ウォー・ギルト・インフォメーションプログラム 3
関連タイピング
問題文
(とこやにはいっていました。/べいへいはがっこうにもやってきて、)
床屋にはいっていました。/米兵は学校にもやって来て、
(きょうしつをみまわっていきました。なんていやなやつらでしょう!ぼくたち)
教室を見まわって行きました。何ていやな奴等でしょう! ぼくたち
(こどもですら、いかりをかんじます。せんししたへいたいさんがこのこうけいをみたら、)
子供ですら、怒りを感じます。戦死した兵隊さんがこの光景を見たら、
(どんなきもちがするでしょうか」(9がつ29にちつき))
どんな気持がするでしょうか」(9月29日付)
(えとうは、「ここでちゅうもくすべきは、とうじのにほんじんがせんそうとはいせんのひさんさを)
江藤は、「ここで注目すべきは、当時の日本人が戦争と敗戦の悲惨さを
(もたらしたのが、みずからの「じゃあく」さとはかんがえていなかったというじじつで)
もたらしたのが、自らの「邪悪」さとは考えていなかったという事実で
(ある。/「かずしれぬせんそうぎせいしゃは、にほんの「じゃあく」さのゆえに)
ある。/「数知れぬ戦争犠牲者は、日本の「邪悪」さの故に
(うまれたのではなく、「てき」、つまりべいぐんのさつりくとはかいの)
生れたのではなく、「敵」、つまり米軍の殺戮と破壊の
(けっかうまれたのである。「にくしみ」をかんずべきあいてはにほんせいふや)
結果生れたのである。「憎しみ」を感ずべき相手は日本政府や
(にほんぐんであるよりは、まずもってとうのさつりくしゃ、はかいしゃでなくてはならない。)
日本軍であるよりは、先ずもって当の殺戮者、破壊者でなくてはならない。
(とうじのにほんじんは、ごくじゅんとうにこうかんがえていた。」としゅちょうした。)
当時の日本人は、ごく順当にこう考えていた。」と主張した。
(ghqぶんしょ(げっぽう)にははいせんちょくごのようすがしるされていた。「せんりょうぐんが)
GHQ文書(月報)には敗戦直後の様子が記されていた。「占領軍が
(とうきょういれしたとき、にほんじんのあいだにせんそうしょくざいいしきはまったくといっていいほど)
東京入したとき、日本人の間に戦争贖罪意識は全くといっていいほど
(そんざいしなかった。(りゃく)にほんのはいぼくはたんにさんぎょうとかがくのれっせいと)
存在しなかった。(略)日本の敗北は単に産業と科学の劣性と
(げんばくのゆえであるというしんねんがいきわたっていた」)
原爆のゆえであるという信念が行きわたっていた」
(こうしたにほんじんのこくみんかんじょうはそのあともしばらくつづき、cieのぶんしょは)
こうした日本人の国民感情はその後もしばらく続き、CIEの文書は
(g-2(cis)れいかのみんかんけんえつしたい(ccd)のじょうほうによれば)
G-2(CIS)隷下の民間検閲支隊 (CCD) の情報によれば
(しょうわ23ねんになっても「いぜんとしてにほんひとのこころに、せんりょうしゃののぞむような)
昭和23年になっても「依然として日本人の心に、占領者の望むような
(かたちで「うぉー・ぎると」がていちゃくしてなかった」ゆうりょくなしょうこである、)
かたちで「ウォー・ギルト」が定着してなかった」有力な証拠である、
(また、このぷろぐらむがいごせいかくにとうきょうさいばんなどのふしめななのじきに)
また、このプログラムが以後正確に東京裁判などの節目七の時期に
(あわせててんかいしていったじじつはかんかできないともえとうはしゅちょうした。)
合わせて展開していった事実は看過できないとも江藤は主張した。
(とうきょうさいばんでとうじょうひできによるちんじゅつがあったその2かげつご、みんかん)
東京裁判で東條英機による陳述があったその2か月後、民間
(じょうほうきょういくきょく(cie)はせろんのどうこうにかんしてつぎのようなぶんせきをいっている。)
