極東国際軍事裁判3
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問題文
(えすからは1920ねんだいにしょうかいせきちゅうかみんこくのほうりつこもんをつとめたことも)
エスカラは1920年代に蒋介石中華民国の法律顧問をつとめたことも
(あったが、ようせいをことわり、ほかのがくしゃをしょうかいするにとどめた。)
あったが、要請を断り、他の学者を紹介するにとどめた。
(いっぽう、だいにきこうしだんりくぐんじゅんしょうぽーる・じろー・ど・らんぐらーどらが)
一方、第二機甲師団陸軍准将ポール・ジロー・ド・ラングラードらが
(せいふにたいしてはけんするほうりつかはしょくみんちでのけいけんがあるものがよいと)
政府に対して派遣する法律家は植民地での経験があるものがよいと
(ていげんし、まだがすかるやにしあふりかのこうそいんはんじをれきにんした)
提言し、マダガスカルや西アフリカの控訴院判事を歴任した
(あんり・あんびゅるじゅがしめいされた。しかしあんびゅるじゅも)
アンリ・アンビュルジュが指名された。しかしアンビュルジュも
(しゅっぱつちょくぜんになってこじし、あんり・べるなーるがしめいされた。)
出発直前になって固辞し、アンリ・ベルナールが指名された。
(にほんのさいばんたいさく)
日本の裁判対策
(しゅうせんご、にほんではじしゅさいばんもこうそうされたが、みやまようぞうのにっきにも)
終戦後、日本では自主裁判も構想されたが、美山要蔵の日記にも
(あるようにざんぎゃくこういのじっこうしゃのみがさいばんのたいしょうとなってしまい、)
あるように残虐行為の実行者のみが裁判の対象となってしまい、
(せんそうさいばんはせんしょうこくによる「しょうしゃのさばき」であるとのかくごがあったとされる。)
戦争裁判は戦勝国による「勝者の裁き」であるとの覚悟があったとされる。
(1945ねん(しょうわ20ねん)10がつ3にち、ひがしくにのみやないかくは「せんそうせきにんにかんする)
1945年(昭和20年)10月3日、東久邇宮内閣は「戦争責任に関する
(おうとうようりょう(あん)」をさくせいし、そのあと11がつ5にちしゅうせんれんらくかんじかいは)
応答要領(案)」を作成し、その後11月5日終戦連絡幹事会は
(「せんそうせきにんにかんするおうとうようりょう」をさくせいし、てんのうをついきゅうからまもること、)
「戦争責任に関する応答要領」を作成し、天皇を追及から守ること、
(こっかべんごとこじんべんごをどうじについきゅうするとかかれた。がいむしょうがいきょく)
国家弁護と個人弁護を同時に追求すると書かれた。外務省外局
(しゅうせんれんらくちゅうおうじむきょくしゅにんのなかむらとよいちはどうねん11がつ20にち、)
終戦連絡中央事務局主任の中村豊一は同年11月20日、
(せんそうさいばんたいさくをていげんし、べんごだん、しりょうていきょう、りんじせんそうはんざいにん)
戦争裁判対策を提言し、弁護団、資料提供、臨時戦争犯罪人
(かんけいちょうさいいんかいのせっち、せんそうはんざいにんしんりたいさくいいんかいをていげんしたが、)
関係調査委員会の設置、戦争犯罪人審理対策委員会を提言したが、
(がいむしょうはせいふしどうになるというりゆうできゃっかした。)
外務省は政府指導になるという理由で却下した。
(そのあと、よしだしげるが12がつにほうむしんぎしつをせっちした。よく1946ねん(しょうわ21ねん))
その後、吉田茂が12月に法務審議室を設置した。翌1946年(昭和21年)
(2がつにはないがいほうせいけんきゅうかいがほっそくし、たかやなぎけんぞう、たおかりょういち、)
2月には内外法政研究会が発足し、高柳賢三、田岡良一、
(いしばしたんざんらがせんそうはんざいにんのほうてきこんきょやかいせんせきにんなどについての)
石橋湛山らが戦争犯罪人の法的根拠や開戦責任などについての
(けんきゅうほうこくをおこなった。)
研究報告をおこなった。
