六四天安門事件5

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(2にちご、ばんりはとうちゅうおうのけっていにたいしいってんして「しじ」をひょうめいする。)

2日後、万里は党中央の決定に対し一転して「支持」を表明する。

(ぶりてぃっしゅころんびあだいがくにおかれたみんしゅのめがみのれぷりか)

ブリティッシュコロンビア大学に置かれた民主の女神のレプリカ

(ぶりょくかいにゅうがさけられないじょうきょうとなったことで、ちしきじんらはがくせいたちに)

武力介入が避けられない状況となったことで、知識人らは学生たちに

(てっしゅうをうながしたものの、ちほうからしゅうけつしたきょうこうはがたすうをしめた)

撤収を促したものの、地方から集結した強硬派が多数を占めた

(がくせいがわのはなしあいではんたいひょうが9わりをこえたため、てっしゅうはふかのうとなった。)

学生側の話し合いで反対票が9割を超えたため、撤収は不可能となった。

(5がつ30にちには、てんあんもんひろばのちゅうしんに、にゅーよーくしの)

5月30日には、天安門広場の中心に、ニューヨーク市の

(「じゆうのめがみ」をもした「みんしゅのめがみ」ぞうがぺきんびじゅつがくいんの)

「自由の女神」を模した「民主の女神」像が北京美術学院の

(がくせいによってつくられ、そのあとこのぞうは、みんしゅかかつどうの)

学生によって作られ、その後この像は、民主化活動の

(しんぼるとしてせかいじゅうのめでぃあでとりあげられた。)

シンボルとして世界中のメディアで取り上げられた。

(また、このころほんこんやちゅうかみんこく(たいわん)、あめりかがっしゅうこくなど、)

また、この頃香港や中華民国(台湾)、アメリカ合衆国など、

(こくがいのかきょうによるみんしゅかすいしんはしえんのかつどうがかっぱつになっていた。)

国外の華僑による民主化推進派支援の活動が活発になっていた。

(ほうどうかんせい)

報道管制

(かいげんれいのふこくをうけてきびしいほうどうかんせいがしかれ、にほんやいぎりす、)

戒厳令の布告を受けて厳しい報道管制が敷かれ、日本やイギリス、

(にしどいつなどのにしがわしょこくのてれびきょくによるなまちゅうけいのためのかいせんは)

西ドイツなどの西側諸国のテレビ局による生中継のための回線は

(ちゅうごくきょうさんとうによってつぎつぎとしゃだんされていたものの、あめりかがっしゅうこくの)

中国共産党によって次々と遮断されていたものの、アメリカ合衆国の

(cnnは、いぜんとしてせかいかっこくへむけたなまちゅうけいをつづけていた。)

CNN は、依然として世界各国へ向けた生中継を続けていた。

(これにごうをにやしたちゅうごくきょうさんとうのじょうそうぶは、cnnがなまほうそうを)

これに業を煮やした中国共産党の上層部は、CNNが生放送を

(いっていたさいちゅうにげんばにかかりかんとけいさつかんをはけんして、ほうそうを)

行っていた最中に現場に係官と警察官を派遣して、放送を

(ちゅうしするようようきゅうしたが、てれびかめらがまわりつづけていたために、)

中止するよう要求したが、テレビカメラが回り続けていたために、

(とくはいんのばーなーど・しょーらcnnのすたっふとかかりいんのやりとりも、)

特派員のバーナード・ショーらCNNのスタッフと係員のやり取りも、

など

(そのままなまちゅうけいされ、ちゅうごくきょうさんとうによるほうどうかんせいのじったいがせかいじゅうに)

そのまま生中継され、中国共産党による報道管制の実態が世界中に

(はっしんされた。)

発信された。

(なおそのあとのにしがわめでぃあによるほうどうは、おもにびでおてーぷしゅうろくに)

なおその後の西側メディアによる報道は、主にビデオテープ収録に

(よるろくがちゅうけいと、こていでんわやこうしゅうでんわをしようした、おんせいによる)