情報教育局(CIE) は世論の動向に関して次のような分析を行っている。
(いちぶにほんじんのなかには(ちゅうりゃく)とうじょうはかくしんをもつてしゅちょうした、かれのゆうきを)
一部日本人の中には(中略)東條は確信を持つて主張した、彼の勇気を
(にほんこくみんはしょうさんすべきだとするかんじょうがたかまつている。これは、)
日本国民は称賛すべきだとする感情が高まつてゐる。これは、
(とうじょうをしょけいするだんになるととうじょうのじゅんきょうといふところまでかくだいするおそれがある。」)
東條を処刑する段になると東條の殉教といふところまで拡大する恐れがある。」
(「ひろしまにおけるげんしばくだんのしようを「ざんぎゃくこうい」とみなす・・・さいきんのけいこう」)
「広島における原子爆弾の使用を『残虐行為』と見做す・・・最近の傾向」
(こうしたこくみんのきうんのじょうせいにたいしcieきょくちょうは6がつ19にち、みんかんちょうほうきょく)
こうした国民の機運の醸成に対しCIE局長は6月19日、民間諜報局
((cis)のどういをえたうえで、ぷろぐらむにだいさんだんかいをくわえるてはずをととのえ、)
(CIS) の同意を得た上で、プログラムに第三段階を加える手筈を整え、
(じょうほうせんでんにおけるたいこうしょちをとった。)
情報宣伝に於ける対抗処置を取った。
(ないようのむじゅん)
内容の矛盾
(じっさいに、「しんそうはかうだ」といったれんごうこくにつごうのよいかいしゃくのらじおが)
実際に、「真相はかうだ」といった連合国に都合の良い解釈のラジオが
(やく3ねんほどほうそうされたのはじじつであり、「しんそうはかうだ」のほうそうとうじ、)
約3年ほど放送されたのは事実であり、「真相はかうだ」の放送当時、
(にほんぜんこくから「れんごうこくがわにかたよっている」などのひはんがさっとうしていた。)
日本全国から「連合国側に偏っている」等の批判が殺到していた。
(にほんこくないでうよくしそうをたかめるためにうはけいがどくじでせいさくしたにせものという)
日本国内で右翼思想を高めるために右派系が独自で製作した偽物という
(してきがある。また、wgipをとりあつかうさいとはすべてせんのうをうけたと)
指摘がある。また、WGIPを取り扱うサイトは全て洗脳を受けたと
(しゅちょうするにほんのさいとであり、ほったんとするあめりかがっしゅうこく、)
主張する日本のサイトであり、発端とするアメリカ合衆国、
(いぎりす、ふらんす、ちゅうかじんみんきょうわこくおよびたいわんなどでのにんちはなく、)
イギリス、フランス、中華人民共和国及び台湾などでの認知はなく、
(かんれんさいとはうぃきぺでぃあをはじめとしてにほんごばんのみしか)
関連サイトはウィキペディアをはじめとして日本語版のみしか
(そんざいしなく、えいごをはじめとするがいこくごでせつめいされているさいとがいっさいない。)
存在しなく、英語をはじめとする外国語で説明されているサイトが一切ない。
(wgipがにほんじんにざいあくかんをあたえるけいかくというのがそんざいしていたとしても、)
WGIPが日本人に罪悪感を与える計画というのが存在していたとしても、
(せいこうしたとはいいがたいとのこえもある。)
成功したとはいいがたいとの声もある。
(ろんぴょうなど)
論評など
(さんけいしんぶん)
産経新聞
(さんけいしんぶんはつぎのようにろんじている。)
産経新聞は次のように論じている。
(せんりょうきにれんごうこくぐんそうしれいぶ(ghq)がじっしした「せんそうについての)
占領期に連合国軍総司令部 (GHQ) が実施した「戦争についての
(ざいあくかんをにほんひとのこころにうえつけるためのせんでんけいかく」)
罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」
((うぉー・ぎると・いんふぉめーしょん・ぷろぐらむとどうぎ)は、)
