六四天安門事件7
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問題文
(1989ねん6がつ5にちにさくせいされ、2017ねん12がつ23にちにきみつかいじょされた)
1989年6月5日に作成され、2017年12月23日に機密解除された
(えいこくせいふのこうぶんしょでは、「さいていにみつもってもいっぱんしみんのししゃは)
英国政府の公文書では、「最低に見積もっても一般市民の死者は
(10000にんいじょうがちゅうごくぐんによりさつがいされた。」とほうこくしている。)
10000人以上が中国軍により殺害された。」と報告している。
(こうぶんしょはとうじのちゅうちゅうごくあらん・どなるどえいたいし)
公文書は当時の駐中国アラン・ドナルド英大使
((en:alandonald)が6がつ5にちにほんごくせいふへ)
(en:Alan Donald)が6月5日に本国政府へ
(おくったがいこうきみつでんぽうである。)
送った外交機密電報である。
(どなるどたいしによると、「ちゅうかじんみんきょうわこくこくむいんいいんをつとめる)
ドナルド大使によると、「中華人民共和国国務院委員を務める
(したしいゆうじんからきいた」じょうほうであり、このじょうほうげんとされるじんぶつを)
親しい友人から聞いた」情報であり、この情報源とされる人物を
(じけんいぜんからしんらいしており、「じじつとおくそくとうわさをしんちょうにくべつ」して)
事件以前から信頼しており、「事実と憶測と噂を慎重に区別」して
(かいたという。ぶんしょには「ちんあつにあたったのはさんせいしょうを)
書いたという。文書には「鎮圧にあたったのは山西省を
(しゅりょくとするだい27ぐん」「1じかんのたいきょきげんをつうこくしたが、じっさいには)
主力とする第27軍」「1時間の退去期限を通告したが、実際には
(5ふんごにはapc(そうこうへいいんゆそうしゃ)によるこうげきがはじまりひきころされ、)
5分後にはAPC(装甲兵員輸送車)による攻撃が始まりひき殺され、
(だいたすうはひろばからはなれるとちゅうでぎせいにあった」)
大多数は広場から離れる途中で犠牲に遭った」
(「がくせいたちはうでをくんでたいこうしようとしたが、へいしたちをふくめて)
「学生たちは腕を組んで対抗しようとしたが、兵士たちを含めて
(ひきころされてしまった。そしてapcはなんどもなんどもいたいをひき、)
ひき殺されてしまった。そしてAPCは何度も何度も遺体をひき、
(「ぱい」をつくり、ぶるどーざーがいたいをあつめていった。)
『パイ』を作り、ブルドーザーが遺体を集めていった。
(いたいはしょうきゃくされ、ほーすではいすいこうにながされていった」)
遺体は焼却され、ホースで排水溝に流されていった」
(「ふしょうしたじょしがくせい4にんがいのちごいをしたが、ちゅうごくぐんにじゅうけんで)
「負傷した女子学生4人が命乞いをしたが、中国軍に銃剣で
(さされてしまった」ときさいされている。ふらんすじんの)
刺されてしまった」と記載されている。フランス人の
(ちゅうごくけんきゅうかじゃんぴえーる・かべすたん(ふらんすごばん)も、)
中国研究家ジャンピエール・カベスタン(フランス語版)も、
(さいきんきみつかいじょされたべいこくのぶんしょもるいじしたししゃすうをわりだしており、)
最近機密解除された米国の文書も類似した死者数を割り出しており、
(とうじのえいたいしによるこのすいていちにはしんぴょうせいがあるとのべている。)
当時の英大使によるこの推定値には信憑性があると述べている。
(しかし、ちゅうごくけいえいじめでぃあさいと)
しかし、中国系英字メディアサイト
(”supchina”のへんしゅうしゃあんそにー・たお)
"SupChina"の編集者アンソニー・タオ
