六四天安門事件9
関連タイピング
問題文
(さいしゅうてきにじたいをしょうあくしたきょうこうはと、そのいっぱがそのあとげんざいにいたるまで)
最終的に事態を掌握した強硬派と、その一派がその後現在に至るまで
(じっけんをにぎりつづけているために、ちゅうごくきょうさんとうによるこのじけんにたいする)
実権を握り続けているために、中国共産党によるこの事件に対する
(はんせいやしゃざいのしせいのひょうめいだけでなく、このじけんにたいするけんしょうほうどうは、)
反省や謝罪の姿勢の表明だけでなく、この事件に対する検証報道は、
(これまでいっさいおこなわれておらず、ちゅうごくきょうさんとうせいふさいだいのたぶーの)
これまで一切行われておらず、中国共産党政府最大のタブーの
(ひとつでもある[66][しんらいせいようけんしょう]。ちゅうかじんみんきょうわこくこくぼうぶぶちょうの)
一つでもある[66][信頼性要検証] 。中華人民共和国国防部部長の
(ちこうでんは、1996ねんにあめりかがっしゅうこくをおとずれたさいに、「てんあんもんひろばでは)
遅浩田は、1996年にアメリカ合衆国を訪れた際に、「天安門広場では
(1にんもころされなかった」とはつげんして、せかいかっこくからはんぱつをうけた。)
1人も殺されなかった」と発言して、世界各国から反発を受けた。
(じけんから30しゅうねんをむかえた2019ねん6がつにはこくえいのかんきゅうじほうは)
事件から30周年を迎えた2019年6月には国営の環球時報は
(「わくちんとしてしょうらいどんなせいじてきどうようにもたいしょできるめんえきりょくを)
「ワクチンとして将来どんな政治的動揺にも対処できる免疫力を
(ちゅうごくにあたえた」とじけんにげんきゅうするいれいのろんせつをはっぴょうし、ちゅうごくこくぼうぶぶちょうの)
中国に与えた」と事件に言及する異例の論説を発表し、中国国防部部長の
(ぎおおとりわもほうもんさきのしんがぽーるで「さわぎらんをおさめるためにただしい)
魏鳳和も訪問先のシンガポールで「騒乱を治めるために正しい
(たいおうをした。ちゅうごくはあんていとはってんをきょうじゅしている」といれいのげんきゅうをいった。)
対応をした。中国は安定と発展を享受している」と異例の言及を行った。
(2021ねんはっかんの「とうし」は、てんあんもんじけんのぎせいしゃにはげんきゅうせず、)
2021年発刊の『党史』は、天安門事件の犠牲者には言及せず、
(「せいさいしたかっこくにとうそうをいどみ、にほんにそっせんしてせいさいをとりけさせた」)
「制裁した各国に闘争を挑み、日本に率先して制裁を取り消させた」
(としるしており、「よみうりしんぶん」は「れきしをみずからにつごうよくかいしゃくする)
と記しており、『読売新聞』は「歴史を自らに都合良く解釈する
(しせいのあらわれといえる」とひょうしている。)
姿勢の表れと言える」と評している。
(せかいのはんのう)
世界の反応
(ほんこんのはんのう)
香港の反応
(ほんこんでまいとしおこなわれるヴぃくとりあぱーくのきゃんどるしゅうかい)
香港で毎年行われるヴィクトリアパークのキャンドル集会
(このじけんにたいしてもっともはやくはんのうしたのは、とうじいぎりすの)
この事件に対して最も早く反応したのは、当時イギリスの
(しょくみんちであるものの、そのじゅうにんのたいはんがかきょうで、ちゅうかじんみんきょうわこくへの)
植民地であるものの、その住人の大半が華僑で、中華人民共和国への
(「へんかん」を8ねんごにひかえたほんこんである。このようなひみんしゅしゅぎてきな)
「返還」を8年後に控えた香港である。このような非民主主義的な
(こういをするちゅうごくきょうさんとうにたいして、こうぎでもがおこった。)
行為をする中国共産党に対して、抗議デモが起こった。
(1989ねん6がつ5にちには、ほんこんのほぼすべてのがっこうやきぎょう、せいふきかんが)
1989年6月5日には、香港のほぼすべての学校や企業、政府機関が