(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムと同義)は、
(いまもかたちをかえてきょういくげんばにいきつづけている。(ちゅうりゃく)ぶんげいひょうろんいえの)
今も形を変えて教育現場に生き続けている。(中略)文芸評論家の
(えとうじゅんはちょしょ「しめされたげんごくうかん」のなかでつぎのようにかいている。)
江藤淳は著書『閉された言語空間』の中で次のように書いている。
(いったんこの(ghqの)けんえつとせんでんけいかくのこうぞうが、にほんのげんろんきかんと)
いったんこの(GHQの)検閲と宣伝計画の構造が、日本の言論機関と
(きょういくたいせいにていちゃくされ、いじされるようになれば、(ちゅうりゃく)にほんじんの)
教育体制に定着され、維持されるようになれば、(中略)日本人の
(あいでんてぃてぃとれきしへのしんらいは、いつまでもないぶほうかいをつづけ、)
アイデンティティと歴史への信頼は、いつまでも内部崩壊を続け、
(またどうじにいつなんどきでもこくさいてきけんえつのきょういにさらされえる)
また同時にいつ何時でも国際的検閲の脅威に曝され得る
(1999ねん(へいせい11ねん)7がつ21にちにじししたえとうの「よげん」は、ふこうにも)
1999年(平成11年)7月21日に自死した江藤の「予言」は、不幸にも
(げんじつのものとなろうとしている。)
現実のものとなろうとしている。
(たかはししろう)
高橋史朗
(たかはししろうみょうじょうだいきょうじゅは、)
高橋史朗明星大教授は、
(とうきょうさいばんがりんりてきにせいとうであることをしめすとともに、しんりゃくせんそうを)
東京裁判が倫理的に正当であることを示すとともに、侵略戦争を
(いったにほんこくみんのせきにんをめいかくにしせんそうしょくざいいしきをうえつけることであり、)
行った日本国民の責任を明確にし戦争贖罪意識を植えつけることであり、
(いわばにほんじんへの「まいんどこんとろーるけいかく」だった」とろんじている。)
いわば日本人への『マインドコントロール計画』だった」と論じている。
(ありやまてるお)
有山輝雄
(ありやまてるおは、「しめされたげんごくうかん」のしんかんしょうかいで、だいいちじしりょうによって)
有山輝雄は、『閉された言語空間』の新刊紹介で、第一次資料によって
(せんりょうぐんのけんえつをあきらかにしたせんくてきけんきゅうであるとしながらも)
占領軍の検閲を明らかにした先駆的研究であるとしながらも
(「ちょしゃのしゅちょうにむすびつけるためのごういんなしりょうかいしゃくもずいしょにみうけられる。)
「著者の主張に結びつけるための強引な資料解釈も随所に見受けられる。
(また、せんりょうぐんのけんえつにさまざまなあくのこんげんをおしつけるあくだまぜんだましかんに)
また、占領軍の検閲に様々な悪の根源を押しつける悪玉善玉史観に
(なっているが、これはげんざいのせいじじょうきょう・しそうじょうきょうへのちょしゃの)
なっているが、これは現在の政治状況・思想状況への著者の
(せんじゅつなのであろう」とひょうした。)
戦術なのであろう」と評した。
(やまもとたけとし)
山本武利
(やまもとたけとしは、えとうのせんりょうけんきゅうについて、せんりょうぐんのけんえつほうしんをしめした)
山本武利は、江藤の占領研究について、占領軍の検閲方針を示した
(だいいちじしりょうをghqかんけいしりょうによってけんしょうしたせんくてきなしごとであると)
第一次資料をGHQ関係資料によって検証した先駆的な仕事であると
(ひょうかした。robertjacobsによれば、やまもとはえとうの)
評価した。Robert Jacobsによれば、山本は江藤の
(ちょしょのじゅうようせいをみとめながらも1996ねんの「せんりょうきめでぃあぶんせき」)
著書の重要性を認めながらも1996年の『占領期メディア分析』