((anthonyyixingtao)は、)
(Anthony Yixing Tao)は、
(2017ねん12がつにじしゃさいとのきじにおいて「10000にんというすうじは)
2017年12月に自社サイトの記事において「10000人という数字は
(とくめいの、しかもべいこくがわのはっぴょうしたじょうほうだけが)
匿名の、しかも米国側の発表した情報だけが
(こんきょであってしんようできない」とはんろんをのべている。)
根拠であって信用出来ない」と反論を述べている。
(くれあ・ばーりんすきーは、それんのこうぶんしょにおさめられている)
クレア・バーリンスキーは、ソ連の公文書に収められている
(それんきょうさんとうせいじきょくがうけとったじょうほうほうこくでは3000にんのこうぎしゃが)
ソ連共産党政治局が受け取った情報報告では3000人の抗議者が
(ころされたとみつもられているとのべている。)
殺されたと見積もられていると述べている。
(1989ねん6がつ22にちにさくせいされ1999ねん6がつ1にちに)
1989年6月22日に作成され1999年6月1日に
(こうかいされたべいがいこうこうでんは、)
公開された米外交公電は、
(それまでのこんらんしたじょうほうをせいりするもくてきでじけいれつできじゅつされており、)
それまでの混乱した情報を整理する目的で時系列で記述されており、
(じゅうげきのおもなひがいはじゅうらいのほうこくとはちがってひろばではなくひろばにつづく)
銃撃の主な被害は従来の報告とは違って広場ではなく広場に続く
(どうろではっせいしたとしている。しぼうしゃすうはとうしょのよそくであった3000にんを)
道路で発生したとしている。死亡者数は当初の予測であった3000人を
(したまわるかのうせいがたかく、ちゅうごくせきじゅうじのはっぴょうであるししゃ2600にんが)
下回る可能性が高く、中国赤十字の発表である死者2600人が
(だとうなすうじとしている[44]。ただし、とうじのてんあんもんじけんにかんする)
妥当な数字としている[44]。ただし、当時の天安門事件に関する
(ほうどうでぴゅーりっつぁーしょうをじゅしょうしたにこらす・くりすとふによれば、)
報道でピューリッツァー賞を受賞したニコラス・クリストフによれば、
(2600というすうじはゆくえふめいになったがくせいが2600にんいるといううわさが)
2600という数字は行方不明になった学生が2600人居るという噂が
(しぼうしたがくせいのかずだとかんちがいされてできたこんきょのないすうじであり、)
死亡した学生の数だと勘違いされて出来た根拠の無い数字であり、
(ちゅうごくこうじゅうじかいは2600というすうじをそくざにてっかいしているとされている。)
中国紅十字会は2600という数字を即座に撤回しているとされている。
(1989ねん7がつにさくせいされ2011ねん6がつにこうかいされたべいがいこうこうでんによれば、)
1989年7月に作成され2011年6月に公開された米外交公電によれば、
(ひろばにしんこうしたへいしのだいぶぶんはじゅうではなくぼうとちんあつようのきのぼうの)
広場に進行した兵士の大部分は銃ではなく暴徒鎮圧用の木の棒の
(ようなものでぶそうしており、ぐんしゅうにむけたたいりょうはっぽうは)
様な物で武装しており、群衆に向けた大量発砲は
(みられなかったとされる。げんばにいたちりのがいこうかんはひろばで)
見られなかったとされる。現場に居たチリの外交官は広場で
(だいきぼなじゅうげきはなかったとしょうげんしている。これはへいしがひぶそうの)
大規模な銃撃は無かったと証言している。これは兵士が非武装の
(しみんがいるひろばにとつげきしたというふくすうのきしゃのしょうげんとむじゅんするし、)