よる録画中継と、固定電話や公衆電話を使用した、音声による

(なまちゅうけいによっておこなわれるようになった。また、みんしゅかすいしんはが)

生中継によって行われるようになった。また、民主化推進派が

(ほんこんやたいわんなど、こくがいのみんしゅかすいしんはのしえんしゃやめでぃあにたいして、)

香港や台湾など、国外の民主化推進派の支援者やメディアに対して、

(ふぁくしみりをつかって、ぺきんしないやせいふないぶのじょうきょうを)

ファクシミリを使って、北京市内や政府内部の状況を

(おいっぽうつしていたといわれている。)

逐一報告していたといわれている。

(ぶりょくだんあつ)

武力弾圧

(6がつにはいると、ちほうからぞくぞくとじんみんかいほうぐんのぶたいがぺきんに)

6月に入ると、地方から続々と人民解放軍の部隊が北京に

(しゅうけつしていることがにしがわのめでぃあによってほうじられたこともあり、)

集結していることが西側のメディアによって報じられたこともあり、

(じんみんかいほうぐんによるぶりょくだんあつがちかいとのうわさがこくないだけでなくがいこくの)

人民解放軍による武力弾圧が近いとの噂が国内だけでなく外国の

(めでぃあによってもほうじられるようになる。)

メディアによっても報じられるようになる。

(じっさいに6がつ3にちのよるおそくには、てんあんもんひろばのしゅうへんにじんみんかいほうぐんの)

実際に6月3日の夜遅くには、天安門広場の周辺に人民解放軍の

(そうこうへいいんゆそうしゃがしゅうけつしはじめ、かんぜんぶそうしたへいしがはいちに)

装甲兵員輸送車が集結し始め、完全武装した兵士が配置に

(ついたことがにしがわのがいこうかんやほうどうじんによってかくにんされた。)

着いたことが西側の外交官や報道陣によって確認された。

(そのあと6がつ3にちのよなかから6がつ4にちみめいにかけて、かいげんれいじっしの)

その後6月3日の夜中から6月4日未明にかけて、戒厳令実施の

(せきにんしゃであるりほうしゅしょうのしじによって、じんみんかいほうぐんのそうこうしゃを)

責任者である李鵬首相の指示によって、人民解放軍の装甲車を

(ふくむかんぜんぶそうされたぶたいが、てんあんもんひろばをちゅうしんにした)

含む完全武装された部隊が、天安門広場を中心にした

(みんしゅかようきゅうをするだいがくせいをちゅうしんとしたみんしゅうにたいしてとうにゅうされた。)

民主化要求をする大学生を中心とした民衆に対して投入された。

(ふくすうのがいこくめでぃあやたいしかんからのこうでんによれば、かいほうぐんのしんこうは)

複数の外国メディアや大使館からの公電によれば、解放軍の進行は

(いったんはかずでまさるみんしゅうによってそしされたものの、そのあとこれらの)

一旦は数で勝る民衆によって阻止されたものの、その後これらの

(ぶたいはちゅうごくきょうさんとうしゅのうぶのめいれいにちゅうじつに、しがいちでみんしゅうに)

部隊は中国共産党首脳部の命令に忠実に、市街地で民衆に

(たいしてむさべつにはっぽうしたとつたえられた。)

対して無差別に発砲したと伝えられた。

(このさいに、ちゅうごくじんみんかいほうぐんのとらっくは、じぜんにみんしゅうに)

この際に、中国人民解放軍のトラックは、事前に民衆に

(しゅうげきされており、ぶきやだんやくのいちぶがうばわれていた。)

襲撃されており、武器や弾薬の一部が奪われていた。

(げんばにいたしくんしのひとりであるたかしん(ちゅうごくごばん)のしょうげんによると、)

現場に居た四君子の一人である高新(中国語版)の証言によると、

(とうじのてんあんもんひろばには、てつぱいぷ、かえんびん、らいふる1ちょう、)