(でえとうにはんろんし、こうふくいぜんににほんとうきょくによるけんえつがおうこうしていたはんめん、)
で江藤に反論し、降伏以前に日本当局による検閲が横行していた反面、
(べいこくによるけんえつにたいしてはにほんのさよく[だれ?]がていこうしたというじじつを)
米国による検閲に対しては日本の左翼[誰?]が抵抗したという事実を
(えとうはむししたと、やまもとはのべたとしている。)
江藤は無視したと、山本は述べたとしている。
(はたいくひこ)
秦郁彦
(はたいくひこは、えとうの「れきしきじゅつのぱらだいむきてい・・・げんごくうかんをげんていし、)
秦郁彦は、江藤の「歴史記述のパラダイム規定…言語空間を限定し、
(かつへいさした」や、たかはしの「にほんじんのまいんどこんとろーるけいかく」)
かつ閉鎖した」や、高橋の「日本人のマインドコントロール計画」
(などのしゅちょうにたいして、「はたしてそんなだいそれたものか」)
などの主張に対して、「果たしてそんな大それたものか」
(「えとうのろんちょうはひつぜんてきにはんべいしそうにいきつく」とひていしている。)
「江藤の論調は必然的に反米思想に行きつく」と否定している。
(はたはべいりゅうがくちゅうのえとうのたいけんだんをいんようしながら、えとうが)
秦は米留学中の江藤の体験談を引用しながら、江藤が
(「にちべいかんけいにひそむ「あまえのこうぞう」にはやくからきづ」いており)
「日米関係にひそむ『甘えの構造』に早くから気づ」いており
(「それをさいだいげんにりようしていたよう」だとろんぴょう。えとうのろんは)
「それを最大限に利用していたよう」だと論評。江藤の論は
(「あめりかせいのこうぶんしょをひきあいに、いんぼうの「しょうこがため」にのりだし)
「アメリカ製の公文書を引き合いに、陰謀の『証拠固め』に乗り出し
(た」、)
た」、
(「あいてがちゅうごくやちょうせんはんとうであればやっかいなふんそうをまねきかねないが、)
「相手が中国や朝鮮半島であれば厄介な紛争を招きかねないが、
(あめりかならききながすかわらいにまぎらすだけ」の「いんぼうせつ」であり、)
アメリカなら聞き流すか笑いにまぎらすだけ」の「陰謀説」であり、
(このような「(にちべいのきょうちょうとどうめいのかんけいを)たいべいじゅうぞくとみなし、)
このような「(日米の協調と同盟の関係を)対米従属と見なし、
(「あまえてもいかられない」(いかってくれない)のをしょうちのうえではんぱつするろんちょう」)
『甘えても怒られない』(怒ってくれない)のを承知の上で反発する論調」
(はこんごもたえないだろうとのべている。)
は今後も絶えないだろうと述べている。
(かもみちこ)
賀茂道子
(かもみちこは、にほんは「むじょうけんごうぶく」したにもかかわらず、にほんぐんによる)
賀茂道子は、日本は「無条件降伏」したにも拘わらず、日本軍による
(ほりょぎゃくたいとせんりょうちでのじゅうみんぎゃくさつ(ばたーんしのこうしん、なんきんぎゃくさつ、)
捕虜虐待と占領地での住民虐殺(バターン死の行進、南京虐殺、
(まにらのぎゃくさつなど)などのざんぎゃくこういにたいし、にほんがわがまったくはんせいのいろが)
マニラの虐殺など)などの残虐行為に対し、日本側が全く反省の色が
(ないばかりか、がいむしょうがげんばくとうかひはんのこくさいせろんをけいせいするために、)
無いばかりか、外務省が原爆投下批判の国際世論を形成するために、
(ざいがいこうかんをつうじてぷろぱがんだをおこなおうとしていた。そのたいこうさくとして)
在外公館を通じてプロパガンダを行おうとしていた。その対抗策として
(「うぉー・ぎると・ぷろぐらむ」がおこなわれたのであり、)
「ウォー・ギルト・プログラム」が行われたのであり、
(それはれんごうこくがわからすればとうぜんであろうとのべている。)
それは連合国側からすれば当然であろうと述べている。
(のうかわげんいち)
能川元一