(またいがいなことにすがもこうちしょではさいばんまえのじんもんだんかいからしゅうかんしゃ)
また意外なことに巣鴨拘置所では裁判前の尋問段階から収監者
(どうしのかいわはじゆうでいくらでもくちうらをあわすことがかのうであった。)
どうしの会話は自由でいくらでも口裏を合わすことが可能であった。
(そのためか、ここのにんげんのさいばんにたいするしせいはていかんにつつまれて)
そのためか、個々の人間の裁判に対する姿勢は諦観に包まれて
(ことさらあらそおうとはしないものなどもいてさいもあったものの、)
殊更争おうとはしないものなどもいて差異もあったものの、
(ぜんいんがこれをほうせんととらえ、むざいをしゅちょうすることではいっちしていた。)
全員がこれを法戦ととらえ、無罪を主張することでは一致していた。
(また、ぼうりょくこういやうよくでなをしられたものもおおいbcきゅうせんぱんもともに)
また、暴力行為や右翼で名を知られた者も多いBC級戦犯もともに
(しゅうかんされており、はしもときんごろうなどはそのようなとりまき3、4めいが)
収監されており、橋本欣五郎などはそのような取り巻き3、4名が
(いたのをけいきちゅうのことであるがみられている。このことから、)
いたのを刑期中のことであるが見られている。このことから、
(さいばんのしんこうにしたがってここじんのせんりゃくのずれやせきにんのおしつけあいなどは)
裁判の進行にしたがって個々人の戦略のズレや責任の押し付け合いなどは
(あるていどあったものの、いくたのいんぺいやぎまんがおこなわれ、)
ある程度あったものの、幾多の隠蔽や欺瞞が行われ、
(おおくのしんそうがかくされ、あるいはいつわられたことはそうぞうにかたくない。)
多くの真相が隠され、あるいは偽られたことは想像に難くない。
(さいばん)
裁判
(こくさいけんさつきょくからしっこういいんかいへ)
国際検察局から執行委員会へ
(1946ねん(しょうわ21ねん)2がつ2にち、いぎりすだいひょうけんじがらいにちする。)
1946年(昭和21年)2月2日、イギリス代表検事が来日する。
(2がつ13にちにじょせふ・きーなんあめりかがっしゅうこくだいひょうけんじが)
2月13日に ジョセフ・キーナンアメリカ合衆国代表検事が
(あめりかいがいのけんじはさんよであるとのつうたつをだすと、いぎりす、)
アメリカ以外の検事は参与であるとの通達を出すと、イギリス、
(えいれんぽうけんじはこれにはんぱつし、3がつ2にちにかっこくけんじをめんばーとした)
英連邦検事はこれに反発し、3月2日に各国検事をメンバーとした
(しっこういいんかいがせつりつされる。)
執行委員会が設立される。
(しっこういいんかいいちらん)
執行委員会一覧
(じょせふ・きーなん(あめりかがっしゅうこくはけん)-しゅせきけんさつかん)
ジョセフ・キーナン(アメリカ合衆国派遣) - 首席検察官
(あーさー・s・こみんず・かー(ぐれーとぶりてんおよびきたあいるらんど)
アーサー・S・コミンズ・カー(グレートブリテンおよび北アイルランド
(れんごうおうこくはけん)-じせきけんさつかん)
連合王国派遣) - 次席検察官
(せるげい・a・ごるんすきー(そびえとしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽうはけん))
セルゲイ・A・ゴルンスキー(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)
(あらん・じぇーむす・まんすふぃーるど(えいごばん))
アラン・ジェームス・マンスフィールド(英語版)
((おーすとらりあれんぽうはけん))
(オーストラリア連邦派遣)
(ろなるど・へんりー・くいりあむ(にゅーじーらんどはけん))
ロナルド・ヘンリー・クイリアム(ニュージーランド派遣)
(さいばんのすすめかたやみそついせんぱんのこうりゅうがながいことにこうぎし、)
裁判の進め方や未訴追戦犯の拘留が長い事に抗議し、
(1947ねんまつにきこくしている。)
1947年末に帰国している。