(こうしきにけんせき・あいとうをいっている。たとえばがっこうでは、しょうがっこうなども)
公式に譴責・哀悼を行っている。たとえば学校では、小学校なども
(ふくめこうちょうやきょうしがなきじゃくりながらせいめいをよみあげ、がくせいをひきいて)
含め校長や教師が泣きじゃくりながら声明を読み上げ、学生を率いて
(もくとうをしている。てれびやらじお、しんぶん、ざっしなどのめでぃあも)
黙祷をしている。テレビやラジオ、新聞、雑誌などのメディアも
(これをほうどうしている。おそらくちゅうごくきょうさんとうにだげきをあたえるためか、)
これを報道している。おそらく中国共産党に打撃を与えるためか、
(6がつ5にちのそうちょうに、ほんこんぜんどにあるちゅうごくぎんこうぐるーぷのかくぎんこうから、)
6月5日の早朝に、香港全土にある中国銀行グループの各銀行から、
(いちにちのうちに50おくほんこんどるがひきだされている。またこうじゅつのように)
一日のうちに50億香港ドルが引き出されている。また後述のように
(ほんこんしみんにかいがいいじゅうしゃがふえ、ほんこんきぎょうもかいがいにほんしゃをいてんするうごきも)
香港市民に海外移住者が増え、香港企業も海外に本社を移転する動きも
(でた。)
出た。
(どうじつにほんこんのぎかいが、ぶりょくちんあつにたいするけんせきをぜんかいいっちでさいたく。)
同日に香港の議会が、武力鎮圧に対する譴責を全会一致で採択。
(そのせんげんはちゅうごくへの「へんかん」あとのいまでもてっかいしておらずゆうこうであり、)
その宣言は中国への「返還」後の今でも撤回しておらず有効であり、
(ほんこんとちゅうごくきょうさんとうのきほんてきなせいじしそうのさをしめしている。)
香港と中国共産党の基本的な政治思想の差を示している。
(なお、じけんをけいきに、ほんこんしみんしえんあいこくみんしゅうんどうれんごうかい)
なお、事件を契機に、香港市民支援愛国民主運動連合会
((しれんかい)がけっせいされ、いまなおちゅうかけんさいだいのみんしゅかうんどうそしきとして)
(支連会)が結成され、今なお中華圏最大の民主化運動組織として
(かつどうしており、1997ねんにほんこんがいぎりすよりちゅうくにへへんかんごも、)
活動しており、1997年に香港がイギリスより中国へ返還後も、
(どうそしきによってじけんでぎせいになったがくせいらをいたむしゅうかいが、)
同組織によって事件で犠牲になった学生らを悼む集会が、
(まいとしほんこんとうのヴぃくとりあぱーくでかいさい、2007ねん6がつ4にちには)
毎年香港島のヴィクトリアパークで開催、2007年6月4日には
(5まん5せんにんのさんかしゃをあつめた。2012ねん6がつ4にち、)
5万5千人の参加者を集めた。2012年6月4日、
(やく18まんにんのさんかしゃをあつめてれきねんのきろくをやぶった。)
約18万人の参加者を集めて歴年の記録を破った。
(また、このじけんをうけて、ほんこんじんのいぎりす・かなだ・おーすとらりあ)
また、この事件を受けて、香港人のイギリス・カナダ・オーストラリア
(などのいぎりすれんぽうしょこくや、あめりかがっしゅうこくなどへのいじゅうぶーむに)
などのイギリス連邦諸国や、アメリカ合衆国などへの移住ブームに
(ひがついた。そのあと、そうしゅくにのいぎりすとちゅうかじんみんきょうわこくのあいだで)
火がついた。その後、宗主国のイギリスと中華人民共和国の間で
(むすばれた「へんかんご50ねんかんはげんじょういじ」といういっこくにせいどにより、)
結ばれた「返還後50年間は現状維持」という一国二制度により、
(せいじてきにあんていしていたほんこんをひょうかして、おおくのいみんがほんこんにもどった。)
政治的に安定していた香港を評価して、多くの移民が香港に戻った。
(だがこのじけんは、1997ねんいこうのほんこんけんぽうにあたる、)
だがこの事件は、1997年以降の香港憲法にあたる、
(ほんこんきほんほうのきそういいんのおおくがいいんをじたいしたことや、)