市民がいる広場に突撃したという複数の記者の証言と矛盾するし、
(ししゃのかずは1000にんをはるかにしたまわることをしさしている。)
死者の数は1000人を遥かに下回る事を示唆している。
(1989ねん7がつ12にちにさくせいされ2011ねん8がつ30にちにこうかいされた)
1989年7月12日に作成され2011年8月30日に公開された
(べいがいこうこうでんによれば、げんばにいたちりのがいこうかんである)
米外交公電によれば、現場に居たチリの外交官である
(かるろす・がろのしょうげんではひろばにはいったへいしはこんぼうでぶそうしており)
カルロス・ガロの証言では広場に入った兵士は棍棒で武装しており
(だいきぼなはっぽうはおきなかったとしている。ひろばにゆっくりと)
大規模な発砲は起きなかったとしている。広場にゆっくりと
(はいっていったそうこうしゃがひろばのてんとをふみつけるころにはてんとは)
入って行った装甲車が広場のテントを踏みつける頃にはテントは
(すでにぶにんだったようにみえた。がくせいがてっしゅうしたあとのひろばにじんみんかいほうぐんの)
既に無人だった様に見えた。学生が撤収した後の広場に人民解放軍の
(へりこぷたーがおりてきておおきなぷらすちっくのふくろをうえに)
ヘリコプターが降りてきて大きなプラスチックの袋を上に
(ひっぱりあげていたが、かれはそのなかみがふしょうしゃやいたいではなく)
引っ張り上げていたが、彼はその中身が負傷者や遺体ではなく
(ごみだとおもった。かれはだいきぼなじゅうげきをもくげきしなかったが、)
ゴミだと思った。彼は大規模な銃撃を目撃しなかったが、
(ひろばにふしょうしゃがおおぜいあつまってきたことからじんみんかいほうぐんによって)
広場に負傷者が大勢集まって来た事から人民解放軍によって
(すうひゃくにんがさつがいされたことにうたがいはないとはんだんした。)
数百人が殺害された事に疑いは無いと判断した。
(1990ねん3がつ26にちにさくせいされうぃきりーくすが2011ねん8がつに)
1990年3月26日に作成されウィキリークスが2011年8月に
(こうかいしたべいがいこうこうでんには、げんばでちんあつにあたった)
公開した米外交公電には、現場で鎮圧にあたった
(じんみんかいほうぐん38ぐんにしょぞくしたへいしのははおやとされるじんぶつによる)
人民解放軍38軍に所属した兵士の母親とされる人物による
(とくめいでのしょうげんがきさいされている。かのじょのしょうげんによれば、)
匿名での証言が記載されている。彼女の証言によれば、
(38ぐんはとうしょはくうちゅうにいかくしゃげきをしていたが、がくせいのしゅうげきを)
38軍は当初は空中に威嚇射撃をしていたが、学生の襲撃を
(うけてなかまのへいしがすうひゃくにんもゆくえふめいになったか、)
受けて仲間の兵士が数百人も行方不明になったか、
(あるいはおそらくさつがいされたというじょうほうがぶたいにつたわると)
或いはおそらく殺害されたという情報が部隊に伝わると
(38ぐんのへいしたちはこうふんした。そのじょうきょうでだされたはっぽうめいれいにしたがい)
38軍の兵士達は興奮した。その状況で出された発砲命令に従い
(ぐんしゅうにむけきじゅうそうしゃをおこない、1000にんいじょうのしみんがさつがいされた。)
群衆に向け機銃掃射を行い、1000人以上の市民が殺害された。
(へいしはしたいにがそりんをかけてもやし、そのしたいをへりこぷたーで)
兵士は死体にガソリンを掛けて燃やし、その死体をヘリコプターで
(はこびさったという。いちれんのしょうげんについてこうでんさくせいしゃはぶんまつで、)
運び去ったという。一連の証言について公電作成者は文末で、
(「かのじょのしょうげんがでんぶんとはおもわないが、じかんがけいかしており)