当時の天安門広場には、鉄パイプ、火炎瓶、ライフル1丁、

(きかんじゅう1ちょうがあり、みんしゅうはひぶそう・むていこうではなくじんみんぐんと)

機関銃1丁があり、民衆は非武装・無抵抗ではなく人民軍と

(せんとうをおこなうじゅんびがあるていどはととのっていた。)

戦闘を行う準備がある程度は整っていた。

(ひろばへとつづくどうろではみんしゅうがばすをおうてんさせほうかし、)

広場へと続く道路では民衆がバスを横転させ放火し、

(ほのおのばりけーどをつくり、はしのうえからはいしやこんくりーとぶろっくを)

炎のバリケードを作り、橋の上からは石やコンクリートブロックを

(へいしになげつけた。へいしのいちぶはでもたいにまきこまれ、ぼうこうされ、)

兵士に投げつけた。兵士の一部はデモ隊に巻き込まれ、暴行され、

(ぼくさつされるものもいた。)

撲殺される者も居た。

(あるいはにげおくれたへいしをみんしゅうがつかまえ、がそりんをかけてもやし、)

或いは逃げ遅れた兵士を民衆が捕まえ、ガソリンを掛けて燃やし、

(したいをりっきょうにぶらさげるなど、みんしゅうによるざんにんなこういもあった。)

死体を陸橋にぶら下げるなど、民衆による残忍な行為もあった。

(じんみんかいほうぐんだい54ぐんではみんしゅうのぼうこうをうけ、ししゃ1めい、)

人民解放軍第54軍では民衆の暴行を受け、死者1名、

(じゅうしょう246めい、けいしょう1,500めい、しっそう150めいというひがいをうけたが、)

重傷246名、軽傷1,500名、失踪150名という被害を受けたが、

(じょうそうぶからのめいれいをまもり、さいごまではっぽうしなかった。)

上層部からの命令を守り、最後まで発砲しなかった。

(てんあんもんじけんをけんきゅうしているにじゅういちせいきちゅうこくそうけんのでぃれくたーで)

天安門事件を研究している二十一世紀中国総研のディレクターで

(よこはましりつだいがくめいよきょうじゅのやぶきすすむはこのじょうきょうについて、)

横浜市立大学名誉教授の矢吹晋はこの状況について、

(じんみんかいほうぐんのはっぽうはみかたがししょうするようなじゅうだいきょくめんでおこなわれており、)

人民解放軍の発砲は味方が死傷する様な重大局面で行われており、

(いっぽうてきなぎゃくさつではなくそうほうにひがいのあるしがいせんだったとのべている。)

一方的な虐殺ではなく双方に被害のある市街戦だったと述べている。

(また、やぶきは89ねん12がつ4にちの「よみうりしんぶん」ゆうかんにおいても、)

また、矢吹は89年12月4日の『読売新聞』夕刊においても、

(てんあんもんでのぎゃくさつはふたしかなうわさやでまにもとづくごほうだとしてきした。)

天安門での虐殺は不確かな噂やデマに基づく誤報だと指摘した。

(ひとばんちゅうげんばにいたすぺいんこくえいてれびのきょくとうしきょくとくはいん)

一晩中現場に居たスペイン国営テレビの極東支局特派員

(ふぁん・れすとれぽきしゃもおなじく、ほんごくのまどりーどにおくった)

ファン・レストレポ記者も同じく、本国のマドリードに送った

(てーぷがしいてきにへんしゅうされ、ひろばでのぎゃくさつというゆがんだじじつが)

テープが恣意的に編集され、広場での虐殺という歪んだ事実が

(ほうどうされてしまったとのべている。しかしたいりょうのぎゃくさつが)

報道されてしまったと述べている。しかし大量の虐殺が

(ひろばでなかったとはいえひろばでのすうめいのししゃやおおくのじゅうけいしょうしゃ、)