香港基本法の起草委員の多くが委員を辞退したことや、
(「ぜんこくじんみんだいひょうたいかい」のほんこんだいひょうが「ろくよんじけんがほんこんの)
「全国人民代表大会」の香港代表が「六四事件が香港の
(ひとびとのこころをおおきくきずつけた」とはつげんしたことなどがしょうちょうするような、)
人々の心を大きく傷つけた」と発言したことなどが象徴するような、
(げんざいのほんこんじんのちゅうごくきょうさんとうにたいするふしんかんのげんてんともいわれる。)
現在の香港人の中国共産党に対する不信感の原点とも言われる。
(このえいきょうで2008ねんのぺきんおりんぴっくのせいかりれーでも)
この影響で2008年の北京オリンピックの聖火リレーでも
(ちゅうごくきょうさんとうへのこうぎかつどうがおきている。)
中国共産党への抗議活動が起きている。
(またじけんとうじつから6にちにかけてみんぽうやしんばんほう(えいごばん)などの)
また事件当日から6日にかけて明報や新晩報(英語版)などの
(ほんこんめでぃあはじょうほうがさくそうしたことから、「ぐんどうしのしょうとつがおきた」、)
香港メディアは情報が錯綜したことから、「軍同士の衝突が起きた」、
(「とうしょうへいしのしぼう」などのさまざまなみかくにんじょうほうをほうどうした。)
「鄧小平氏の死亡」などの様々な未確認情報を報道した。
(なお、ほんこんでは2020ねん9がつのしんがっきいこうのこうこうのひっしゅうきょうかしょから、)
なお、香港では2020年9月の新学期以降の高校の必修教科書から、
(てんあんもんじけんなどちゅうごくきょうさんとうにとってつごうのわるいこうもくが)
天安門事件など中国共産党にとって都合の悪い項目が
(さくじょされることになった。これはいっこくにせいどにもとづき、じゆうと)
削除されることになった。これは一国二制度に基づき、自由と
(みんしゅしゅぎがねづいているほんこんのれきしとぶんかをひていすることで、)
民主主義が根付いている香港の歴史と文化を否定することで、
(ちゅうごくきょうさんとうのかちかんをうえつけてほんこんのわかものがはんせいふかつどうにかたむく)
中国共産党の価値観を植え付けて香港の若者が反政府活動に傾く
(どじょうをはいじょするおもわくがあるとみられる。)
土壌を排除する思惑があるとみられる。
(こくさいしゃかいのはんのう)
国際社会の反応
(みんしゅしゅぎくにであるにしがわしょこくのせいふがつぎつぎと、じけんにおける)
民主主義国である西側諸国の政府が次々と、事件における
(ちゅうごくきょうさんとうによるぶりょくだんあつについてのせいめいをはっぴょうした。あめりか、)
中国共産党による武力弾圧についての声明を発表した。アメリカ、
(いぎりす、ふらんす、にしどいつをふくむかっこくは、ぶきをもたぬ)
イギリス、フランス、西ドイツを含む各国は、武器を持たぬ
(しみんをてあたりしだいにだいぎゃくさつしたばんこうにたいしてけんせきあるいは)
市民を手当たり次第に大虐殺した蛮行に対して譴責あるいは
(こうぎをはっぴょうし、g7によるたいちゅうしゅのうかいぎのていし、ぶきゆしゅつのきんし、)
抗議を発表し、G7による対中首脳会議の停止、武器輸出の禁止、
(せかいぎんこうによるちゅうごくへのゆうしのていしなどのがいこうせいさいをじっしした。)
世界銀行による中国への融資の停止などの外交制裁を実施した。
(1989ねん6がつ4にちのぶりょくせいあつごのこくないじょうせいがあんていてきでないことから、)
1989年6月4日の武力制圧後の国内情勢が安定的でないことから、
(にほんをはじめとしたにしがわのがいこくきぎょうがいちじてきにちゅうかじんみんきょうわこくから)
日本をはじめとした西側の外国企業が一時的に中華人民共和国から
(しゃいんをひきあげるじたいにいたる。じけんご、にほんではがいむほうどうかんだんわや)
社員を引き上げる事態に至る。事件後、日本では外務報道官談話や
(かんぼうちょうかんだんわをはっぴょうして、このりゅうけつじけんにたいするじたいのあっかぼうしを)