「彼女の証言が伝聞とは思わないが、時間が経過しており
(そうとうなこちょうがふくまれる」「われわれにはもくげきじょうほうがすくなくこちょうされた)
相当な誇張が含まれる」「我々には目撃情報が少なく誇張された
(てんあんもんのじょうほうがじゅんかんしている」とこめんとしている。)
天安門の情報が循環している」とコメントしている。
(2019ねん5がつ29にち、とうじざいちゅうかじんみんきょうわこくにっぽんこくたいしかんにて)
2019年5月29日、当時在中華人民共和国日本国大使館にて
(じょうほうしゅうしゅうをとうかつしていたかさはらなおき1とうりくさ)
情報収集を統括していた笠原直樹1等陸佐
((ぼうえいちゅうざいかん)によるしょうさいなめもがのこっていたことがわかった。)
(防衛駐在官)による詳細なメモが残っていたことが分かった。
(それによると、ししょうしゃすうはふめいであるが、「じつだんはっしゃは)
それによると、死傷者数は不明であるが、「実弾発射は
(ほぼまちがいない」、「かいほうぐんによるしゃげきにてしみんがにげだす」、)
ほぼ間違いない」、「解放軍による射撃にて市民が逃げ出す」、
(「せんしゃがしゃげきしながらてんあんもんひろばにとつにゅうし、ひろばにいたがくせいをいっそう」)
「戦車が射撃しながら天安門広場に突入し、広場にいた学生を一掃」
(などかかれており、ちまみれでたおれるじょせいのすがた、apc)
など書かれており、血まみれで倒れる女性の姿、APC
((そうこうへいいんゆそうしゃ)にてひきころされたり、かずなりはっぽうするへいしなど)
(装甲兵員輸送車)にてひき殺されたり、一斉発砲する兵士など
(とうじのりゅうけつのぺきんのじょうきょうがはんめいした。)
当時の流血の北京の状況が判明した。
(ちゅうごくしゅっしんのせいじがくしゃであるしゅけんえいは、てんあんもんじけんは)
中国出身の政治学者である朱建栄は、天安門事件は
(じんみんかいほうぐんのしゅつどうとちゅうにおこったはっぽうじけんにすぎず、ぎゃくさつは)
人民解放軍の出動途中に起こった発砲事件に過ぎず、虐殺は
(なかったとしゅちょうしている。また、にほんのれきしがくしゃである)
なかったと主張している。また、日本の歴史学者である
(むらたただよしも「じっさいには89ねん6がつのてんあんもんひろばでは)
村田忠禧も「実際には89年6月の天安門広場では
(「ざんぎゃくなさつりく」とか「ぎゃくさつ」としょうすべきじたいははっせいしなかった」)
『残虐な殺戮』とか『虐殺』と称すべき事態は発生しなかった」
(「89ねんのちゅうごくのがくせいうんどうをいちめんてきにびかすることはもんだいである。)
「89年の中国の学生運動を一面的に美化することは問題である。
(そもそもじぶんたちのようきゅうをじつげんさせるために「はんすと」という、)
そもそも自分たちの要求を実現させるために『ハンスト』という、
(せいめいをぶきにしてあいてにじょうほをせまるほうほうは、とてもみんしゅてきてつづきを)
生命を武器にして相手に譲歩を迫る方法は、とても民主的手続きを
(ふんだものではない。せいめいをぶきにあいてにじぶんたちのじょうけんを)
踏んだものではない。生命を武器に相手に自分たちの条件を
(のませるほうほうであって、いっしゅのきょうはくである」)
飲ませる方法であって、一種の脅迫である」
(「ぶんかくきにもおこなわれたきょくさこうどうにほかならない。それを)
「文革期にも行われた極左行動に他ならない。それを
(「へいわてき」「りせいてき」なこうどうであった、ともちあげるのは、)
『平和的』『理性的』な行動であった、と持ち上げるのは、
(あまりに「おひとよし」なひょうかといえる」としゅちょうしている。)
あまりに『お人好し』な評価といえる」と主張している。