広場でなかったとはいえ広場での数名の死者や多くの重軽傷者、

(そしてひろばいがいですくなくとも300にんいじょうがさつがいされたという)

そして広場以外で少なくとも300人以上が殺害されたと言う

(おうべいがわの「きろく」がある。)

欧米側の「記録」がある。

(ひろばへつづくどうろでのぶりょくちんあつはすうじかんつづき、6がつ4にちみめいいこうも)

広場へ続く道路での武力鎮圧は数時間続き、6月4日未明以降も

(てんあんもんひろばにのこったみんしゅうのいちぶは、さいしゅうてきにじんみんかいほうぐんのせっとくに)

天安門広場に残った民衆の一部は、最終的に人民解放軍の説得に

(おうじてひろばからたいきょした。)

応じて広場から退去した。

(また、すぺいんのほうそうきょくがさつえいしたえいぞうによると、がくせいをふくむ)

また、スペインの放送局が撮影した映像によると、学生を含む

(みんしゅうにたいしてぐんからのたいきょめいれいはおこなわれていたが、おおくのがくせいを)

民衆に対して軍からの退去命令は行われていたが、多くの学生を

(ふくむみんしゅうはまだひろばにのこっていた。)

含む民衆はまだ広場に残っていた。

(なお、がくせいうんどうのりーだーたちのいちぶは、ぶりょくとつにゅうまえにからくも)

なお、学生運動のリーダー達の一部は、武力突入前にからくも

(げんばからてっしゅうし、しえんしゃらのてびきによりちゅうごくこくがいへぼうめいした。)

現場から撤収し、支援者らの手引により中国国外へ亡命した。

(1995ねんにせいさくされたあめりかのどきゅめんたりーえいが)

1995年に製作されたアメリカのドキュメンタリー映画

(「てんあんもんthegateofheavenlypeace」のなかで、)

「天安門THE GATE OF HEAVENLY PEACE」の中で、

(じけんはっせいじにすでにぬけだしていたがくせいがわりーだーのちゃいりんは)

事件発生時に既に脱出していた学生側リーダーの柴玲は

(いんたびゅーにたいし、「りゅうけつをきたいしていた。ちゅうごくきょうさんとうせいふを)

インタビューに対し、「流血を期待していた。中国共産党政府を

(おいつめてじんみんをぎゃくさつさせなければ、みんしゅうはめざめない。」)

追い詰めて人民を虐殺させなければ、民衆は目覚めない。」

(とはつげんした。げんばにいなかったちゃいりんはひろばでせんしゃががくせいを)

と発言した。現場に居なかった柴玲は広場で戦車が学生を

(おしつぶしたとなきながらしょうげんしたが、さいごまでげんばにのこって)

押しつぶしたと泣きながら証言したが、最後まで現場に残って

(がくせいがだっしゅつするためのとらっくをてはいしていたこうとくけん)

学生が脱出するためのトラックを手配していた候徳健

((たいわんからぼうめいしてきたゆうめいさっきょくか)は、せんしゃはひろばのそとに)

(台湾から亡命してきた有名作曲家)は、戦車は広場の外に

(いたしひろばでぎゃくさつなどまったくおきなかったとしょうげんしている。)

居たし広場で虐殺など全く起きなかったと証言している。

(また、がくせいがわりーだーのひとりだったうーあるかいしもひろばで)

また、学生側リーダーの一人だったウーアルカイシも広場で

(せんにんがころされたとしょうげんしたが、これについてもこうとくけんは、)

千人が殺されたと証言したが、これについても候徳健は、

(「じぶんはごぜん6じはんまでげんばにいたが、ひろばではひとりのししゃも)

「自分は午前6時半まで現場にいたが、広場では一人の死者も

(みていない。うーあるかいしはすでにげんばからだっしゅつしており、)

見ていない。ウーアルカイシは既に現場から脱出しており、

(じけんをもくげきしていない」としょうげんしている。)

事件を目撃していない」と証言している。

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