官房長官談話を発表して、この流血事件に対する事態の悪化防止を
(ちゅうかじんみんきょうわこくせいふにもとめた。くわえて6がつ20にちにodaによる)
中華人民共和国政府に求めた。加えて6月20日にODAによる
(たいちゅうけいざいえんじょのとうけつをはっぴょうし、よく1990ねんからよていされる)
対中経済援助の凍結を発表し、翌1990年から予定される
(「だい3じえんしゃっかん」ならびに「ちゅうにちゆうこうかんきょうほぜんせんたーのけんせつ」など)
「第3次円借款」並びに「中日友好環境保全センターの建設」など
(いちぶのたいちゅうodaをほりゅうとするみなおしがおこなわれた。)
一部の対中ODAを保留とする見直しが行われた。
(どうねん7がつのだい15かいせんしんくにしゅのうかいぎ(あるしゅ・さみっと)では、)
同年7月の第15回先進国首脳会議(アルシュ・サミット)では、
(ぎちょうこくふらんすをはじめとしたにしがわしょこくがざんぎゃくこういをきびしくひなんした。)
議長国フランスをはじめとした西側諸国が残虐行為を厳しく非難した。
(にほんのうのそうすけないかくそうりだいじんはたいちゅうえんしゃっかんをとうけつするいっぽうで、)
日本の宇野宗佑内閣総理大臣は対中円借款を凍結する一方で、
(がいむだいじんのみつづかひろしとともに「ちゅうごくのこりつはさせない」とさみっとで)
外務大臣の三塚博と共に「中国の孤立はさせない」とサミットで
(しゅちょうしてほかのにしがわしょこくときょりをおき、さみっとまえにも)
主張 して他の西側諸国と距離を置き、サミット前にも
(たいちゅうせいさいはんたいはのなかそねやすひろもとそうり、すずきぜんこうもとそうり、)
対中制裁反対派の中曽根康弘元総理、鈴木善幸元総理、
(たけしたのぼるぜんそうりとかいだんした[77]。にほんがちゅうごくこりつかにつよくはんたいした)
竹下登前総理と会談した[77]。日本が中国孤立化に強く反対した
(はいけいにはたいちゅうぼうえきをじゅうししているけいざいかいのようせいやさみっとちょくごに)
背景には対中貿易を重視している経済界の要請やサミット直後に
(だい15かいさんぎいんぎいんつうじょうせんきょがひかえているにもかかわらず、)
第15回参議院議員通常選挙が控えているにもかかわらず、
(とうじのうのないかくはそうりのじょせいすきゃんだるはっかくできゅうちにおちいっており、)
当時の宇野内閣は総理の女性スキャンダル発覚で窮地に陥っており、
(さみっとをせいけんふようにりようしたいしゅしょうかんていのひれつかつけいそつきわまりない)
サミットを政権浮揚に利用したい首相官邸の卑劣かつ軽率極まりない
(しわくもあったとされる。じっさいにうのはたいちゅうひなんせいめいのそあんに)
思惑もあったとされる。実際に宇野は対中非難声明の素案に
(きじゅつされていた「ちゅうごくにおけるやばんなちんあつ」になんしょくをしめし、)
記述されていた「中国における野蛮な鎮圧」に難色を示し、
(そのけっか「はげしいよくあつ」にしゅうせいされ、「ちゅうごくとうきょくがこりつかをさけ、)
その結果「激しい抑圧」に修正され、「中国当局が孤立化を避け、
(きょうりょくかんけいへのふっきをもたらすじょうけんをつくりだすようきたいする」との)
協力関係への復帰をもたらす条件をつくり出すよう期待する」との
(いちぶんもかひつされたことがこうねん(2020ねん)のがいむしょうがいこうぶんしょの)
一文も加筆されたことが後年(2020年)の外務省外交文書の
(こうかいによりあきらかになっている。そうりたいにんごの1990ねん5がつ7にちに)
公開により明らかになっている。総理退任後の1990年5月7日に
(うのがほうちゅうしたさいにもちゅうかじんみんきょうわこくのこうたくみんから、)
宇野が訪中した際にも中華人民共和国の江沢民から、
(このさみっとでのたいおうにかんしゃされている。)
このサミットでの対応に感謝されている。