(へんりー・ぐらたん・のーらん(えいごばん)(かなだはけん))
ヘンリー・グラタン・ノーラン(英語版)(カナダ派遣)
(むかいあきらしゅん(ちゅうごくごばん、えいごばん)(ちゅうかみんこくはけん))
向哲濬(中国語版、英語版)(中華民国派遣)
(ろべる・l・おねと(ふらんすきょうわこくはけん))
ロベル・L・オネト(フランス共和国派遣)
(w・g・f・ぼるげるほふ・まるでる(おらんだおうこくはけん))
W・G・F・ボルゲルホフ・マルデル(オランダ王国派遣)
(ごびんだ・めのん(いんどはけん))
ゴビンダ・メノン(インド派遣)
(ぺどろ・ろぺす(えいごばん)(あめりかりょうふぃりぴんはけん))
ペドロ・ロペス(英語版)(アメリカ領フィリピン派遣)
(ひこくにんのせんてい)
被告人の選定
(1946ねん(しょうわ21ねん)1がつ、ひこくにんのせんていにあたっていぎりすは)
1946年(昭和21年)1月、被告人の選定にあたってイギリスは
(にゅるんべるくさいばんとどうようにちめいどをきじゅんに10にんをしめいした。)
ニュルンベルク裁判と同様に知名度を基準に10人を指名した。
(しっこういいんかいの4がつ4にちかいぎでは29めいがえらばれるが、4がつ8にちには)
執行委員会の4月4日会議では29名が選ばれるが、4月8日には
(いしわらかんじ、まさきじんざぶろう、たむらこうがじょがいされた。4がつ13にちにはそれんけんじが)
石原莞爾、真崎甚三郎、田村浩が除外された。4月13日にはソ連検事が
(らいにちしたが、それんがわはてんのうそついをもとめなかった。そのかわり4がつ17にち、)
来日したが、ソ連側は天皇訴追を求めなかった。そのかわり4月17日、
(それんはあゆかわぎすけ、しげみつまもる、うめづよしじろう、とみながきょうじ、ふじわらぎんじろうのきそを)
ソ連は鮎川義介、重光葵、梅津美治郎、富永恭次、藤原銀次郎の起訴を
(ていあんし、そのうちしげみつとうめづがついかされ、ひこくにん28めいがかくていした。)
提案し、そのうち重光と梅津が追加され、被告人28名が確定した。
(ひこくにんいちらん)
被告人一覧
(しょうさいは「aきゅうせんぱん#きょくとうこくさいぐんじさいばんにきそされたひこくにん」をさんしょう)
詳細は「A級戦犯#極東国際軍事裁判に起訴された被告人」を参照
(あらきさだお)
荒木貞夫
(いたがきせいしろう)
板垣征四郎
(うめづよしじろう)
梅津美治郎
(おおかわしゅうめい)
大川周明
(おおしまひろし)
大島浩
(おかたかずみ)
岡敬純
(かやおきのり)
賀屋興宣
(きどこういち)
木戸幸一
(きむらへいたろう)
木村兵太郎
(こいそくにあき)
小磯國昭
(さとうけんりょう)
佐藤賢了
(しげみつまもる)
重光葵
(しまだしげたろう)
嶋田繁太郎
(しらとりとしお)
白鳥敏夫
(すずきていいち)
鈴木貞一
(とうごうしげのり)
東郷茂徳
(とうじょうひでき)
東條英機
(どいはらけんじ)
土肥原賢二
(ながのおさみ)
永野修身
(はしもときんごろう)
橋本欣五郎
(はたしゅんろく)
畑俊六
(ひらぬまきいちろう)
平沼騏一郎
(ひろたこうき)
広田弘毅
(ほしのなおき)
星野直樹
(まついいわね)
松井石根
(まつおかようすけ)
松岡洋右
(みなみじろう)
南次郎
(むとうあきら)
武藤章
(きそじょうのさくせいかてい)
起訴状の作成過程
(1946ねん(しょうわ21ねん)4がつ5にちのしっこういいんかいでいぎりすの)
1946年(昭和21年)4月5日の執行委員会でイギリスの
(あーさー・s・こみんず・かーけんじはきそじょうあんをはっぴょう、そのなかで)
アーサー・S・コミンズ・カー検事は起訴状案を発表、そのなかで
(「へいわにたいするつみ」のきょうどうぼうぎを、1931ねん~1945ねんの)
「平和に対する罪」の共同謀議を、1931年〜1945年の
(「ぜんぱんてききょうどうぼうぎ」と4つのじきにおよぶこべつてききょうどうぼうぎ)
「全般的共同謀議」と4つの時期におよぶ個別的共同謀議