を推進し、効果的に実行することは私には難しい。」

(ちょうしよう)

趙紫陽

(5がつ19にちごぜん5じごろ、ちょうしようはとうじとうちゅうおうべんこうちょうしゅにんをつとめていた)

5月19日午前5時頃、趙紫陽は当時党中央弁公庁主任を務めていた

(おんかほうをつれて、はんがーすとらいきをつづけるがくせいを)

温家宝を連れて、ハンガーストライキを続ける学生を

(みまうなかでなみだをみせ、がくせいたちのあいこくせいしんをほめたたえ、)

見舞う中で涙を見せ、学生たちの愛国精神を褒め称え、

(「しょくんはまだわかいのだからいのちをそまつにしてはいけない」と、)

「諸君はまだ若いのだから命を粗末にしてはいけない」と、

(せまりつつあったりゅうけつのさんじをさけるために、がくせいたちにはんすとの)

迫りつつあった流血の惨事を避けるために、学生たちにハンストの

(ちゅうしをうながしたが、がくせいたちにはしんいがじゅうぶんにつたわらなかった。)

中止を促したが、学生たちには真意が十分に伝わらなかった。

(しかし、ちょうしようのえんぜつはがくせいたちにかんげいされ、はくしゅはやまなかった。)

しかし、趙紫陽の演説は学生たちに歓迎され、拍手は止まなかった。

(5がつ20にち、とうしょうへいはじたくでひこうしきかいごうをひらき、ちょうしようのかいにんを)

5月20日、鄧小平は自宅で非公式会合を開き、趙紫陽の解任を

(じじつじょうけっていした。そのあと、6がつ19にちのせいじきょくかくだいかいぎで)

事実上決定した。その後、6月19日の政治局拡大会議で

(「どうらんをしじし、とうをぶんれつさせた」として、ちょうしようはとうないがいの)

「動乱を支持し、党を分裂させた」として、趙紫陽は党内外の

(ぜんやくしょくをかいにんされじたくなんきんもとにおかれ、これいこうせいじのおもてぶたいからすがたをけした。)

全役職を解任され自宅軟禁下に置かれ、これ以降政治の表舞台から姿を消した。

(5がつ19にちごご10じ、とうちゅうおう、こくむいんがちゅうおうと)

5月19日午後10時、党中央、国務院が中央と

(ぺきんしとうまつりごとぐんかんぶだいかいをひらき、かいげんれいふこくのはっぴょうをいった。)

北京市党政軍幹部大会を開き、戒厳令布告の発表を行った。

(とうちゅうおう、ぜんじんだい、こくむいん、ちゅうおうぐんじいいんかい、ちゅうおうこもんいいんかい、)

党中央、全人代、国務院、中央軍事委員会、中央顧問委員会、

(ちゅうおうきりつけんさいいんかい、ぜんこくせいきょうとぺきんしのふくぶちょうきゅうのかんぶおよび、)

中央紀律検査委員会、全国政協と北京市の副部長級の幹部および、

(とうちゅうおうべんこうちょう、こくむいんべんこうちょうのきょくちょうくらすがしゅっせきした。)

党中央弁公庁、国務院弁公庁の局長クラスが出席した。

(ちょうしようは「たいちょうふりょう」によりけっせきすることがたいかいをしゅさいする)

趙紫陽は「体調不良」により欠席することが大会を主催する

(きょうせきからつたえられ、ちょうしようにわりふられていたこうわは)

喬石から伝えられ、趙紫陽に割り振られていた講話は

(ようしょうこんこっかしゅせきがたんとうした。まずりしゃくめいぺきんしとういしょきが)

楊尚昆国家主席が担当した。まず李錫銘北京市党委書記が

(ぺきんしのじょうきょうをせつめいし、つづいてりほうがかいげんれいのひつようせいを)

北京市の状況を説明し、続いて李鵬が戒厳令の必要性を

(うったえるこうわをいった。)

訴える講話を行った。

(これいこうはほしゅはによってかいげんれいたいせいのきょうかが)

これ以降は保守派によって戒厳令体制の強化が

(おこなわれることになったものの、23にちにはかいげんれいふこくに)

行われることになったものの、23日には戒厳令布告に

(こうぎするためにぺきんしないで100まんにんきぼのでもがおこなわれるなど、)

抗議するために北京市内で100万人規模のデモが行われるなど、

(じたいはちんせいかしないばかりかますますかくだいしていく。また、)

事態は沈静化しないばかりか益々拡大して行く。また、

(せいふによるかいげんれいのふこくをうけて、にほんやふらんすを)

政府による戒厳令の布告を受けて、日本やフランスを

(はじめとするおおくのにしがわしょこくのせいふは、じこくみんのこくがいだっしゅつを)

はじめとする多くの西側諸国の政府は、自国民の国外脱出を

(うながすようになった。)

促すようになった。

(こうしたなか、かなだをほうもんちゅうのぜんじんだいじょうむいいんちょうのばんりが、)

こうした中、カナダを訪問中の全人代常務委員長の万里が、

(「かいかくをうながすあいこくこうどう」とがくせいうんどうをひょうしたはつげんを5がつ17にちづけで)

「改革を促す愛国行動」と学生運動を評した発言を5月17日付けで

(しんかしゃがほうじたことで、がくせいたちだけでなくしゃかいぜんたいに)

新華社が報じたことで、学生たちだけでなく社会全体に

(きぼうがうまれた。ぜんじんだいじょうむいいんらがばんりのしゅっこくまえに)

希望が生まれた。全人代常務委員らが万里の出国前に

(6がつ20にちぜんごとなっていたじょうむいいんかいのくりあげかいさいにほんそうし、)

6月20日前後となっていた常務委員会の繰上げ開催に奔走し、

(りほうかいにんようきゅうやかいげんれいはんたいのきうんがたかまりかけたものの、)

李鵬解任要求や戒厳令反対の機運が高まりかけたものの、

(ばんりじしんはぺきんにはもどらず「びょうきりょうよう」のためしゃんはいにはいり、)

万里自身は北京には戻らず「病気療養」のため上海に入り、

(こうたくみんをせっとくやくとしてへんしんさせた。)

江沢民を説得役として変心させた。

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